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ジャック・リヴェット監督 『王手飛車取り』 : 作品自体を見てもらえない作品

映画評:ジャック・リヴェット監督『王手飛車取り』1956年・短編フランス映画)

本作は、作品の内容や出来不出来にかかわりなく、ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となった作品」として「過大評価」される作品である。
本作を、そうした「背景」なしに、わざわざ見るような人は、少なくとも日本にはいないと、そう断じても良いだろう。そうでなければ、フランスのモノクロ短編映画など、映画研究者以外の誰が見るだろうか。
本作は、作品自体を見ようが見まいが、同じような褒め方しか出来ないような手合いによって盛大に褒められている作品だから、そうした評価は、「メクラ評」として話半分に聞いておくのが賢明であろう。

一一といきなりカマしておいたが、これくらい書いておいてちょうど良いような評価のされ方をしている作品なのである。

この作品をやたらに褒める人というのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ教」の盲信者か護教理論家(神学者的評論家)だ。
そうでなければ、石を投げれば当たるような「有名人好きの俗物」のくせに、人とは「ちょっと違う」とアピールしたいがために、マニアックなところを狙って褒めまくり、「通人ヅラ」をしたがるような、要は「承認欲求が強い、見る目のないミーハー」でしかない。

まあしかし、こんなミーハーも「頭数(お客さん)」のうちなのだから、映画産業的には「ありがとうございます」と頭のひとつも下げておかないといけない(悪口など言えない)のだろうが、私の場合は、あした映画が消え失せても困らない人間なので、遠慮なく言わせてもらうのだ。「映画マニアなど、権威への盲従と先人の言葉をなぞっているだけの、あきメクラのオウムである」と。
無論「権威への盲従と先人の言葉をなぞっているだけの、あきメクラのオウム」は、なにも映画マニアに限った話ではないにしろだ。

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さて、本作がどんな作品かというと、なにしろ30分弱の短編なので、深い中身があるわけではなく、言うなれば「不倫夫婦の騙し合いコント」といった、ごく軽い作品である(なお、同作のWikipediaによれば『ロアルド・ダールの短編小説「ビクスビイ夫人と大佐のコート」(1959年)との類似が指摘されている。』とのことである)。
つまり、フフッと笑って、それで満足して良いような、いかにもフランスらしい「小品の佳作」といったところであろうか。

『王手飛車取り』は、現時点では、そのWikipediaにすら「あらすじ紹介」が無く、映画紹介サイトの多くでも同じ。つまり、本作を評価するのに「筋などどうでもいい作品」という位置付けなのだ)

だが、これが「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となった作品」という「権威」をいったん帯びたならば、途端に「さすが」「さすが」と、理解者ヅラで大仰に褒めまくる映画マニアが少なくない。
その証拠は、映画紹介サイト「フィルマークス」のカスタマーレビューをご確認していただけば、一目瞭然である。

例えて言えば、「社長の息子」が、会社に入ってきたら、掌紋が擦りきれて無くなるほど揉み手しながら「さすが」「さすが」と褒めまくってゴマを擦るような手合いと、まったく同じということである。
また、そんなのにかぎって、「自分はゴマなど擦っていない。擦ったこともない」などと本気で主張するくらいに頭が悪いので、まったく手に負えない。

本作の「内容と(私の)評価」はすでに書いたから、あとは、この作品がどうしてここまで「ヨイショ」されるのか、その背景の説明をしておこう。
本作については、私だけではなく、誰にとっても、そっちの方が重要だからだ。
要は「人の良いボンボン」であること(当人の性格)はどうでもよくて、重要なのは(社会的影響力が大きいのは)「社長の息子」だという「社会的属性」の方だからである。一一でなければ、こんな「映画同人のよくできた習作」みたいなものが、わざわざ日本くんだりでDVDなったりするものか、ということだ。

