不十分な世界の私―哲学断章―〔7〕

 人が現実において行為するとき、しばしば「何も意識せずに行為する」ことがある。けれども、まさに人はそれを意識していないがゆえに、その行為はまたしばしば、その事前において「予測」していたこととは全く違った結果になってしまうことがある。むしろ、大体の場合で事前に思っていた通りにいったためしがない、という人も多いだろう。そんなとき、人は実は自分が「意識しないでいたつもりが、本当はどこかで意識していた」のだということに気がつくのかもしれない。
 行為とは本質的に、「自らの行為のみにおいて成り立つ」ものではなく、「対象との関係において成り立つ」のであって、つまり行為とは「その対象へのはたらきかけ」なのである。それは反面では「その対象からのはたらきかけの作用」においても成り立っているという意味で、「対象との相互的な関係」において成立する。だから、もしその行為が「自分自身に意識されていない」ものであるとしたら、その対象からのはたらきかけの作用=結果についても、その自らの行為においては「自分自身では事前に考えられていない」ということになる。

 あるいはもしかすると、人が意識しないで行為することがあるというのを、そのとき人がその行為において成立するはずの対象との関係を、そのように行為する事前に「すでに知っているつもりだった」ので、だからその行為においては「それをあえて自分では意識しないでもいられた」のであって、またそれで何ら支障なく行為することが「できるはずだと思っていた」のだ、と人は言うのかもしれない。しかし、仮にたとえ本当にそのようなことも含めて、人が「自分自身の行為の事前にすでに考えていた」のだとしても、対象からのはたらきかけもあってはじめて成り立つものとして見出される、その対象との関係性においては、その対象からのはたらきかけを、「その対象に替わって、自ら行為する」わけにも、あるいは「その対象に替わって、自らによって実現する」わけにもいかないだろう。
 対象との関係性が成り立つのは、その対象の「主体的な行為」にもかかっているのだ。その行為を通じた「対象からのはたらきかけの作用」が、実際には「思っていたのと違うものであった」としたら、こちらからのその対象へのはたらきかけについても、それに応じて、実際には「考えていたのと違うもの」にならざるをえないはずだ。また、たとえそれが実際に「思った通りだった」としても、もし本当にそれを「事前に知ることができる」のだとしたら、その関係性は「すでに事前に成立しているはず」なのだから、むしろ人はその対象に対して、何ら「実際にはたらきかける必要がない」のではないか?つまり、「実際に行為する必要がない」のではないのか?それなのに、それでも人は「行為してしまう」のだとしたら、やはり彼は「それを知らない」のであり、だとしたらやはり何らその対象との関係性は「成立していない」のだ、と言わなければならない。

 「人が意識しないで行為する」というとき、そこで意識されていないのは、あるいは「無視されている」のは、要するにその行為の対象の「主体性」であり、逆に心のどこかで本当は意識されていて、それを頼みにしているのは、その行為の「結果の自明性」である。結果が自明だと「信じきっている」からこそ、安心して何も意識しないで行為できているつもりなのである。しかしこの安心はたいがい、手痛いしっぺ返しを食らうことになる。関係性は相互のはたらきかけの作用によって成立する。とすれば、「こちら側」からのはたらきかけの意図としては、そこに成立している関係性の「結果」は、常に過剰であり、あるいは欠如でもありうる。

〈つづく〉

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