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脱学校的人間(新編集版)〈78〉

 「ヴァリューとワースをめぐる混同」についてはハンナ・アレントも、その「歴史的経緯」を次のように考察している。
「…哲学の場合も、『価値』(ヴァリュー)という用語を用いたためにそれよりもひどい混乱が生じている。これは、もともと、(ジョン・)ロックの場合にはまだ見られる古い『価値』(ワース)という言葉を、外見上はもっと科学的に見える『使用価値』(ユース・ヴァリュー)という用語に置き代えたために引き起こされたものである。…」(※1)
 さらにアレントは、そのように「新しく出現してきた使用価値=ヴァリュー」に置き代えられてしまった、あるいはそれに乗っ取られてしまったとされるところの、「もともとの古い価値=本来的な価値=ワース」について、次のように説明する。
「…(『物に生来的な自然の価値(ワース)』とは)物それ自体の客観的な質であって、それは、『個々の買手や売手の意志の外部にあり、好き嫌いに関係なく、その存在をともかく認めなければならぬ物それ自体に固有のなにか』である。…」(※2)
「…この物に生来的な価値(ワース)は、物それ自体の変化によってのみ変化しうるものである。たとえば、テーブルの脚を一本とれば、もはやテーブルの価値(ワース)はなくなる。…」(※3)
 しかし、たとえば人知れず砂漠の真ん中に放置されたテーブルがあるとして、たとえそれに足がきちんと四本揃っていたとしても、「それ自体で、テーブルとしての生来的な価値を持っている」と言えるだろうか?それはテーブルとして、はたして「どのような価値を持ちうる」ものなのだろうか?なお言えば、それがはたしてそもそも「価値である必要」があるのだろうか?そしてそもそもその物は「テーブルである必要」があるのだろうか?また、一体誰がその価値を「その存在をともかく認めなければならぬ、物それ自体に固有の何か」として見出し、一体誰が「その物それ自体の変化」を見届けるのだろうか?一体誰がそれを「客観的にテーブルだと認める必要」があるのだろうか?要するに、一体誰がそれを「テーブルとして使用する」というのだろうか?

 もしもアレントの言うように、「人目につく生産は生産者社会の特徴」(※4)なのだとして、そしてその「人目につく生産による生産物あるいは商品」がヴァリューすなわち「価値」なのだとして、それが社会的に誰もが扱いうるような人目につく場所、すなわち「市場」に持ち出され、そしてそれが市場の人々の間で「公に交換される」のであるならば、むしろそのような「人目につく価値=ヴァリュー」こそが、「それまでは人目につかなかった物にも内在していたはずの、その物に生来的な価値あるいは自然の価値」に対して、そして「それまでその物が置かれていた人知れぬ暗がり」に向けて光を当て、「その物を公の場に引き出し、そこでその物を人の目につかせようとする」のではないだろうか?つまり、そのような人目につく価値すなわちヴァリューがそもそもなければ、それまで人目につかなかった物に内在していた、その物に生来的な自然の価値すなわちワースなどといったものは、結局いつまで経っても「誰の目にもつくことはなかった」のではないだろうか?
 「単なる山が、見られることによって風景になる」(※5)ように、「単なる物が人目につくことによって商品となり価値となる」のである。その意味で言えば、「単なる山は、人に見られることによって観光商品として価値を持つことになる」ということでもあるわけだ。人目につく物は、とにかく何でも商品になりうる。しかし、「誰の目にも触れることのない商品は、風景でさえない」のだ。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 アレント「人間の条件」志水速雄訳
※2 アレント「人間の条件」志水速雄訳
※3 アレント「人間の条件」志水速雄訳
※4 アレント「人間の条件」
※5 柄谷行人「日本近代文学の起源」


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