見出し画像

ずぶ濡れの言葉を綴るしかできないわたしの(三年半越しの)自己紹介。

noteを初めて書いた日から、早いもので三年半ほどの月日が経とうとしています。

ここまでしれっと更新を続けて参りましたが、そういえばちゃんと自己紹介をしたことがなかった気がするなあと思いまして、今更ながらこうしてこの自己紹介記事のまえがきを書いています。


私という人間は、他人に誇れるようなすごい経歴や資格などがあるわけでもなければ、特別何かを知っていたり悟っていたりするわけでもありません。

日本の田舎で生まれ育ち、自己肯定感「激低」の状態で上京してきて、東京の甘美さときらびやかさにうつつを抜かしている間に自分を見失って人生立て直し中の、どちらかというと大人としては「劣等生」と言われる部類の人類であると思います。


こんな劣等生であるわたくしが、人様にぎりぎり何かお伝えできるものがあるとするのなら、それは主に恋愛の経験を通して得た学び・教訓であるのかなと思います。

私がこうして執筆を続けている原動力となっているものって、「人間関係での傷や失敗」という、おそらく他人から見たらゴミのようにしか見えない(でも私にとっては宝物のような)経験たちだから。


星の数ほどの恋をしてきたわけではないけれど、おそらく人並み以上に人を深く想ってしまう私は、恋することでたくさんの感情を味わってきました。

恋愛って本当に滝行のようで、お互いに想い合い見つめ合っているときの甘い陶酔感やロマンティックさという麻酔がないと、とてもじゃないけれどやってられません。


その甘美な麻酔が効かなくなるくらいの痛みや動揺を味わうことも何度もあったけれど、そのおかげで、こうして誰かに何かを伝えたいと思えるような私になることができました。

痛みや動揺、心の叫びは、前に進もうとすることにブレーキをかけることもあるけれど、それでもその記憶は、同時に何より大きな原動力になる。


恋に破れたり、愛を信じられなくなったり、時には自分でも目を覆いたくなるような惨めな姿を晒しながらも生きてきたけど

振り返ってみると、そうやって多くの屈辱と敗北を味わった先でしか見ることの出来なかった『心の絶景』が、たくさんたくさんありました。

そこで見た景色は、いつか宇宙の神様のもとに帰る日の、地球生活最高の冥土の土産になると思っています。


ここに書くのは綺麗な言葉ばかりではないけれど、誰かを想う愛しさや切なさを持ったあなたと、ひとりじゃ消化しきれない痛みや孤独を記憶の奥に抱えたあなたとだからわかちあいたい、わたし自身の「本当の言葉」。


ここまでの道のりは、重ねた心の経験は、無駄なものなんかじゃなかったよ。

私が私に、そして願わくは同じような痛みを知る誰かの心に、そう示すことができるような人生を、私はこの先作っていけるかな。いきたいな。


だから、私はここで、私自身が自分の心の奥にしまってきたことを、ひとりじゃ抱えきれなくて崩れてしまいそうになっていた心の出来事を、その中から掴み取った希望の光を、誰かの心にシェアしたい。

そして、それをもって自己紹介に代えさせていただきたいなと思うのです。


目次つくりますので、お好きなタイトルのエピソードをご覧いただければと思います。

一つ一つの話が長いんで、いっこでも読んでもらえたらわたくしはとてもハッピーに思います。

(もし読んでいてご自身の過去の痛みが浮上してきて辛くなってしまったりしたら、無理せずにお読みになることをおやめください)


それではご一緒に、本編のほうに参りましょう。

三年半越しの自己紹介、お楽しみいただけましたら幸いです♡



Episode 1:(心の激痛を伴う)セックスレスは反抗期の再体験。


すなおさん… いきなり性生活の話題からですか、という感じですが、いきなりぶっこんでいくスタイルでお届けしたいと思います。今日だけね。

私は、お付き合いをしていた方との(夜の)スキンシップレス、拒否を「する側」で3回ほどと「される側」で1回、経験があるんですけど。

どっちも辛いんですよね。本当に。すでに書いてて心が痛すぎてる。


出会って好きになって、「そばにいたい」「もっと近づきたい」「この人と一緒にいたい」とあんなに願ってお付き合いをしたはずの相手なのに。

ずっと大好きでいたかったのに。

それなのに、世界で一番愛しかったはずの人が、触れられることさえ どうしようもなく嫌な相手に変わってしまうって、一体どういうことなんでしょうか。(まだEpisode 1なのにもう泣いてる)


