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間宮改衣 『ここはすべての夜明けまえ』 : 何かが引っ掛かってスッキリしない。

書評:間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』(早川書房)

う〜ん、どう評価したらいいのか、ちょっと困ってしまう作品だ。
決して悪い作品ではないのだが、かと言って、特別良いというわけでもない。十代で読んでいたら、きっとものすごく感動したと思うのだが、六十も過ぎて、人間の問題や社会の問題、そして家庭の問題や、そもそもの生きる意味なんてことについて、いろいろ勉強したり、自分なりに考えて、じっさいに自分の問題として幾度か決断もしてきて、特に後悔ということもしていない人間としては、本書で語られる問題は、どこか切実さを欠いて、いかにも小説の中だけのそれ、つまり、小説の中だけの「切実さ」のように感じられる。

語り手である主人公は『1997年生まれ。2022年、父親のすすめで、体を機械に置き換える〝ゆう合手じゅつ〟(サイボーグ化処置)を受け、25歳のまま永遠に老化しなく』大森望『新刊めったくたガイド』)なった女性なのだが、精神年齢的には「小学校高学年」くらいな感じ。つまり、まだ、子供の女の子という感じだ。

25歳の彼女にうりふたつの機械の体、そして、その中の機械の脳に、それまでのすべての記憶を移植し、さらに新しい経験はメモリに保存する。またその「新情報」を、彼女がそれまで持っていた知能と個性で理解し経験化できるようだから、精神的に歳をとっていきそうなものなのだが、この物語の中の彼女は、100年後になっても、手術時より知的に成長した様子はない。
と言うか、この「一人称の物語」は、不死に等しい彼女が、後になって、死んでいった家族のことを「家族史」として書いたものなのだから、これを書いているのは、家族の記憶を描いた、物語の中の主たる部分よりもずっと後なのだ。その段階で、「漢字を書くのが面倒」という理由から、簡単な漢字まじりのひらがな多用で書かれたその文章から受ける印象が、「小学校高学年」くらいの「幼い」感じなのである。

だとすると、彼女の精神年齢及び知的年齢は、退化したのだろうか? それとも、もともと知的遅滞の障害があったということなのだろうか?
なぜ、手術時の年齢に不相応に「心が幼い」のか、その理由はハッキリ書かれていなかったはずだ。
そもそも、全編彼女の語りであり、彼女自身、その「年齢不相応な幼さ」の理由をはっきりと自覚しているような様子もなければ、そこまでの状況理解能力があるのかないのかも微妙なところなのだ。

ただ、疑いうる理由としては、彼女は幼い頃から父親に性的虐待を受けていたということがある。
妻にベタ惚れしていたらしい父親は、彼女を産むことで死んでしまった妻の面影を、この娘に見て溺愛し、その結果、性的虐待にまで至ったようである。また、そうしたこともあって、彼女には摂食障害があって、家で寝たきりに近い状態だったためか、まともに学校へは行かなかったようだ。
だから、知的に幼いというのは、ある程度しかたないとしても、やはりどう考えても25歳の女性に書いたものとは思えない。

彼女の記述によると、父親は、彼女を「かわいい、かわいい」と言って可愛がっていたようだから、彼女の成長を望まなかったという側面があって、そうした父の支配的な意識を彼女が内面化したため、彼女の心は、幼くして成長をストップしてしまったのかもしれない。
彼女が、父親の性的虐待を歓迎していた様子はなく、当然のごとく、嫌がってはいたものの、なにしろ生きていくため、父親に全面的に依存せざるを得なかったので、なかば無意識に、その支配的な意思を内面化し、言うならば「順応・適応」して、自分が父の「溺愛」を嫌悪していないと思えるよう、心に蓋をしていたのかもしれない。また、その同じ理由から、性的なものを理解しない年齢で、心の成長をストップさせてしまったのかもしれない。

しかし、父親は、彼女に「亡き妻」の面影を投影して溺愛していたのだから、彼女の成長を望んでいなかったというわけでもなさそうである。少なくとも、妻が亡くなった年齢くらいまでは、娘の成長を望んでも不思議はない。
だが、実際には、父親は、25歳になった娘に〝ゆう合手じゅつ〟を受けるように進めたのだから、それくらいが一番美しいとでも思ったのだろうか? そのあたりも、よくわからない。

いずれにしろ、彼女の心が「小学校高学年」くらいで止まっているのは、父がその年齢をベストだと思ったということとは、ちょっと違うようにも思えるのだが、もしかすると、もともと父親には「ロリコン」の気があって、「亡き妻」よりも、さらに幼い、妻によく似た幼い娘をベストだとでも思ったのであろうか? そして、その意思を読み取って、彼女は「小学校高学年」くらいで、心の成長をストップさせてしまったのだろうか? そうではなく、やはりそこは、自分から性的に未熟な段階の意識に、自己防衛的に止まったということなのだろうか。

それとも、もしかすると〝ゆう合手じゅつ〟にそういう副作用があったということなのだろうか? 長い時間をかけて、徐々に知的年齢が退化していくというような。
しかし、彼女の記述には、〝ゆう合手じゅつ〟について、そのような副作用が出て社会問題化したというような事実は語られてはいないし、そのあたりのことを隠そうとするような意識はなさそうだから、そのあたりは、彼女の記述を信じても良さそうだ。

結局、なぜ、25歳で〝ゆう合手じゅつ〟を受けた彼女の意識が「小学校高学年」くらいなのか、よくわからないままなのだ。

私が、以上書いたようなことは、きっと多くの読者にとっては、本作を評価するうえでの本筋ではないだろうと思う。

この同情すべき「語り手」の物語に、多くの読者は、言うなれば「エモい」ものを感じて「感動」するのだろう。そしてその上で、彼女が淡々と語る「家族の問題」なんかについても考えるのだろう。
だが、私個人としては、この物語に多くの人が『アルジャーノンに花束を』を連想したり、大森望『クララとお日さま』を連想したような部分での「幼さと残酷な現実とその切なさ」が生む「リリシズム(抒情性)」に酔うことができないし、お話としても「既視感」がないでもないから、もっぱら「どうして彼女の心は幼いのだろうか?」という、私個人の興味に終始した。

決して、こういう物語が嫌いなわけではないのだけれど、どこか「狙ったとおりの効果を発揮した作品」という感じもして、これはこれで「感情搾取」の一種ではないかと、そう感じるところもないではない。
まあ、小説なんて、特に娯楽小説なんてものは、「泣かせてナンボ」、そうした意味で「感動させてナンボ」みたいなものなのだから、そのような作品だと感じられたからといって、この作者を責めようとは思わない。

だが、「これは何か違う」という気持ちが、どこかで禁じ得ないのだ。「可哀想な女の子の物語」プラス「ちょっとした社会問題提起」みたいな本作は、やっぱり後者は「おまけ」みたいなものであり、メインは「可哀想な女の子の物語」に「感動」し、「感動消費する」といった感じのものなのではないか、という印象が否めない。

これは、私が気難しすぎるからだろうか?
しかし、「子供の不幸の対価としての天国入り」を断罪したイワン・カラマーゾフの告発」に深く共感した、子供好きの私としては、こういう「切ない物語」というのには、どうにも胡散くささを感じないわけにはいかないと、そういうことなのだろうか。

自分の感情について「疑問形」で書くというのもパッとしない話のだが、要は、断定まではしないものの、本作には、本質的な部分で「引っかかるところがある」ということから、このようなレビューになったのではないかと思う。

「あらすじ」については、次の、牧眞司によるレビューをご参照願いたい。


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(2024年4月6日)

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