煙たい愛 中編

夜が明ける音がした。
一人で迎える朝は冷え冷えとしていて、世界の果てまで延びていく。
朝の便の飛行機が頭上を通過して飛行場へ向かうのが、屋上階の私の部屋の天窓から見えた。
残された飛行機雲を暫く私は眺めていた。雲はやがてほろほろとほどけ、空の色に紛れて消えた。
私の吐いた煙は、その雲に追随するように空に昇っていく。
私が今日乗る飛行機を、見上げる人はいるのだろうか。

飛行機から日本に降り立つと、しっとりとした空気が体全体を覆った。
機内の乾燥対策に口元を覆っていたストールを剥ぎ取り息を吸うと、酸素とともに湿った空気が体に流れ込んだ。
空港の空は暗くてよく見えなかった。

機内モードにしていた携帯端末を空港のWi-Fiに繋ぐと、何件かの連絡の中に、かつての恋人からの連絡が紛れていた。

「フライトお疲れ様。こっちに滞在している間、時間少し取れないだろうか。会って話をしたい」

預け荷物はすぐに出てきた。荷物を全てまとめ、税関の通過待ちの列に並ぶ。

絨毯敷きの床から、スーツケースの転がる鈍い振動が足へ届く。
歩を進める度に、ズボンのポケットにしまった携帯端末が足に当たり、その存在を主張する。

到着口を抜けると、私はタクシーを拾う前に、喫煙所に立ち寄った。
手汗のせいか、湿度のせいか、タバコに火がつくのには多少の時間を要した。
もどかしい気持ちを抱くのは、湿気たタバコに対してだけではない。私はそのタバコを味わい尽くす前に、カウンターにプリペイドSIMを買う為に走った。

日本を発つ前の日の夕方、私は銀座に赴いた。
背まで伸びた髪の毛をすっきりと編みこみ、首元には母に貰ったダイヤを下げた。
グレーのワンピースは、美しいドレープが足を前に出す度に打ち上げ花火のようにぱっと開き、真紅の裏地が覗くものだった。
ラメの掛かったベージュのエナメルのハイヒールは、舞踏会に恋人と行く時のためにとロンドンの百貨店で手に入れたものだった。

銀座の大通りを見下ろせるカフェの窓際で、私は彼を待っていた。
灰皿を求めたが、見当たらなかった。諦めて、窓越しの大通りを見下ろす。
街は、初めて彼と待ち合わせた時から様変わりしていた。
観光バスがファストファッションの路面店の前に絶え間なく止まり、色鮮やかな服装の訪日客が出てくる。
斜め向かいにあったデパートは、テナントが幾つも入った商業ビルに変わっていた。
窓ガラスのこちら側も、あの頃とは違う。私の髪は少し伸び、肌は硬水で固くなった。あの時は椅子の脇にはきれいに包装された箱が置かれていたけれど、今日は机の上にタバコの箱が置かれているだけ。
変わらないのは道路ばかり。

眼下の道路に停まったタクシーから、見覚えのある姿かたちの男性が現れた。

私は慌てて居住まいを正した。ストローを包んでいた紙を折りたたみ、コースターの下に差し込む。窓ガラスに映る自分のシルエットで髪を整え、ストローについた口紅を拭うと、再び窓の下を見下ろした。
男はまだ道路の脇に立っていて、降りたばかりの車内を覗き込んでいた。
ややしてからその車内からひとりの女性がゆっくりと出てきた。
私のかつての恋人は、その女性の肩を抱くようにして、私の眼下に消えて行った。

「あなたがいないと生きていけない」なんて嘘がつけたなら、どんなに良かっただろう。
一瞬のうちに心の中で生まれかけた気持ちは、陽の目を見ることなく闇に戻っていく。その気持ちの余韻が鼓膜に残るなか、私は机に置かれた伝票と数枚の硬貨をレジの店員に渡して、すばやく喫茶店を出た。
エレベータが上行しているのを横目で確認し、螺旋階段をくるくると降りる。
途中で、タバコを置き忘れたことに気がついたけれど、振り返らなかった。

階段を降りながら、かつてここで恋人に渡した包みを思い浮かべていた。茶色がかった靴箱を。
「Gucciのドライビングシューズだ。いいのかい、こんな素敵なものを」
高かっただろう、と声を震わせる恋人に、「兄からのお下がり」だとは言い出せなかった。
「本当はBMWを上げたかったけど、それは無理。だからせめて、これくらいはさせて」
私の言葉に、彼は私の手を取り口づけをした。
「僕がいつかBMWを買ったら、助手席に乗ってくれるかい」
私達の中でBMWは、二人の未来の象徴だった。よく私たちはベッドの中で、二人でBMWで行きたい場所について語らった。
「もちろん。このシューズで運転してね」
彼は本当はBMWなど欲しくなかったのだろう。
白いシーツの中で生まれた蜃気楼は、現実の光が差し込むと消えていく。
私が愛したのは、彼ではなく彼の描いてみせる可能性だったのだ。

さようなら、BMW。さようなら、クラッチ。あなたは、荷物のたくさん詰めるオートマ車にチャイルドシートとカロッツェリアのカーナビを取り付けて、休日にコストコに買い出しに行けばいい。

2階から1階に降りる最後の階段を降り、建物の外にまろび出る時に、私は足を滑らせた。
気がつくと私は、歩道に手をついて座りこんでいた。右の靴のかかとが、建物の溝に挟まっている。
私に差し伸べられる手は無い。きれいな靴は、エスコートする人間がいないと輝かない。
先程見下ろした光景が急に目の前に広がり、私は顔を覆った。あの女性はかかとの無い靴を履いていた。体を包み込むような服を纏っていた。
それは、誰かに承認される為の出で立ちではなく、自分とその内包する命を守るための装束なのだ。

私は、かつて妊娠中の母の許へ訪れた女性のことを思い出していた。私の生命を危険に晒した人物と同じ立場に、四半世紀を経て立っていることがひどくおかしく感じられた。
掌が熱を持っている。その熱は、かつて彼の首を締めた時に感じたものよりも激しく脈打っていた。
彼のことが欲しい?自分自身に問いかける。
「お前はああなりたいのか」兄の声が聴こえる。
私は息を吐くと、額に張り付いた前髪を振り払い、傍に落ちていた鞄を手に取った。左の靴も脱ぎ、かかとを検分した。ベージュの網タイツ越しに歩道の感触が伝わる。

銀座の歩道の感触を知っている人間も珍しかろう、そう思い微笑みながら顔をあげた。
夕闇の中に、鳥の飛ぶ影が見えた。誰も見ていなくても、鳥は空高く飛ぶのだ。

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