頭ではあなたのことを受け止めたいと思ってる。
でもどうやったって、この身体があなたを拒絶してしまうのよ。

この葛藤って、なんていうかほんとに痛いのよね。ココロ、激痛。ああ…。


心は嘘をつけても、身体は嘘をつけないの。
残酷なほどにね。


「触れ合わなくても別にいいな〜」っていうふんわりしたものじゃなく、「相手に触れられるのが生理的に嫌、無理」「触れられるとイライラ、ぞわぞわする」というはっきりとした拒絶の反応が出てきたら、それは終わりの始まりのサインだと思っていて。

それってもう、一緒に過ごした日々の中での不信感や被害者意識の蓄積によって、すでに相手にたいして心が(ほぼ)閉じきってしまっていることを意味するのだよね。

頭でどう思っていたとしても、本心の部分では相手にたいして『諦め』以外のなにものも抱けなくなってしまっているということ。


私ね。これって反抗期の再体験だって思ったの。

このままの自分を親に認めてもらえなくて、「そのままのあなたじゃダメ」っていうメッセージや「わかってもらえない」という痛みを日々受け取り続けたあの頃の屈辱の、再体験だって思った。


親子関係の感情の再現として、パートナーとの間でも、たとえば日頃の些細なコミュニケーションのズレやすれ違いから大切にされていないように感じたり、「この人にはどうせわかってもらえない」とか「私ばっかりいつも我慢してる気がする…」「フェアな関係じゃない気がする…」って悲しくなったり、虚しくなったり。

そういうモヤモヤや不信感が小さく小さく積もっていって、そしてそれが自分の中の容量を超えて決壊してしまったらもう、後戻りはできなくて。


………


そんな悲しいことが、なんで自分の身にこんなにも繰り返し起こるのかなって思って考えてみたんです。

考えて考えて、そしてたどり着いたひとつの結論を今から書いていく訳なんですけど。


相手を受け付けなくなってしまったときというのは、心底相手に失望しているようで、ほんとのところは自分の性(本音・欲・願いなど)を、自分自身で抑圧しきってしまったときだったなと思ったんですよね。

相手を優先させようとするあまり、自分の性(生きる意味・自由)を自分自身の手で葬り去ってしまったとき、

相手との関わりの中で『自分軸』というものを失くしきったとき、

自分の男性性(思考)が自分の女性性(気持ち・本能)を支配し制圧しきってしまったとき、

それが、拒否をする側でのスキンシップレスという現象に陥ったときに、私が私にしてしまっていたことでした。


反対に、相手に拒否をさせてしまった時というのは、私が女ではなく「お母さん」になろうとしてしまっていたときだったのかなと思います。

相手の幸せや成功を願うあまりママのように世話を焼いてしまったり、そうかと思えば上から押さえ付けるように、自分の中での「正しさ」とか「こうあるべき」を無意識的に押し付けてしまったり。

それって「あなたのこと信頼していませんよ」っていうメッセージになってしまうし、もっと言うと「私の承認欲求を満たしてよ」という要求の表れでしかないのですよね。

こうして振り返ってみると、成人した大人の男性にたいして、私はとても失礼なことをしてしまっていたんだなって思うのです。


………


パートナーって鏡なので、極論、拒否「する側」も「される側」も紙一重で。

どちらの側であるかはたいした問題ではなく、どちらの側を経験しているときでも、

パートナー間の “心の激痛を伴う夜の営みレス” の原因というのは、私が相手との関係性を築いていくなかで、本来の自然体で自由なパートナーシップのありかたから かけ離れた姿を演じ続けてしまったことだったのだろうなと感じています。

