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【育児に関するぼくと妻の共通ルール】手を出さない、逃げ場をつくる

子育てに「正解」があるかはわからない。でも「不正解」であれば、ぼくは即答できる。

暴力で子どもを矯正すること、閉鎖環境に子どもを追いやること。

これらは、何があってもわが子に課されることはない。それが同じ「傷」をもつ、ぼくと妻の共通した育児のルールだ。

1. 絶対に手を出さない

子どもには絶対に手を出さない。育児における、どのような場面でも、殴る蹴るなどの暴力は容認しない。

妻とぼくは子どもの頃、体罰の経験がある。そこまで深刻なものではなく、時代背景が許してきたレベルのものだ。

だが、その体罰の経験を乗り越えて得られたものに何があったか。

いま思えば、過剰な「礼儀正しさ」だけだ。単に暴力が怖かっただけなのだ。

自身の経験と照らし合わせても、体罰は、健全な感情の発達とバランスの取れた能力の向上には、一切寄与しなかった。

親になってわかったことがある。子どもは暴力で支配できるということだ。

支配欲。子どもが小さければ小さいほど、言うことを聞かなければ聞かないほど、暴力は有効に作用する。でもそれは教育ではない。欲求を満たしているだけだ。

体罰する輩は、もう自分が体罰される恐れがないから、安心して体罰をしているだけだ。

彼ら彼女らも自分がいま体罰を受ける立場になれば、必ず体罰をやめる。ならばそれは信念をもった教育とはいえないだろう。ただの戯言だ。

体罰を一切しないとき、子どもは自由になる。生意気になるし、自己主張が激しくなり、親の言うことを聞かなくなる。毎日の生活で大変な機会が増える。

簡単にいえば、イラっとすることが増える。それでも根気よく、決して手を出さず教え諭していくことがぼくにはできるし、同じ思いをもつ妻が支えてくれることから安心だ。

体罰はしないー 決めれば、できないことはないのだ。

2. どこかに逃げ場をつくる

核家族の場合、人間関係が固定化されるため、子どもが小さければ小さいほど、親との関係性でうまれるストレスを吐き出す場所がない。

ぼくも妻も(おそらく誰も)聖人君子ではないので、感情に任せて怒ることは避けられない。

でも一方が怒っているときは、他方が子どもの防波堤になることを心掛けている。少なくとも、両方同時には絶対に怒らない。

必ず防波堤をつくる。ぼくの子どもは妻に怒られるとぼくにハグを求めてくるし、ぼくが怒るときは妻にハグを求めている。それでいいと思っている。

子どもがうまれてから、祖父母の家に定期的に通わせている。お互い愛着がうまれるので彼ら彼女らは仲良しだ。

子どもがぼくたちに叱られたとき、自分なりに理不尽だと思えば祖父母のもとに逃げればいいと思っている。子どもはぼくと妻のロボットではないのだ。

権力は絶対に固定化しない。逃げ場所は常に提供する。それがぼくと妻の子育てにおける鉄の掟であり、お互いを抑制する安全網なのだ。


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