初恋の呪縛

冬空のしたでフォーレのヴァイオリンソナタ2番2楽章を聴いていると、中学2年生の冬のことを思い出す。
とてもとても大好きな人がいて、でもその人にはもう半年も会っていなくて、連絡先も知らなければ、彼は私が自分を好いているということさえも知らなかった。
何一つとして伝達手段を持たなかった私ができたことは、夜空を見上げ、彼への気持ちを星に託すことだけだった。

彼と私はセックスなんてしなかった。
身体を使わなくても、互いの心の襞を撫でることが出来た。
男の子と寄り添って、互いの息が触れるかどうかの距離で眠ったの、もう12年も昔のことなのね。
あれから私は、幾人もの人と互いに理解し合う方法を捜してきたけれど、結局あの夜にあなたの寝顔を眺めていた時に流した涙よりも美しい涙を流せたこと、一度だってない。

私と彼は、中学2年生の夏休みに習い事の合宿で出会った。
私は習い事を始めて間もなかったから、その合宿に参加するのも初めてだった。けれど様々な年齢の生徒たちが初対面にも関わらず私を快く迎え入れてくれたおかげで、すんなりと馴染むことができた。
隣県の保有する合宿場には、私たちのような文化系の参加者もいれば、体育会系の学生もいて、集会室からはグラウンドでバットを振る学生の姿が見えたし、廊下を歩くと体育館からバスケのドリブルの音が聞こえてきて、とても賑やかだった。

合宿所の男子の中で私の容姿が評判になったのは、初日の食堂に私が足を踏み入れた時からだったと思う。
丸刈りの集団がこちらをちらちらと見てきたけれど、生憎私には彼らの個体識別方法がわからなかったため、俯いてその脇を通り過ぎた。
空き時間にテニスコートで、友人になったばかりの年下の女の子たちとテニスに興じていたら、窓に丸刈りが鈴なりになってこちらを見ていたし、休憩時間にロビーで本を読んでいたら、それを丸刈りが「可愛い」と騒いでいたと、年上のお姉さんが教えてくれた。
別にそんなこと日常茶飯事だったので、私は特に気にせずに予定をこなしていたけれど、ここは合宿場。全てを放っておいた私は、やがて面倒くさい事件を引き起こすことになる。

知らない丸刈りに呼び止められて
「好きです」
と告げられたのは、浴場から部屋に戻る最中だった。ピンク色の薄手の部屋着を見られたことが恥ずかしく、口を利くこともなく振り切るようにして部屋に逃げ込むと、そこでは先に戻っていた友人達が集まってトランプに興じていた。
その中には中学生の男子も数人混じっていたけれど、彼らは私のことを出会って早々に呼び捨てで呼び始めたし、それがこのコミュニティの中では当たり前の作法だったから、私も仲間として受け入れられたのだと安心することができた。ここに集う友人と丸刈りが同じ人間だとは思えなかった。
「どうしたの」同室の小学生の女の子が私に尋ねた。
「なんでもない。私も混ぜて」

しばらくして今度はベランダからノックの音がした。カーテンの隙間から、声変わりしたての男子のひそひそ声が漏れ聞こえた。丸刈りのものであることは間違いなかった。
私は「どうしてこんなめんどくさいことになるんだ」と呟きながら、窓を開けもせずトランプの手札を切っていた。
すると、
「可愛いんだから仕方ない」
という声がした。
その声を追い視線を上げると、そこに彼がいた。それが、彼に話しかけられた初めての言葉だった。