そしてそれは、幼少期から大人になるまでの、家庭での自分の姿の再現だったのだろうなとも。


相手とのふれあいを拒絶「する側」のときも、相手に自分を拒絶「される側」のときも、どちらのときも、私は私の野生性(女性性・メス性・生命力)を否定し殺しながら、死んだように生きてしまっていたのです。

自分の正直な本音よりも「妥協」や「損得勘定」に人生の主導権を乗っ取らせて私が不自由な女に成り下がったとき、

そんな私に【 他人のために自分の性(自由・決断力)を殺すんじゃねえよ 】ということをスパルタで示してくれていたのが、パートナーとの(心の激痛を伴う)スキンシップレスという現象だったのかもしれません。



Episode 2:二番目の女。


私が好きになる人は、みんな私よりも大切なものがあるみたいなの。
私はなぜか、いつも二番目の女になってしまう。

「相手には恋愛よりも大切なものがある」なんて、今になって思うと人間として当たり前というか普通のことなのですが、私はいつも「付き合う相手の一番になれないこと」をコンプレックスに感じていました。


そしてなぜか、自分が一番でないことを痛感してしまうような相手ばかり好きになる。

仕事最優先でなかなか会えない人。

死別した彼女が一番の人。

前妻と子どもとの思い出の品々に囲まれて暮らしている人。

既婚者。

プライドが高くナルシストで私の扱いが雑な人。


などなど、なぜかいつも「私は相手の一番大切な人になれない」という被害妄想を燻らせていたんですよね。

(今思うと一番も何もないんですけどね)


これ、どうしてなんでしょう。


私は、こういう現象って、恋愛をすると相手のことばかり大切にしようとして自分のことをいつも二の次にしていた私自身の姿を映し出していたんじゃないかなって思うんです。

Episode 1でも書いたけどパートナーシップってやっぱり鏡だから、相手への不満って実は自分自身からの訴えでしかなくて、

私がいつも感じていた相手への「私のこと一番に大切に思ってほしいよ」っていう切なる願いは、実は内なる自分から向けられていたメッセージだったんですね。


でも、その頃の私はそんなことは思いもしなかったので、相手にもっと愛されたい、大切にされたいという思いからする行動といえば「相手に合わせること」「相手を “立てる” こと」「細やかな気遣い」など、全て逆を行くようなことばかり。

それって相手を思いやっているようでただの見返りを期待した上でのコントロールだし自分への裏切りだから、やればやるほど、自分の本音(幸せの軸)からズレていくんだよね。


私はただ、いつでも私の速度で、私の生活を優先させればよかっただけ。

私はいつも「相手を笑顔にしてあげたい」って思ってたけど、ほんとはそうじゃなくて「私は私自身がいつも笑顔でいられるために何をすればいいか考える」。そのことに集中すればいいだけだった。

そしてその嘘のない笑顔で、素直な心で、相手に向かっていけばいいだけだったんだ。

大切な人に自信と幸福を与えられるのは、作りモノの気遣いやご機嫌取りじゃなくて、自分で自分を幸せにすることの出来る女の笑顔なんだ。


私はいつでも私自身を、一番に大切にすればよかっただけだった。

私が私の『一番の女』になればよかった。

それだけのことだったんだ。



Episode 3:恋愛とは依存心と向き合うための修行である。


私といえば共依存。共依存といえば私。

というくらい、恋愛相手に依存してきた私。

なんで相手にそこまで依存的になってしまっていたのかなって考えたときに、「愛されたり大切にされることに慣れていなかった」ということが一つの大きな要因として挙げられるのかなと思いました。

他人にもそうだし、自分にも大切にされ慣れてなかったんだよねっていう。


家族と(物理的に)触れ合った記憶もほとんどなかったし、何より自分で自分を愛するとか大切にするということも知らなかったから、

この肌に優しく触れてくれる人が現れたときに、「こんなに私を愛してくれる人は他にいない」なんて錯覚を起こしちゃって、

結局その相手の機嫌や言動に自分の存在価値や幸せのゆくえまで、すべてを委ねてしまうようになっちゃったんだよね。


だから、自分で自分を幸せにできない状態で恋愛をするのって結構キケン。
(と言っても恋って頭でタイミングを図ってするものではないから、好きな人が現れたってだけで本当に素晴らしいことなんだけどね)


