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生き方すら「商品化」された空虚な現代社会

現代社会は物質的・技術的に豊かになり、社会保障も整備され、都市も発展し、ほとんどの人は安定した生活インフラを手に入れ、一定の安定した、特段不自由のない生活を送れるようになりました。しかし、どこか空虚感を覚えてしまうのは私だけだでしょうか。個々の生き方という観点から、私が感じる現代社会を覆う空虚感について考察したい。

まず結論から述べると、私が考える空虚感の原因は、生き方の「商品化」にあります。

現代人は、便利で自由な人生を送れるようになった事は間違いありません。職業的選択肢は増え、収入源を複数持ったり、知りたい情報はGoogle検索ですぐ入手できるようになり、インターネットを通じた個々の自由な発信も可能になりました。マクロの視点では、機能的で自由な社会に発展しました。

しかし、ミクロの視点で個々の生き方に焦点を当てると、むしろ虚無的で不自由になっていないだろうか。

まず、「自由」を定義してみたい。私の考える自由とは、「何の目的もなく無条件で純粋に何かに取り組んでいる状態」です。

例えば、単に絵を描きたいから絵を描いている状態は自由な状態です。誰にも絵を描いて欲しいと頼まれていないのに、純粋に絵を描きたいという衝動から絵を描いているのです。描く対象も好きなものを選べます。風景でも、動物でも、果物でも何でも良いです。一方、美術の授業で想像してみて下さい。この場合、美術で良い成績を取るという目的があって、その為に様々な絵画技法や描くテクニックを駆使したとしましょう。これは不自由な状態です。すなわち、合目的的で、手段的な状態です。美術の授業ですので、評価される人(生徒)がいて、それを評価する人(先生)がいるのは当たり前なのですが、この構図はある意味不自由を生み出しているとも言えます。

人生の生き方も本来は自由です。誰もが幸せに生きたいと思っており、幸せの定義も千差万別です。「個々がそれぞれの幸せを自由に求め、純粋に人生を謳歌してこそ真の人生だ」と、誰もが分かっているのに、それを実行できている人は、少数派だと思います。その原因は、多数派は人生の消費者になっている為だと考えます。

人生の消費者とはどういう意味か後述します。

マルクスの『資本論』において、資本主義とは、資本の増殖を目的としたモノの商品化と形容されますが、生き方(=キャリア開発)にすら商品化の波が押し寄せているのでないかと私は考えます。

キャリア開発と言えば、過去から将来にわたる職務経験やこれに伴う能力開発を中長期的に計画することを意味しますが、どのように生きるかと同義だと考えます。キャリアとは、積み重ねた実地の経験を意味しますので、人生そのものです。キャリアといえば、ついつい職務経験を連想しますが、趣味経験の積み重ねもキャリアになりますし、読んだ本・勉強してきたこと・旅先の経験も十分キャリアに値します。人生という大きな括りの中にキャリアが位置しているのではなく、「人生=キャリア」というのが私の考えです。例えば、プログラミング歴10年のようにキャリアは何かを継続して実力をつけるものとイメージする人も多いかもしれませんが、継続は必要条件ではないと考えます。もちろん継続すれば、経験は血肉化しますが、極論、プログラミング歴1日であっても、プログラミングを経験したという事実にはプログラミング歴10年の人と変わりません。継続が必要条件になるのは、実力をつけたい場合です。実力とは相対的な優位性を示す巧拙の尺度と定義すると、一定期間において、経験が多い人の方が少ない人より優位である事は明らかですが、絶対に実力をつける必要があるのでしょうか(常に何かしらの競争原理が働くので仕方ない部分もありますが)。

キャリアを積むことは、何かのスキルアップが前提となっていますが、何かを経験する事だけでも立派なキャリアだと私は考えます。百聞は一見に如かずという諺があるように、自ら動いて何かを経験することはそれだけ尊いことなのです。つまり、キャリアとは人生そのものであり、その質(実力)を高めるかは本人次第であって、とことん何かを自由に経験することだと考えます。しかし、本来自由な人生(キャリア)が商品化されているとはどういう事かというと、例えば、以下のようなイメージです。

①相対的に高給取り・グローバルに勤務可・経済的に安定した人生を送れる
②年収3,000万円超・実力ある人は優遇される・事業会社のCFOになれる可能性あり
③ロジカル思考を鍛えられる・転職市場で評価は高い・経営人材になれる可能性あり

ちなみに、①=総合商社業界、②=外資金融業界、③=戦略コンサル業界です(笑)

