煙たい愛 前編

かつて母が私を妊娠した時、引っ越したばかりの新居に見知らぬ女性が押し入ったことがあるそうだ。
女性は、私の父親となる男とかつて関係を持っていたと主張した。
白昼、その部屋には母しかいなかった。
新居の窓ガラスを割り、梱包を解いたばかりの食器を手当たり次第に投げつける女性を眺めるうちに、母は婚約中だった男を見限ろうと思ったらしい。
女が感情的に部屋を壊すさまを、開け放したままの玄関の扉の隙間から、小学校高学年くらいの男の子が覗いていた。
それが、私の異母兄だ。
全て、私が15歳になった時に母から聞かされたことだ。
私はその頃のことを何も覚えていない。何しろ、母の腹のなかで細胞分裂に忙しかったから。

私の恋人が結婚すると聞かされたのは、共通の友人と電話で交わした世間話の中でだった。
フランスに住んでいたはずの彼は、いつの間にか日本に帰国していたらしい。
前日に同じ時間軸で恋人とおやすみと囁きあった記憶が、急速に色褪せて不確かなものに変容してゆく。
誰よりも親しかったはずの男の生存報告を、友人から受けるなんて滑稽だ。
私が夕べ聞いた声は誰のものだったのだろう?
友人の声は成層圏を通り、ぱらぱらと氷の欠片のように平坦な音となって私の耳に注がれる。
きっと私の打つ相槌も同じように聴こえていることだろう。

私の体に刻まれた記憶は、幻想だったのだろうか。出来ることなら我が身を開いてそれを世界に問いかけたい。
外気に当たれば、個人の記憶などたちまちのうちに形骸化されてしまう。
それでも、記憶を共有する相手がいないことは、とても寂しいものだ。

「あの遊び人と結婚しようなんて、奇特な人もいるもんだ」
友人は、私と彼が付き合っていることを知らない様子だった。私もそれについては口を挟まず、彼女の話に耳を傾けた。
「彼、○○に住むらしいよ」
彼女の口から、首都圏近郊の小さな街の名前を挙げられた時、私は眉をひそめた。
「どうしてあんな辺鄙な場所」
張り付いた喉の粘膜をこじ開けるようにして声を発すると、からからとした言葉が出てきた。
「子育てに適しているからだって」
彼が郊外の出身だったことを思い出した。
緑の多い場所が好きだったのか、彼は。
いつか目黒に住みたいって言ったくせに。

窓を開けると、遠くにカナリア色の宮殿が見える。
彼が「いつか住みたい」と言った街にある実家に、想いを馳せた。
そこに一人で暮らす母は、あの窓ガラスをきちんと磨いているだろうか。

「お前、俺のおふくろみたいになるのはやめた方がいいよ」
数日後、私の住む町に立ち寄った兄は、薄暗い店内で私の話を聞くや否やそう切り出した。
世紀末に文豪達が集ったカフェは、今でもヤニで黄ばんだ壁紙をそのままに、煙たい空気をその場に留めている。
「いるか?」と兄が寄越した煙草を私は指でつまんだ。
「この都市は愛煙家に優しくていいね。街の至る所に吸い殻入れがあるし」
私の咥えた煙草に火を近づけながら彼は呟いた。
医者のくせに不健康なことが大好きな兄は、衆目を気にせずに嗜好を楽しめる異国が気に入ったようだった。

「あの人は、人に頼り、人を糾弾しないと自分の立ち位置を決められない人だ。その癖自分では何一つ提案できない。自分の意見に責任を持てないんだ」
兄が、長らく付き合っている女性との結婚を母親に反対されていることは、会う前にやりとりしたメールで知っていた。
息子の結婚に感情的に反対する中年女性に辟易した恋人は、最近では兄との会話の端々に破局を匂わせているらしい。
「そうやって自分の周りから目を逸らしながら生きてきたのが、俺の母親だ。お前はああなりたいのか」

兄は何故、私のことを「私」として見られるのだろう。
腹違いの妹。父親の遺産を争う存在。
そもそも彼は、私が存在してしまったことで絶たれた幾多もの運命を懐かしんだりはしないのだろうか。

「違うよ。きっと、あの人は主導権を取り返したかったんだと思う。
ほら、私達の父親は、肝心な時に逃げる人だから。
自分の知らない場所で自分の運命が閉じていくのが耐えられない時ってあるでしょう。その運命に抗うつもりはないよ。でも、あなたのことを愛している私のことも忘れないで、って叫んでいるんだよ」
一息にそう告げ、煙草を咥える。久しぶりに喫った煙草の煙が、喉の粘膜を撫でて肺をやわらかく覆った。

「救いようがないな。
女ってそうやって別れた相手のことをいつまでも愛してる、って言うけれど、それは自分に酔ってるだけだ。
そんな気持ち、お前らはいつの間にか忘れるんだよ」
私は、数日前に電話をした、かつての恋人の声を思い出していた。「今回はしょうがなかったんだ。彼女と僕の子供を見捨てることなんて、僕には出来ない。僕は、自分の犯した罪を背負って生きる。君のことを愛し続けながら」
私は煙草を灰皿に擦り付ける前にもう一度深く喫った。これでは、また中毒になってしまいそう。
「あら、それはあなたの経験談かしら。私に言わせてもらうと、男は、別れた女を愛し続ける自分に酔ってるわよ。
見ていなさい。十年後にその女性に会った時に、憧憬と現実との格差に慄くんだから」
私は目の前の男にたばこの煙を吹きかけ挑発した。煙をよける兄の指は、体形に似合わずほっそりとしていた。その手が私の手に似た角度で動く。ああ、この人は私と半分成分が同じなのだ。

人は自分の立ち位置からしか世界を眺められない。しかし、その世界が偽物だと、だれに証明できよう?
自分の世界を見つめることを放棄した女。
守るために外界からの介入を遮断した女。
世界の外側で女を断罪しようとする男。
世界を見つめようとせずに、それでも世界を守ることを命題と信じ込む男。
彼らに引きずり込まれずに生きていくのは、かくも難しい。

「君にとって大切なことは何」
かつて恋人だった男が私に問いかけた言葉が脳裏に蘇る。
午後の日差しが真っ白いシーツに差し込んでいて、鳥のさえずりが遠くから聴こえてきて、外は素晴らしい日だった。
「自由でいること。そして、その状態にある私を認識できること」
私は仰向けの男の上に跨り、首を絞めつけた。男は一瞬驚いたのちに、目を細めて笑った。
「うれしい。僕のことをそうやって捕まえていてくれ」
息絶え絶えに言葉を絞り出す男の顔はだんだんと充血してきた。
私はそれを確認すると、手を放し、ベッドから降りた。
「捕まえないわ。私、生き物を飼うことは不得意なの」
背後で男がベッドから身を起こしたのが分かった。
「ごめんね。私は自分の命にしか責任を持てない」
思い出した。私は私自身に引導を渡されたのだった。

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