自分で自分を受け容れたり認めたり、満たしてあげるってことに慣れていないと、心の面でもそうだし、フィジカル的にも他人の体温に依存してしまいやすくなる。

人とのふれあい自体は素晴らしいものなのだけれど、愛情の枯渇から極端に他人の体温に依存的になってしてしまうと、それは自分の幸せの責任を他人に譲渡してしまったことになる。

依存先がなくなってしまったら(相手が去ってしまったら)自分の存在意義が崩れ去ってしまうような危機感というか、そういう錯覚を起こすんだよね。


だから相手の全てを受け入れることで、自分を愛してもらおうとしたり、自分のもとに繋ぎ止めておこうとしちゃう。

それでなんでも言うこと聞いちゃって、つまんない女になるという。


物分かりのいい「いい子ちゃん」な女って相手にとっても退屈だろうし、何より自分が自分の人生に飽きちゃうんだよね。

自分で自分に飽きちゃうってことは、生きるためのエネルギーが欠乏するわけだから、当然人生全体も停滞していくわけで。


だからね、恋愛って(特にHSPさんやエンパスさんたちにとっての恋愛って)わりと究極の『自分軸の修行』なんじゃないかなって思うんだよね。

自分とのコミュニケーションの修行であり、自分の中のパートナーシップを育んでいくための修行。


これって、痛いくらい本気で人を好きにならなきゃ経験できない宝物だよね。


そりゃ最初から依存的にならなきゃ楽だし話は早いかもしれないけどさ。

せっかくの人生だもん、いっぱい傷ついていっぱい学んで、そうやって生きていったらいいのよ。

あなたを通過していった痛みの分だけ、あなたから放たれる光は大きく眩しいものになっていくからね。

って、そう自分に言ってあげたいと思います。



Episode 4:「されてショックな浮気」が教えてくれたこと。


見るつもりはなかったんだけど、付き合っていた人の浮気の証拠写真的なものをSNSで見つけてしまったことが昔あったんすよね。

自分の当時の性格としては、付き合っている相手が他の女性と遊ぼうが何しようがあまり気にすることもなかったんですけど、その時はちょっと違いました。

見た瞬間、これまでの世界が音を立てて崩れていくような、人生の何もかもをもう放棄してしまいたくなるような、そんな絶望感に襲われたんですよね。


「自分の幸せは相手次第」と、恋愛にたいしても超他人軸な姿勢で臨んでいた私にとっては痛すぎる出来事でした。


でも、その痛みを私が体験したからには、そこに何か意味があるような気がしてならなかった…というよりも「意味を見出さずには終われない」と思ったんですよね。

悔しかったから(笑)