さて、本作の監督ジャック・リヴェットだが、次のような「社会的属性」を持つ人だ。

『1928年3月1日、フランス・セーヌ=マリティーム県ルーアンに生まれる。1950年5月、エリック・ロメールが主宰するシネクラブ・デュ・カルティエ・ラタンから機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』をロメールとともに創刊する。同誌にはジャン=リュック・ゴダールもハンス・リュカス名義で執筆していた。キオスク店頭からすぐなくなるほど売れた雑誌であったが、アンドレ・バザンら左岸のもうひとつのシネクラブであるオブジェクティフ49による『カイエ・デュ・シネマ』の創刊の動きに合流すべく、11月号を以て廃刊した。1952年2月、『カイエ・デュ・シネマ』に映画批評を書くようになり、この時期にリヴェットが執筆した論文には1953年の5月号に掲載された『ハワード・ホークスの天才性』などがある。その後、二代目編集長のロメールの後を受け、1963年から65年まで同誌の三代目編集長を務めた。(以下略)』

(Wikipedia「ジャック・リヴェット」来歴)

つまり、かの伝説的映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の三代目編集長で、ゴダールトリュフォーに映画評論を書かせていた側の責任者である。

そして、本作『王手飛車取り』の位置づけは、次のとおり。

『本作は、ジャック・リヴェットが、1949年(昭和24年)以来3本の習作をかさねて、初めてプロフェッショナルのプロデューサー、ピエール・ブロンベルジェが製作に携わった、リヴェットの監督する短編映画の第4作である。映画のタイトルになっている"Coup du Berger"(直訳すると「羊飼いの一撃」)は、英語では"Scholar's Mate"、日本語では学者メイト、賢者のメイトなどと呼ばれるチェス用語である。先手番の4手目(先手後手を合わせると開始から7手目)でチェックメイトとなる手筋のことを指す。

脚本は、当時28歳のリヴェットのほか、同26歳のクロード・シャブロル、同25歳のシャルル・L・ビッチの3人で執筆した。シャブロルは本作が初の脚本執筆で、批評や小説は発表していたがまだ監督としてデビューしておらず、ラインプロデューサーも兼務した。L・ビッチは、リヴェットの前作『ル・ディヴェルティスマン』(1952年)で撮影監督をし、翌年にはフィリップ・ド・ブロカらとオムニバス映画で監督を経験しており、本作でも撮影監督を務めた。フレーミングはフランソワ・トリュフォーの幼少時からの友人で、当時26歳のロベール・ラシュネーで、製作面ではシャブロルの助手として、製作主任を務めた。編集は本作の前年にジュールス・ダッシン監督の『男の争い』(1955年)で編集技師ロジェ・ドヴィールの助手を務めた当時25歳のドニーズ・ド・カザビヤンカが、本作で技師としてデビューしている。助監督は、のちのストローブ=ユイレとして名高い当時23歳のジャン=マリー・ストローブである。どのパートも、『カイエ・デュ・シネマ』誌に批評を書き、それ以前はモーリス・シェレール(のちのエリック・ロメール)の主宰する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」に集った仲間たちである。

主演陣は、ピエール=ルイ監督の『拘引状』(1953年)に顔を出している程度だったヴィルジニー・ヴィトリを抜擢、のちに撮影監督として大成したピエール・ロムの監督作『パリ・モン・コパン』のナレーションをした程度だった当時23歳のジャン=クロード・ブリアリもほとんど本作がデビュー、ジャン・ドラノワ監督の『首輪のない犬』(1955年)に出たばかりの当時19歳のアンヌ・ドアという、フレッシュな面々に加えて、前年に第16回ヴェネツィア国際映画祭審査員を務めた『カイエ・デュ・シネマ』共同創立者で当時36歳のジャック・ドニオル=ヴァルクローズが、「エチエンヌ・ロワノー」の変名で出演している。脇に存在感を出していたのは、トリュフォー、シャブロル、当時25歳のジャン=リュック・ゴダールの『カイエ』誌の面々であった。』(同上