昼の活動中にも彼のことは目にしていたけれど、向こうは決してこちらを見ようとしなかったから、彼の目に私の容姿が映っていたことが意外だった。彼の伏し目がちの目元はとても優しげで、年下とも年上とも物怖じすることなく話しているところに好感を持っていた。私は、自分の容姿が引き起こす面倒事に恐縮しきっていたから、彼の言葉が持つ受容の響きに気分が楽になった。
「そうなのか」
私の言葉に被さるように部屋の扉をノックする音が聞こえた。
ドアの近くにいた友人がすかさず立ち上がりスコープを覗いた。
「野球部だ」
その言葉に、皆はトランプを放り出し騒ぎはじめた。
私は布団を体に巻きつけた。
彼は素早くドアに近づくと、静かに鍵を開けた。その動作と、目元がとても印象的だったのを覚えている。
見知らぬ丸刈りは、ドアの中にいた彼と私たちを見比べ、一瞬の間ののちに激昂する。
Tシャツの胸ぐらを掴まれた彼がドアの向こうに消えた。

部屋の中の友人達は面白がってスコープから代わる代わる外を覗いていたけれど、彼らの姿はやがてその視界の外へ消えてしまった。

彼は少しすると部屋に戻ってきたけれど、何が起きたかについては口を噤んで教えてはくれなかった。
興が削がれた友人達は、それぞれの部屋に休むために戻っていった。
私と同じ部屋の小学生の女の子も、別の部屋に行くといって出ていった。きっと仲良しと共に夜を過ごすつもりなのだろう。私はひとり、部屋の布団にくるまっていた。ひとりぼっちだな、急にそう思った。慣れない土地で、余所行きの部屋着を着て、どうして私は孤独なのだろう。

静かなノックの音が聞こえてきたのはそれからまもなくのことだった。
スコープを覗くと、決まり悪そうな彼の姿が見えた。
「どうしたの」
「部屋に鍵がかかっていて入れない。あいつら寝てしまったみたいなんだ」
「それは大変ね。この部屋私しかいないの。空いてるベッド使っていいよ」
彼は申し訳なさそうに、いちばん入り口に近いベッドに腰を下ろした。
「さっきはありがとう」
少し躊躇ってから、他の人が彼を呼んでいた名前を呼んだ。
彼は私のことを下の名前で呼び捨てで呼んだ。
彼が私を認識していたことに私は安堵する。湯沸かしポットから注いだお湯の音が、部屋の中に響く。いつのまにか、夜の静けさが訪れていた。

好きという気持ちが、感情の押しつけにほかならないというのなら、世の中の人はどうしてそんなにおこがましいことができるのだろう。その頃の私は、人から好意を向けられることに疲れていた。多くの人は私の顔色を見ながら、好かれようと行動を決める。その態度は、その人の心の奥にもやがかかったように見えて、とても不安を掻き立てられた。

彼とその晩過ごした時間は、実は断片的にしか覚えていない。幾つかの印象的な会話と、彼の脚や横顔の鋭利さと、声の持つ独特の響きが、永遠にも引き伸ばされたかのような記憶となって今でも残っている。その瞬間に私は、彼の本質的なところに限りなく近づいたのだと思う。そんなこと言うと笑われるかもしれない。でも私はそう思った。彼はいつの間にか眠ってしまっていて、その静かな寝息を聞いていると、私はなんでだか泣いてしまった。朝が来るのが嫌だった。

翌日朝食時間の直前に目が覚めた私たちは慌ただしく支度をした。幸い、他の友人らは私達が同じ部屋で一晩を過ごしたことに気がついていなかった。朝食会場に丸刈りがいなかったことに安堵しながら、私たちは覚め切らぬ体で味噌汁をすすった。合宿が終わるまで、あと数時間だった。

彼のことを好きなのだと気がついたのは、帰りの新幹線に乗っているときだった。別れ際に、彼になにかを伝えたかったけれど、何も言葉が出てこなかった。彼もそれは同じだったようで、私たちは見つめ合い、手を振ることしかできなかった。連絡先を聞いておけばよかった。でも、そんな現実的な場所に、昨日の時間を引っ張ってくるのもなんだか違う気がしたのだ。ウォークマンにいれていた、モンブラン&ユボーの演奏するヴァイオリン・ソナタが窓の向こうに流れる山脈と合わさって、心の内側をざわめかせた。

それからずっと、私は彼のことが好きでい続けている。今でも、ずっと。

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