そりゃあ浮気なんてされないに越したことはないかもしれないし、そんな痛み知らないほうが幸せなのかもしれないけどさ。

でもきっとそこには大切な暗号が隠されてるって信じたかったし、私はその暗号を解読したかったんだ。


………


で、しばらく悲しみと怒りに震えたあとで、こんなことを思ったんです。

ああ。浮気して私を傷つけていたのは、私自身だったんだなあって。

私は、一番に大事にするべき存在であるはずの私を放置して、他人との恋という享楽に明け暮れていたんだなあって。


そんな情けない自分の姿を映し出していたのが「されて傷つく浮気」という外側の現象だったのでしょう。


その時の私といえば、

私自身の好みよりも相手の好みに合わせて着る服を選んで

自分の食べたいものを主張もせずに相手が食べたいものばかり優先して

体調不良に申し訳なさを感じては謝って

月経中で性行為が出来ないことに申し訳なさを感じては謝って


そうやって、私は相手のことばかり見て、相手の気持ちばかり追いかけて、相手の下半身の都合ばかり考えて、自分の本音や身体の感覚からは目をそらし続けて。

自分の心は放置されたまま空っぽで、自分を幸せにするための責任は、他人や外側のものになすりつけて。

それって、内側の私からしてみたら「浮気」そのものだよねって。


私はきっと、私自身にかまってほしかったし、見つめてほしかったし、尊重されたかったし、愛を囁いてほしかった。

外側の誰にでもなく、私自身に。

そのことを教えてくれたのが、「されてショックな浮気」という出来事だったのでしょう。



Episode 5:それは愛なのか、承認欲求の舐め合いなのか。


人間関係(特に恋愛や家族関係)と承認欲求って切り離せないもの。

承認欲求を満たしてもらうことを「愛」と(無意識的に)定義している人もたくさんいるよね。

というのも、私自身「相手が自分を愛してくれているなら、私の承認欲求を満たしてくれるはず」と、言葉にこそしていないものの心の奥のほうで信じ込んでいたのです。

「愛してくれてるなら私のことわかってくれるはず」とか「愛し合ってるなら私と同じ理想を持っているはず」とかって言い換えてもいいかな。


これは人間の性(さが)だと思うんだけど、自分の思いが相手に近ければ近いほど、他人でしかないはずの相手に、勝手に期待しちゃうんだよね。


幸せとは外側からもたらされるもので、
承認欲求とは他人が満たしてくれるものであるはずだ。

そう信じていたために、付き合う相手にはいつも「自分の承認欲求を満たしてもらうこと」を求めていましたし、「相手が自分に何を与えてくれるのか」という部分ばかりを見て恋する相手を選んでいたように思います。


でも、外側のものが与えてくれる幸せって本当にもろいものです。

私自身、四六時中「愛してる」と言ってくれる優しい人と付き合っても、誰もが認めるような美しい容姿の男性と付き合っても、東京タワーの見える家や レインボーブリッジを見下ろせるタワーマンションの上層階に “住ませてもらって” いた時も、刹那的な万能感の裏っかわで、いつもなぜだか寂しくて。

外側から与えられるきらきらの中に、本質的な幸せは見つけられなかったんだよね。(私はね)


でもそれは、優しくてマメな彼氏やイケメンや東京タワーやタワマンが悪いんじゃなくて、単純にわたしが「愛」と「承認欲求」を履き違えていたから。


だってね、私たちの本質って『愛したい・愛でありたい』だと思うんです。

自分のことも大切な人のことも、『思いっきり愛させてほしい』


その欲求を自分でちゃんとわかってあげない限りは、他人にどれだけ愛されたって、物質的にどんなものを与えられたって、満たされるはずがなかったんだよね。


特に私たち女性とかHSPとかエンパスの人って、身体の深い部分でいつも「安心して自分と自分の世界を愛していられる場所」を求めてるって気がしています。

「安心して、自分が愛そのものでいられる場所」を、私たちはいつも探しているって感じるんです。

表面的には、他人に愛されたいとか与えられたいとか大切にされたいと願っているように思えてもね。


他人に愛(のようなもの)を囁かれることで、外側から多くを与えてもらうことで、私たちは承認欲求が満たされて幸せな気持ちになるものだけど、その幸福感って永遠には続かないもの。

HSPの人は特に、『愛されるだけじゃ全然物足りないわがままボディ』を持った欲張りな生き物だと思うんです。

与えられるだけじゃなくて常に自ら愛を発していないと、HSPの心ってどんどん淀んで、腐っていっちゃうの。


そして私は、こうも感じているんです。

HSPかそうでないかに関わらず、「他人に幸せにしてもらうこと」や「他人に承認欲求を満たしてもらうこと」を幸福と定義した瞬間、どんな美女でももれなくブスになる。

目つき、シワ、口元、表情… あらゆる部分に「他人をコントロールしたい欲」が滲み出ていじわるな顔になるし、なんか老けるんだよね。

これって不思議なことでもなんでもなくて、「与えてもらうことを待つ」って、自分で自分の生命力や創造力を抑えつけてしまっているということだから。


反対に、自分の気持ちを自分でちゃんと承認して、自分で自分を満たしている人は、年齢問わず透明感があって瑞々しいしカワイイよね。

大人は生き方が顔に出るって、わりと真理なんだと思う。


承認欲求と愛を混同しないこと。

それは、自分にも人にも優しいし、もしかしたら何よりのアンチエイジングの美容法なのかもしれないよね。



Episode 6:彼がうつになったのは。


同棲していた彼を、うつ病にしてしまったことがあります。

「(自分が)してしまった」と書いてしまうと、それはある意味傲慢な表現になるのかもしれないのですが、彼の病を引き起こした様々な要因の中の、主軸となる問題のひとつに私がなってしまったことは間違いありません。


