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Kashmir 『ぱらのま 7』 : 「愛」を語るには。

書評:Kashmirぱらのま 7』(白泉社・楽園コミックス)

「鉄道旅行オタ(乗り鉄)女子」のまったりライフを描いたシリーズの、第7巻だ。
先日、同じ作家の「鉄道旅行幻想譚」シリーズである『てるみな』の最新第5巻が刊行され、そのレビューを書いたので、それに少し遅れて刊行された、当『ぱらのま 7』のレビューも書こうと思って購読し、このようにレビューを書き始めたのだが、そこで初めて、前第6巻を読んでいないことに気がついた。

第6巻を買ったような気もするし、あるいは、他に読むものもたくさんあるので「ブックオフオンラインに落ちてからでいいや」と登録だけしておいて、そのまま忘れてしまったような気もする。
ただ、ここ「note」への『ぱらのま』のレビューが、第3巻から始まって、第4巻、第5巻と書いてきたので、ここらで、第1巻と第2巻を再読して、そのレビューを先に書こうかなどと考え、古本で購入した記憶はある。しかしながら、私は再読ということをほとんどしない人間なので、第1巻と第2巻の再読を後回しにしているうちに、また積読の山に埋もれさせてしまった。それで、第6巻のことも有耶無耶のまま、失念していたのではないかとも思う。

ともあれ、『ぱらのま』は読み切りシリーズだから、なにも刊行順に読む必要などないので、このまま当第7巻のレビューを書くことにしよう。

それに、そもそも、「呑気のんびり」が売りのこのシリーズに対し、第1巻から順にとか、抜けているところを埋めてから、などという「堅苦しく几帳面」な整理癖丸出しの向き合い方は、まったく合ってはいないと思う。
また本巻でも、そのことを指摘しているに等しいエピソードがあるのだ。あまり「完璧」などを目指すと楽しめなくなるから、「適当」な部分も大切にしなければならないと。一一それは、本巻所収の第77話「MAP」である。

このお話では、主人公の「乗り鉄女子」が、ある時、ふと、旅には必携の「地図」について考えてみる。
昔はもっぱら紙の地図だったのだが、今ではどうしても、お手軽なスマホのマップを使うことが多い。でも、紙の地図には紙の地図の良さがあるのだよなあなどと考えているうちに、「お手製の手描き地図を作ってみたい」と思いたち、画材屋に行ってスケッチ帳などを買い込むと、あそこの町は地図にすると面白そうだと、かつて訪うたことのある町を再訪する。

さて、町について、どのトピックを地図の落とそうかと、そんなことを考えながら、あっちこっちに注意を向けながら町を歩いてみると、以前には見落としていたものを色々と発見することができて、とても面白い。
しかしだ、そういうふうにして歩いていると、以前のようには、のんびりと歩くことができないし、思っていたように先へと進めない。やたらに時間がかかってしまうのだ。
そこで主人公は、情報というのは無限であり、私たちはその中から必要なものを適宜取捨選択して生きているのだから、興味ぶかい情報を、すべて押さえるなんてことは、そもそも不可能なんだし、そうする必要もないのだと、そう思い至るのである。

で、家へ帰った後は、「取材した情報」で、ぱんぱんになった、加熱気味の頭を休めることにした。そして数日後、

『頭の中の情報が 程よく落ち着いてから 描くくらいが ちょうどいいんだな』(P62)

という結論に達するのである。

つまり、情報というのも、多ければ良いというものではない、ということだ。

たしかに、それを読む側としては、情報は、少ないよりは多いほうが良いだろう。提供された情報の中から、必要な情報を自分で取捨選択できるからだ。
だか、情報量が大切なのなら、「自分で取材して、自分が描く(書く)」必要などなくて、ネット上に転がっている無限の情報を、ベタベタと「コピペ」する方が、よほど「効率的」なのである。

だが、そんなものには、「描き手の個性」などほとんど出ないし、読者からもそんなものは求められていないと言えよう。そこで求められているのは、描き手の存在ではなく、単に情報だけだからである。つまり、そこには「描き手の存在意義」など無い、ということになってしまうのだ。
そしてそれを、いま風にいうなら、そんなもので良いのなら、「生成AI」の方がよほどうまくてやってしまうだろう、ということなのである。

だから、私が「私の楽しみ」のために「旅」をするのなら、「情報量的な効率性」ではなく、あくまでも「好み」に基づく「主観的な満足度」が問題となるように、私が私の楽しみとして「地図を描く」のであれば、それは、客観的に見て「情報が少なかったり、不正確であったり」しても、それ自体はさしたる問題ではない、ということになる。なぜなら、情報量も、間違え方(情報の精度)も、それは「私(の個性)」のうちであり、そこを除いてしまったら、それは「私を表現したものにはならない」からである。

つまり、この第77話「MAP」に描かれているのは、ある意味では「作家性」であり「個性」の問題、「かけがえのない私」の問題なのである。

ときどきテレビの報道番組などで取り上げられる「撮り鉄」のマナー違反問題なんかも、結局のところ、彼らは「自分の楽しみ方」というのがわかっていないから、写真家が撮った写真の「真似」をして、それで評価されようとしているだけ、なのではないだろうか。自分の写真が撮れるほどの、自分が無いのだ。

しかし、その人が、本当に「鉄道」を愛し「旅」を愛しているのなら、その「愛」を語るにおいて、人真似なんてことはできないはずなのだ。
その人には、その人にしか語れない「愛」があり、愛の形があるはずだから、それを語れば、公刊されている地図やスマホのマップのような「情報量」や「正確さ」は無くとも、「手描きのマップ」のような、二つとない「個性と味わい」が出るはずなのである。

「個性」とは、そうした「愛のかたち」において示されるべきものであって、「パクり方のかたち」で示されるべきものではない。
そんなものは、見せられたくもないし、見せるのは恥ずかしいことだと気づくべきなのだ。

愛に満たされた者は「愛を求める」のではなく、「愛を分け与える」のだが、愛に飢えている人には、それをしようがないし、それを理解することもできないのであろう。

しかし、本作の良さも、「鉄道愛」や「旅行愛」を、読者に分け与えるものなのだから、本作を読むことで、本当の「愛」に開眼する人が、ひとりでも増えればと、そう願わずにはいられないのである。



(2024年6月11日)

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