要は、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』(とその周辺)の面々が「総力戦」で作り上げ、盛り上げた作品であり、日本人映画ファンとしては「若いゴダールやトリュフォーが、ちょい役だけど出演しているよ。なかなかよくできた小品だ」という感じで、作品のでき自体は「おまけ」みたいなものでしかない(お祭り)作品だと言えるだろう。

(物語最終盤のパーティーシーンに登場する、上ゴダールと下トリュフォー

無論、映画評論家や、その口真似が好きな映画オタクは、やれアングルがどうのと、ひととおりの格好はつけるし、それ自体は「そう評価しても間違いではない」というレベルに達してはいる作品で、決して嘘ではない。
だが、そうした評価は多分に「権威主義的な色眼鏡」を介したイロ付きで、彼らが、そうした「背景」を知らず(考慮できずに)この作品を見たなら、私の評価と大差のないことしか「口にしなかった」はずである。「無名の人が撮ったのなら、どうしてなかなか大したものだ」といった程度の評価だ。

当然のことながら、のちにゴダール自身が、「転向者」トリュフォーを批判して「われわれ(『カイエ』誌に拠った若き批評家)が、それまでの大御所映画監督たちを批判したのは、所詮は、彼らが享受していた映画制作における特権的な立場に、自分たちがなりかわるための、いわば追い落としであった(だからこそ、トリュフォーは、その目的を達すると、さっさと商業主義的な保身に走った)」という趣旨のことを書いている(言っている)が、それはまったくそのとおりなのである。
彼らも人間であれば、映画「仲間(身内)」でもあり『カイエ』誌の上司でもあったジャック・リヴェットが、いよいよ本格的な映画を撮るとなれば、手弁当で協力もしたし、その線上で絶賛したというのも、間違いない事実だ。所詮それは、ごく分かりやすい「身内ぼめ」にすぎないし、「社員が、会社の作品を、会社の発行する雑誌で褒めまくる(貶すわけがない)」というのも、当然の話である(ちなみに、ゴダールはリヴェットの2つ下、トリュフォーは4つの年下である)。

だが、「見る目のない一般人」というのは、その程度の事情さえ見てとることができず、こうした「党派プロパガンダ(政治的宣伝)」に容易に踊らされてしまう。そしてこのようなことは、歴史に鑑みて、明らかかつ凡庸な事実であり、映画の世界だけが例外だなどとは、あり得ない話なのだ。

つまり、本作は、「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となった作品」という位置づけを、他ならぬ「ヌーヴェル・ヴァーグ」関係者から「自己規定」的に与えたれた「自己保証つき商品」であり、それを真に受けるしか能のない人たちによって、ろくな検証もなくそのまま追認された結果、「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となった作品」という「売り文句」が、自明のものと考えられるようになった作品なのである(本作『王手飛車取り』と同年に作られた、ロジェ・ヴァディム監督の『素直な悪女』が、そう呼ばれないのは、映画革新運動推進体である「カイエ派の党派性」が、その主たる理由だろう。いくら成功した作品でも、『素直な悪女』は、自己権威づけには役立たない作品だと評価されたのだ)。

それでもまあ、私自身「人の良いボンボン」と評したように、本作『王手飛車取り』が、駄作だなどとは言わない。「なかなかよく撮れた、感じの良い小品」だと評価している点で、例えば、日本の政治家である「麻生財閥のバカ息子」なんかよりは、数等すばらしいとは言っておこう。
下からか上からかは別にして、「七光りで輝き続けている」存在だという点では同じ、だとしてもである。

なお、本作は、同じく「カイエ派」であるクロード・シャブロル監督の長編『美しきセルジュ』と抱き合わせで、日本ではDVD化されている。

要は、短編では本作が、長編では『美しきセルジュ』が、「ヌーヴェル・ヴァーグの発火点」であったという「意義」においてまとめられたDVDだということ(証拠)なのである。

ヌーヴェル・ヴァーグの発火点
 クロード・シャブロル監督の処女作に加えて幻のリヴェット「王手飛車取り」も収録!

(「IVC BEST SELECTION」シリーズDVDのケース背面の惹句)



(2024年5月13日)

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