そして残酷なことに、一番近くで彼を見ていながらも、私はそのことに気がつくことも出来なければフォローをすることも出来ませんでした。


彼が仕事や人生のことで重圧を感じているとき、疲れているとき、本来なら私が味方でいなければいけなかったはず。

それなのに、日頃の不満や不信感、「こうあるべきだ」という観念で盲目になっていた私は、状況を正確に判断することが出来なくなっていたんですね。


彼が辛さを感じているとき、彼の心を慮るどころか

「普通だったらこのくらいできるはず」
「男なんだからそのくらいできるでしょ」
「私のこと愛してるならもっと頑張れるはずでしょう」
「なんでそんなことも出来ないのよ」

などという、おそろしい判断のものさしで彼のことを裁いてしまっていたのです。


私が信じ愛していたのは、彼本人ではなく「ふつうは」とか「みんなは」とか「私の育った家庭では」とか、そういった自分の中で作り上げられた固定観念のほうだったのでしょう。


そしてそんな「愛してるならもっと頑張ってくれるはず」という思考に支配された私のもとからは、いつからかあるものが消えてしまいました。

彼と過ごす時間の中で、求めたものが得られない不満感と不信感から『笑顔』というものが消えてしまったのです。

男女間のパートナーシップにおいて、女の笑顔がないって致命的です。


自分のためにもっと頑張って愛の証明を見せて欲しいと要求する女と、金も名誉も肩書きも取り払った “そのままの姿” ごと受け入れて欲しい男。

そんな二人の心が交わる訳がありません。


自分で自分を満たすことのできなかった私が求めていたものは、彼本人ではなく、自分の承認欲求を満たしてもらうための存在だったのでしょう。

全くおそろしい話ですが、それはきっと、彼にとっても同じこと。


「二人で一緒に幸せになろう」。そう願って共に過ごしたはずの相手にとってのエネルギーヴァンパイアに、私自身がなってしまった。

そして彼もそれに呼応するように、お互いがお互いにとってのエネルギーヴァンパイアとなり、「満たしてもらうこと」を求め枯渇しては傷付け合い奪い合う共依存の関係に陥ってしまっていたのです。


パートナーシップの中で、笑顔の力って本当に侮っちゃいけなくて。

「あなたのことが大好き」「あなたと一緒にいられて嬉しいの」という純粋な気持ちからくる笑顔の消えてしまった関係は、遅かれ早かれ破綻する日がきます。


共に学んだこの教訓を、共に味わったこの痛みを、私たち二人は別々の道を歩みながらもきっと忘れずに生きていくのでしょう。

これから築いていく他の大切な人との関係を、自らの手で再び壊してしまうことのないように。



Episode 7:嘘ばかり付く相手が私に示していたもの。


なんでこの人、私に嘘ばっかりつくんだろう。

嘘ばかりつく人がいました。

すぐにバレるような嘘から、時間が経って嘘だったことが発覚したこと、よくもまあそんなにもその場しのぎの嘘が思いつくもんだなと関心するほどによく嘘をつかれました。


自分を大きく見せるための嘘。
責められないよう自分を守るための嘘。
愛されるための嘘。嘘を通すための嘘。

一体彼の何を信じたらいいのかわからなくって、ほんとの彼がどこにいるのかがわからなくなって、結局関係は上手くいかず。


でも。

後から思い返してわかったんです。なんで彼が私に嘘ばかりついていたのか。

それは私が「彼のことが好き」と思い込むよう自分に嘘をつきながら、彼と付き合っていたから。


本当は彼が好きなんじゃなくて、
彼のステータスが好き。

彼のことが好きなんじゃなくて、
本当は、彼と付き合うことで手に入る優越感が好き。

そんな本心を認めようともせずに、表面だけを取り繕っていたのは、私も一緒だったよね。


心の奥では「生理的に好きじゃない」と感じていながらも私はその気持ちに嘘をついて、欲しいものを手に入れる手段として相手を愛している自分を演じ、自分自身を欺いていたのです。

