わたしのワンピース

夏至が近づくにつれ、肌は湿り気を帯びる。
心の泉に湛えられた水が少しずつ表面に滲み出るのだ。身に纏う布が一枚一枚と減ってゆき、世界と心の境界線があと1枚と少し、となった時。
やはり、その境界線は美しいものでなければならない。だって、境界線を飛び越えるのには勇気と高揚感が必要だから。

恋人と初めて出会った夜に着ていたワンピースは、その数日前に池袋のデパートで手に入れたものだった。早速階上のサロンで着替えた私を、存命中だった祖母は目を細めて褒めそやした。
上質な綿をふんだんに使った黒いワンピースは、スクエアネックに抜かれた胸元に、同色の糸で刺繍が施されている。花の形を象った刺繍の中には小さなパールビーズがあしらわれていて、胸元をみおろすとそれがぽつぽつと黒地の上に浮き上がっていた。
高めに取られたウエストから広がるラインはすっきりとしたAライン、張りのある綿がそのラインを崩すことなく保っていて、パターンの切り返しの部分にやはり黒地の刺繍が施されていて、それは着ている私を包み込み、優しく背筋を伸ばしてくれた。母は、そんな私の姿を見て

「今度のパーティーでこれを着ると良いわよ」

と頷いた。その頃、絶賛反抗期中で髪の毛なんかベリーショートにしていた私は、可愛いのは服だけだ、と思ったが黙っていた。口を尖らせると、歯列矯正の器具が唇の裏に食い込むので、顔をそむけた。

本当は嬉しかった。思春期になり体つきが変化していくにつれ、それまで気に入って着ていたローラアシュレイやシリリュスの洋服が次々にサイズアウトしていった頃だった。それまで自分が疑いもせずに享受していた「可愛さ」から隔離される怖れに、私は怯え、疑り深くなっていたのだった。黒いワンピースは可愛さへの通行手形。もちろん避暑地へ向かう際にトランクに放り込むのも忘れなかった。

彼と出会ったのは、山の麓に広がるテニスコートのフェンス越しだった。木陰で大人たちがラリーに興じているのを、従弟たちをあやしながら眺めていたら、すぐ裏の舗装のされていない荒れた道路から、こちらを見ている集団がいた。おおかた、どこかの高校の部活動の合宿だろう。ここらへんは夏になると学生たちを受け入れる民宿も点在していた。すらっと伸びた体躯の男性たちの出現に私は木陰に隠れたが、従弟らは興味津々に駆け寄っていった。暫く彼らはフェンス越しに会話をしていたが、やがて男性たちは手を振り、また走って森の中へ消えてしまった。

「あのひとたち、お姉ちゃんの名前を知りたがっていたよ。何年生なのかー、どこに滞在しているのかー、って。教えちゃったけどいいよね」

従弟らは、私が眉間に皺を寄せるのを確認するやいなや、大人たちのボールを拾いにコートに走っていってしまった。

溜息をつき、木陰のベンチに戻ろうと振り向いた時に、そこに立ち尽くす彼が見えた。彼は私がこちらを見たことに気づくと、一瞬顔を歪め、それから身を翻して森へ去っていった。私の耳には彼が小枝を踏む乾いた音がいつまでも響いていた。

避暑地の夜は密やかに濃くなってゆく。遠くから遠慮がちに聴こえる虫の鳴き声の中に、時折鳥の羽音が混じるほかは、何も聞こえない。大人たちは階下で宴会をしていたが、それも零時を回る頃には散会していた。

きっと今なら、星が流れる音さえも拾えるのではないかしら。月明かりが、開け放した窓から差し込み壁を照らしている。糊の効いたシーツにくるまり、私は目を閉じて星の囁きに耳を澄ました。

家全体が寝静まった頃にその音は聴こえた。小枝の割れる小さな音。窓ガラスから外を覗くと、彼が森を歩いていた。手にはコーラのボトルが二本提げられていた。彼の表情は木の陰に入り伺えない。
風が吹き始めていた。このまま風が彼の髪をかきあげてくれないだろうか。

一陣の風が吹いたのと、彼がこちらを向いたのは、同時だった。
窓に吊るされたレースのカーテンが巻き上がる。
私は驚いて窓辺から離れた。跳ね上がった心臓を宥めようと目を瞑る。脳裏には彼の輪郭が焼き付いていた。
平静になるのを諦め目を開けると、壁にかけられた黒いワンピースが照らされていた。私は素早くそれを身に纏い、青い月の下にいる男の許へ駆け寄った。

今はそのワンピースは着られない。処女だった一四歳の頃の私と、二五歳の私では体型が余りにも違う。肌の湿り気だけが、変わらない。
あれから何度も黒いワンピースを買い直した。今私の手元にある黒いワンピースは、レースに編み上げられたラルフローレンのものだ。そのドレスの重さは、私の心を世界につなぎとめる役割を果たしている。

彼の手にあったコーラのボトルは、ワイングラスに変わってしまったし、森のなかで枝を踏む音をまた聴きたいと願っていても、オペラパレスの赤絨毯に吸い込まれて聴こえない。ただ、私と彼の中でのみ、あの世界は続いている。

私はあの夜、錬金術を手に入れた。美しいものを無造作に扱う特権と、境界線を侵される幸福。それが同時に存在する時、服につけられた皺は最高の模様となり心に刻まれる。あのワンピースは箪笥の奥底に畳まれて静かに眠っている。私の思い出の証言者として、その色を保ったまま。

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