分かりやすい例を示す為に、一般的にエリートと思われるような業界をピックアップしましたが、「現代社会は生き方すら商品としてパッケージ化され多くの人は相対的に優良な人生パッケージを獲得する為に合目的的・手段的に行動し、その人生パッケージを消費しているだけに過ぎないのではないだろうか」というのが今回の命題です。

これが私の感じる現代社会の空虚感の原因です。

私も以前は、①の人生パッケージの消費者でした。そして、新たな人生パッケージとして②③の商品も検討していましたが、②と③の間を取ってM&Aコンサルという業界を選びました。私も人生の消費者として、単に魅力的な人生パッケージに飛びついていただけだったというのが、社会人4年を通じた人生の教訓です。4年間で得た学びは、人生を消費するだけだと空虚感しかないという事です。

資本主義が「資本家」対「労働者」の構図を生み出すのと同時に、「生産者」対「消費者」の構図も生み出したと、前回の記事で記載しましたが、この構図が個々人の人生にすら浸食していると考えます。

現代は、GoogleやYouTubeで検索すれば、各業界の収入・築ける資産レンジ、各業界出身者のキャリアパス・職務内容・激務度合い・主な結婚相手、学歴分布・世間からの評価・評判などの定性情報を瞬時に把握できます。つまり、一定程度まで将来が可視化された状態になっています。そして、人生の消費者は多様な人生パッケージから、一定期間の将来を見据えた上で自分の能力・価値観・個性と合った人生パッケージを消費しているに過ぎないのです。人気パッケージは、もちろん競争が熾烈です。その熾烈な競争を勝ち抜く為に、合目的的・手段的に行動し、人気パッケージを入手した者がエリートの称号を手に入れるのです。そして次はエリート同士で、エリートの中のエリートを決める競争が始まり、永遠の競争ループから抜け出せなくなるのです。つまり、人生の消費者である限り、常に競争に晒され、ある意味不自由な人生を送ることになるわけです。競争を勝ち抜く事に意義を見出せる人にとっては、その不自由さを受け入れる事ができるかもしれませんが、私は空虚感を覚えました。

幸せかどうかは、消費者のままかクリエーターになるか、ということでも分かれると僕は思っています。楽しさや幸せを、「お金を使うことで感じる人」は一生幸せになれません。それは、幸せを感じ続ける為にお金を使い続けるなくてはいけないので、アラブ石油王であれば別ですが、多くの人には限界があるからです。
引用:ひろゆき 『無敵思考』

これは幸せに生きる為の1つのヒントです。消費者マインドから抜け出す事は、幸せを掴む為の一つの重要な要素だと考えます。これはモノの消費に関する指摘ですが、人生パッケージにおいても同様です。人気人生パッケージを入手する為の手段的な自己投資をする人は消費者マインドから抜け出せていないと言えます。例えば、プログラマーの人生パッケージを手に入れる為に、プログラミングを学ぶ自己投資をする人を取り上げたいと思います。プログラミングを学ぶ動機が手段的であっても、たまたまプログラミングに歓びを見出せたら話は別ですが、プログラマーの人生パッケージの定性情報(例えば、食いっぱぐれない職種・市場価値が高い・場所を選ばない働き方ができる等)を自己の幸福感受性より優先している状態だと、それは本当に意味で幸せだと言えません。プログラミングが自分とが合わないとなった場合、また別の人生パッケージを手に入れる為に、資格勉強や自分磨きに励んでも、結局消費スパイラルから抜け出せないのです。もちろん、最悪なのは何も行動しない事ですが、人生の消費スパイラルにいる限り、本当の意味での幸せは掴めないと考えます。

一方、先ずは色々試して経験してみる事も極めて重要です。なぜなら経験してみないと何も分からないからです。動機が手段的であれ、自分が偶然歓びを見出せるものである可能性もある為、一定の人生の消費は誰にでも必要である事は事実です。自分がどのような活動に夢中になり、どのような活動はシラけるのか、消費する中で見極める事が重要です。

結果的に成功した人は一体どのようなキャリア戦略を考え、どのようにそれを実行しているのか。この論点について初めて本格的な研究を行ったスタフォード大学の教育学、心理学の教授であるジョン・クランボルツは、アメリカのビジネスマン数百人を対象に調査を行い、結果的に成功した人たちのキャリア形成のきっかけは、80%が「偶然」であるという事を明らかにしました。彼らの80%がキャリアプランを持っていなかった、というわけではありません。ただ、当初のキャリアプラン通りにはいかない様々な偶然が重なり、結果的に世間から「成功者」とみなされる位置にたどり着いたということです。
引用:山口周『ビジネスの未来』