この人と付き合ったら、世界が開けそう。
この人と付き合ったら、人脈が広がりそう。
この人と付き合ったら、いい生活が出来そう。

これが本当の、私の気持ち。

自分ではそんなこと、認めたくなかったけどね。


「願いを叶えてくれる男性と付き合うことが女の幸福だ」なんて、そんな出処不明の幸福論を信じて

愛や恋なんて言葉ではとても呼べないような薄っぺらな繋がりで得られる浅はかな優越感で、自分の本当の気持ち(「私、この人のこと別に好きじゃないんだよな…」)を覆い隠していたのが私。


好きでもない相手と一緒にいることに大事な人生の時間を費やして、私のことを大切にしてないのは私じゃん。

私に嘘をついていたのは、私自身だったんじゃん。


本当のあなたは一体どこにいるの?

彼に向けたはずのその問いは、私自身からのメッセージ。

私に嘘をつく彼の姿は、私から見た私自身の姿だったのです。



Episode 8:私が本当に逃げたかったのは、他人のために私を虐げる私自身だった。


この環境から逃げ出すことが出来たら。
このパートナーから逃げてしまうことが出来たなら。
私はきっと、幸せになれるのに。

恋愛をはじめとした人間関係において、他者にたいして自分の意志をしっかりと示すことができなかった私は、いつも自分を取り巻く環境や他人から「逃げ出したい」という気持ちを抱えて鬱屈とした毎日を過ごしていました。

DV・モラハラパートナーであったり、パワハラが横行する職場の人間関係、ブラック企業での労働など、いつも「逃げ出したい」何かが現れるのが、私の人生序盤のお決まりのパターンだったんです。


でも、「幸せになりたい」と願い自分と仲直りをしていくうちに気づいてしまったんです。


私が本当に逃げたかったのは、いつもどんなときも私に厳しくて、私を認めてもくれず愛してもくれない私自身だったんだって。

私は、自分でも気づかないうちに、当たり前のごとく「自分を蔑ろにするという自傷行為」をしていたんですね。


外側の環境や身の回りの人たちに対して感じていた「もうここから逃げ出したい」という気持ちは、内なる私からの「もうアンタから逃げ出したいんだけど。いい加減にして」というメッセージだったのです。



《 あとがきにかえて 》 一生幸せになってはいけないと自分を呪いながら生きていた私を救った聖母の言葉。


今まであまり人に言ったことがなかったんだけど、十代の頃に、自分の認識の甘さから望まない妊娠をしたことがあるんだよね。

当時まだぎりぎり高校生で、親に言ったら死ぬほど悲しませると思ったし、責められる、失望させてしまうとも思ったから言えなくて、その当時の彼氏以外の誰にも言わずに人工中絶手術を受けたんですけれど。

バイトもしてなかったし、彼氏は歳上で働いていたけれど どうしようもないダメ男で頼れなかったから、進学のお祝いにおじいちゃんとおばあちゃんからもらったお金で、中絶手術を受けたんだよね。

すごい惨めだよね。


妊娠検査薬で陽性反応が出たとき、目の前が真っ暗になったように感じて、この世で最も重大な罪をおかした犯罪者になったような気分だったし

自分が大人の女性の身体になっているんだってことに物凄くショックを受けて、もう呆然とする以外出来ることがなくて

世界中に誰も味方のいない、こんな孤独がこの世にあるんだってくらいに、すごくかなしくて、さみしかった。


妊娠って、普通の感覚で言ったら、女の人にとって最大の慶び事であるはずなのにね。

その時の私は、世界一重い罪をおかした犯罪者になった気分だったんだ。そして、女である自分を恨んで恨んで、呪いをかけたんだよね。

恋愛や性にたいしてネガティブな教育のもとで育っていたこともあって、「性は最大の罪」くらいに思ってたしさ。


それからというもの、本当なら何を差し置いてでも守るべきだった尊い命を奪ってしまった自分を責めて責めて責めて責めて

私は一生幸せになっちゃいけない犯罪者なんだって、それでも生きようとする図々しい私はなんて汚い存在なんだろうって、心のどこかでそうやって自分を軽蔑しながら生きてたんだよね。

