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少女A伝

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短編小説集です。
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#小説

石板掘れない私の哀しさ

11年前にもらったメールを何度も読み返し、携帯端末を買い換える度に新たに保存しクラウドにも保存していると言ったら、あなたは笑ったけれど、私にとっては非常に大切な宝物なので笑わないでください。
それでも私が死んでしまったら、あなたから貰った言葉は全て銀色の端末に閉じ込められたまま誰の心も震わせること無く永遠に沈黙の湖に沈むのだと思うと、私は苦しくなってしまう。
ああ、石板を掘る技術があったなら!

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個人的メェルストロム

自身の内面に、宇宙よりも広い内的世界が広がることに気がついたのは、十四歳の冬のことでした。
理科の授業で気圧について学んだ日の帰り道に、その考えはふと私の心に降り立ったのです。
空は高く、手の届かないところに刷毛ではいたような白い雲がたなびいていました。しかし、その雲の冷たく指先にちりちりと寄ってくる感触を、私は確かに知っているのです。

気圧に負けずに大気の底で生きるためには、それと同じだけの力

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巡り会う風

好意は持ち重りがするといっても、誰も信じてくれません。
その見えない重りは私の手足の先端に付けられるから、私は泣きそうになってあたりを見回し途方に暮れるのが常でした。
スカートとハイソックスの間に覗く膝の裏っ側に撫でるような感触を感じ振り向く度に、母親に結ってもらったポニーテールとアイロンを当てたブラウスの襟元の間に滑り込む生暖かい視線を感じる度に、付け始めたばかりのブラジャーの縫い目が、真っ白い

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ハレルヤジャンクション

ねぇ、17歳の夏の明け方の空気が澄んでいて冷たかったこと、覚えている?
レースのカーテン越しに届く静かな日差しは、誰も目覚めさせないように密やかに差し込んできていて、土鳩だけが低いところで喉を鳴らしていた。
顔を窓の方へ向けると、私の脇のシーツはあなたの形に窪んでいて少し湿った温もりを残していたから、私はそこに顔を押し付けあなたのシャンプーの香りを嗅いで、夕べのことが本当に起こった出来事なんだとゆ

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蛤吐いた蜃気楼

恋い焦がれていた御仁との念願叶った逢瀬の晩、食後に辿り着いた公園で躊躇いがちに私の手に彼の手が重なり、引き寄せられるように口づけをいたしました。
薄眼を開けると港には船、空には飛行機。きっと遠くの土地へ向かう途中でしょう。空気を震わせながら私達の周りを通り過ぎてゆきます。
そこにはなにも契約を裏打ちするような言葉も書面もありませんでしたが、
私はそれでも構いませんでした。
だって、彼が口移しで渡し

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春風と甘酒

掃除や洗濯のような日常を整える習慣が、時には自分自身をこの世界に繫ぎ止める命綱のように働く。
そういうことを教わったのは、加奈子さんからだった。

私は彼女との二人暮らしを長年続けてきたけれど、朝学校へ行く前に食器洗いを済ませる習慣や、帰宅してからお風呂を清める仕事をそれは徹底的に仕込まれた。

反抗期の頃の私は、テスト週間にもその習慣を緩めることを承知しない彼女を苦々しく思ったこともある。
けれ

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初恋の呪縛

冬空のしたでフォーレのヴァイオリンソナタ2番2楽章を聴いていると、中学2年生の冬のことを思い出す。
とてもとても大好きな人がいて、でもその人にはもう半年も会っていなくて、連絡先も知らなければ、彼は私が自分を好いているということさえも知らなかった。
何一つとして伝達手段を持たなかった私ができたことは、夜空を見上げ、彼への気持ちを星に託すことだけだった。

彼と私はセックスなんてしなかった。
身体を使

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外圧に負けない体づくり

「お手洗いに行こう」
休み時間になると、花からそう声をかけられるのが憂鬱だった。
だからチャイムが鳴るとすぐに図書館に逃げ込む。

身体の帯びる水分なんて大した量ではない。紙の束に囲まれていると、行き場をなくしていた感情が音もなく吸い込まれるのを感じる。柔らかく黄ばんだ紙をめくるたび、指先から移った水分が紙を柔らかくたわめていき、紙は深く呼吸をするように伸び上がる。
陶器の冷たい便器に排泄するより

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失恋は石鹸の香り

私の学校にやってきたその教育実習生が、学年中の男子の好意をひっ攫うまでに要したのは、ほんの数日のことだった。

「音楽の教育実習生、可愛いよな」
「あんな姉ちゃん欲しい」
「いや、彼女になって欲しいよ俺は」
「授業は下手だけどな」
野球部の賑やかな奴らはそう言って、いつもの如く意味もなく大声で笑う。その度に、彼らから湿った砂埃の臭いが漂ってくる。
彼らの発する野卑た空気が私は苦手だ。休み時間に

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泉の下から贈り物

私の宝石箱の中には、青いガラスのペンダントトップの首飾りが仕舞われている。
会う人会う人に褒められるその首飾りは、祖母が存命中にヴェネチアで買ってくれたものだ。
知人友人にその首飾りを褒められるたび、12年前に泉下に名を連ねた祖母のことを思い出す。

祖母はうつくしい人だった。
大学ではマドンナと呼ばれていたらしい。それは、祖母がいなくなってから祖父母の家にかかってきた電話で知った。「僕は彼女

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わたしのワンピース

夏至が近づくにつれ、肌は湿り気を帯びる。
心の泉に湛えられた水が少しずつ表面に滲み出るのだ。身に纏う布が一枚一枚と減ってゆき、世界と心の境界線があと1枚と少し、となった時。
やはり、その境界線は美しいものでなければならない。だって、境界線を飛び越えるのには勇気と高揚感が必要だから。

恋人と初めて出会った夜に着ていたワンピースは、その数日前に池袋のデパートで手に入れたものだった。早速階上のサロ

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潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の

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煙たい愛 中編

夜が明ける音がした。
一人で迎える朝は冷え冷えとしていて、世界の果てまで延びていく。
朝の便の飛行機が頭上を通過して飛行場へ向かうのが、屋上階の私の部屋の天窓から見えた。
残された飛行機雲を暫く私は眺めていた。雲はやがてほろほろとほどけ、空の色に紛れて消えた。
私の吐いた煙は、その雲に追随するように空に昇っていく。
私が今日乗る飛行機を、見上げる人はいるのだろうか。

飛行機から日本に降り立つと、

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煙たい愛 前編

かつて母が私を妊娠した時、引っ越したばかりの新居に見知らぬ女性が押し入ったことがあるそうだ。
女性は、私の父親となる男とかつて関係を持っていたと主張した。
白昼、その部屋には母しかいなかった。
新居の窓ガラスを割り、梱包を解いたばかりの食器を手当たり次第に投げつける女性を眺めるうちに、母は婚約中だった男を見限ろうと思ったらしい。
女が感情的に部屋を壊すさまを、開け放したままの玄関の扉の隙間から、小

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