このように成功者のほとんどは偶然の積み重ねによって成功している事実から、「良い偶然」を引き寄せる為の消費行動が重要だと分かります。

ここで、私の提案は人生の消費スパイラルに陥らない為に、自立した人生の消費者になるという事です。人生の消費者の対義語として、崇高な自己実現や目標を達成する、人生の創造者を想像するかもしれませんが、必ずしも人生の創造者になる事が全員にとって幸せな状態であるわけでもありません。昨今は「ドリーム・ハラスメント」と言って、若者が「夢」に押しつぶされる実態を形容する言葉さえあります。重要なのは、人生の消費スパイラルに陥らない為に一定の人生の自由枠を確保しておくべきという事です。

創造的な人々は、自らの感情と極めて密接に関わっている。彼らは常に、自分が行っていることの理由を理解しており、痛みや退屈、歓び、興味、そして他の感情に極めて敏感である。退屈を感じると、素早く荷物をまとめてその場を立ち去り、興味を抱くと、素早く関わりを持ち始める。
引用:ミハイ・チクセントミハイ『クリエイティヴィティ』

心理学者であるチクセントミハイによれば、創造的な人の思考様式及び行動様式は、自己の感情と極め密接に繋がっていると指摘していますが、人生の自由枠、すなわち自己の感情や内発的衝動に素直に従う余地も確保しておくという事が重要だと考えます。消費枠と自由枠の適切なバランスは人それぞれだと思いますが、消費枠のみで人生を埋めてしまうと、消費スパイラルに陥ってしまいます(私も以前は、消費枠100%でキャリアを歩んでいました)。

キャリアとは人生経験そのものであり、とことん何かを自由に経験する事だと先述しましたが、言い換えると、人生の自由枠もしっかり確保して、消費枠と並行して活用する事です

ConsummatoryはInstrumental(手段的)の反対語である。手段の反対だから目的かというと、それは違う。目的とか手段とかいう関係ではない、ということである。<私の心は虹を見ると踊る>という時この虹は何かある未来の目的の為に役立つわけではない。つまり手段として価値があるわけではない。かといって「目的」でもない。それはただ現在において、直接に「心が躍る」ものである。新しい価値をつくるための活動はそれ自体心が躍るものでなければならない。楽しいものでなければならない。その活動を生きたとうことが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放の為の実践はそれ自体が解放でなければならない。
引用:見田宗介 『現代社会はどこに向かうのか』

コンサマトリーな価値に根付いた活動、つまり自己充足的な内発的衝動に基づいた活動を、人生の自由枠に取り入れることで、自立した人生の消費者になれるのではないかと考えます。

例えば、私の場合ですと、現職のM&Aアドバイザーという職種における自由枠は新規案件作成や価値試算業務です。これらの業務は、単純に好きで理由はありません。もちろん、他に面白くない業務もありますが、なるべくこれらの経験を積めるような努力をしてます。

人生の自由枠を100%にして、オリジナルの人生パッケージを作る事も可能ですが、個々の経済的・性格的条件やリスク許容度がある中、全員がそれを実行できるわけでもないですし、必ずしも全員がその適性があるわけでもありません。それぞれの塩梅が必ずあります。しかし、消費枠100%の人生だと消費スパイラルから抜け出せないまま、空虚感を覚えたり、必ずどこかで限界に達します。

最後に手順を整理すると以下の通りです。

①関心のある人生パッケージを消費する中で、まず多様な分野に視野を広げ、とことん自由に経験を積む
②パッケージの消費と並行して、幸福感受性のアンテナを張り、自分がわくわくする瞬間、心躍る瞬間、シラける瞬間、退屈になる瞬間など客観的に把握する
③幸福感受性をある程度把握できたら、人生の自由枠を設けて、コンサマトリーな活動を取り入れる
④自分の消費枠と自由枠の調和した塩梅が分かってきたら、今の人生パッケージにおいて、その塩梅の持続可能性を検証する
⑤自分の納得しない塩梅である人生パッケージであれば、別の人生パッケージを試す

①~⑤を繰り返す中で、どれも合わなかったらオリジナルの人生パッケージを作れば良いと思います。

このように考えると、結局人生は何でも自由に経験すれば良しという、シンプルな答えに至ります。あまり難しく考えすぎないぐらいでちょうど良いかもしれません(笑)

ただ、強く思うのは、個々の人生の自由枠を尊重し合う社会ができれば、より心豊かな社会になるのではないかという事です。現代社会は、どことなく消費者マインドで覆われている気がします。

人生は最終的にどれだけ自分の人生に尊厳を持てるかに尽きると考えます。どんな小さな尊厳であれ、それを守り切る事で自立した人生の消費者になれると私は信じています。

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