もうじゅうぶん傷ついてたのに、さらに自分で自分を傷つけてた。


それで、中絶を経験してしまった自分のことを呪ったまま生きていたんだけど、ある日「自分を許す」という言葉と出合ったんです。

初めて見る「自分を許す」って言葉に涙が止まらなくなって、そこからやっと、自分との仲直りの道がはじまったんですよね。


とは言っても、インスタントに一日二日であっさり仲直り出来るようなものでは到底なくて…。


時は巡って、それからまたずっと後に、私と同じような経験を持つ ある女性のblogを読んでいたときに

『子どもが産めないとか中絶したとか、そんなことで自分を嫌いにならなきゃいけないなら女なんてやってられないよ』

みたいなことが書いてあったんです。


「中絶は人間として許されることではない」という価値観以外の情報に触れたことのなかった私にとって、驚くべき一文でした。


こういうのって、世間一般的に言ったら「言っちゃいけないこと」なのかもしれません。

特に正義感の強い人の中には、この言葉を見たときに、許せない感情だったり、なんとも言えない反発心や嫌悪感を抱く人もいるでしょう。


でも私は、この「言っちゃいけない、本音の言葉」に、心の一番繊細なところを撃ち抜かれたような衝撃を受けて、そして心底救われたんです。

正しいとか間違ってるとかじゃない、善いとか悪いとかの次元じゃない、その人の魂から発せられたのであろう「本音の言葉」の力強さに、目が覚めた思いだったんですよね。


「取り返しのつかない過ちをおかした私は、一生幸せになんてなっちゃいけない」

「親に初孫を抱かせてあげることのできなかった私は、世界で最悪の裏切り者で親不孝者」

そう思って自分を責めていじめてばかりいた私の頭を、「いい加減にしろ」とひっぱたいてくれた、魂からの言葉。

私には、その時の彼女が、まるで聖母のように思えました。



それでね。

私も、おこがましいようだけど、誰かにとって、そして何より私自身にとってのそんな『魂の言葉』を紡ぐことができたらいいなと思い、執筆活動を始めたのでした。


大げさでなく、私は言葉にこの人生を救ってもらったから、その返しきれないほどの恩を、今度は私が次の誰かに繋いでいきたい。繋いでいかなければ。

そう思ったんだよね。


世の中の99%の人に否定されたとしても、誰も味方がいなかったとしても、それでも私は 私を必要としてくれる「たったひとり」だけに届く『魂の言葉』を綴りたい。

そう思ったんだ。



今でも、このことを書いているととめどなく涙が溢れてきます。

それは罪の意識や世界との分離感からくる冷たく孤独な涙ではなく、

世界中のどこにも居場所のなかった18歳の頃の私の「わたしはもう一人ぼっちじゃないんだ」という安堵の涙であり、

そして、この私を選んでこの身体に宿ってくれた宇宙一勇敢で美しい魂からの「また会おうね」というメッセージのようにも感じられるのです。


この原体験を書くことで、「うわ」って思って離れていく人もいるかもしれないし、そうじゃない人もいると思うけど、

誰にどう思われるかとか関係なく、この「どうしようもなく孤独だった頃のわたし」と一緒にいたいし幸せにしたいと願うのが、私という人間なんだよね。


このことを書けたことで、私は今、とても安心しています。

自分の人生と、もっと仲良しになれたような気がするから。

これからも、何があっても私は私と一緒に生きていくからね。


というわたくしの湿っぽい(というよりもはやずぶ濡れの)一人劇場ですが、ご縁のあるかたはこれからもどうぞよろしくお願いいたします。

ではまたね。


愛をこめて。
Sunaoでした🦭🌸🌸



·̩͙꒰ঌ  ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈  ໒꒱·̩͙






この記事が参加している募集

#とは

57,759件

#自己紹介

230,447件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?