失恋は石鹸の香り

私の学校にやってきたその教育実習生が、学年中の男子の好意をひっ攫うまでに要したのは、ほんの数日のことだった。

「音楽の教育実習生、可愛いよな」
「あんな姉ちゃん欲しい」
「いや、彼女になって欲しいよ俺は」
「授業は下手だけどな」
野球部の賑やかな奴らはそう言って、いつもの如く意味もなく大声で笑う。その度に、彼らから湿った砂埃の臭いが漂ってくる。
彼らの発する野卑た空気が私は苦手だ。休み時間には意味もなく廊下を走りだすし、静かに教室の隅に集まっていると思いきや突然、大声で卑猥な単語を叫び出したりする。誰かが持ち込んだ整髪料を訳もなく頭に塗りたくったり、制汗剤や香水をぶちまけたり、そんないたずらは日常茶飯事だ。
彼らの発するエネルギーは、灼熱の金属のように周囲の空気に伝播する。私はそれを肌で感じるたびに、炎天下のアスファルトの上に放り出されたように眩暈を覚える。
逃げ込む木陰は側にない。
飛び込む泉もここにはない。
だから私は剣道部員のあいつの姿を探す。彼の佇まいは周りの空気に揺らぐことがない。その姿を視界に入れると、私の体の熱はいつのまにか穏やかに沈んでいくのだ。

その教育実習生は、実習開始日の朝礼で壇上に上がった時から衆目を集めていた。
実習生の多くは、スーツメーカーのお仕着せであろうリクルートスーツに身を包み、黒々とした(恐らく黒染めだろう、経験者にはわかる)黒髪を撫で付け、室内用の運動靴を履いている。
その中で彼女ひとりが、白いワンピースに青いジャケットを羽織り、黒いエナメルのサンダルを履いていた。
教育実習生がリクルートスーツを着用すること。
それは私達が標準服を着用することと同じくらい当たり前のことだった。これまでに毎年現れては消えていった数多の実習生は、皆似たような格好で、だからいつのまにか現れてもいつのまにか去っていっても、私たちの心を波立たせることはなかった。

彼女の豊かな黒髪は、スポットライトの中で緑色にも煌めいていて、彼女の周りの空間だけが、立体的にその場所に存在していた。
それは、思春期の疑り深い私達にとって、信用に値する態度ではあったけれど、だからこそ私は嫌な気持ちになったのだ。
彼女は彼女でしかない。ということは、彼女は私達に教育実習生としての責任を持っていないということなのではないだろうか。
生徒、先生、実習生。そうやってカテゴライズすることが、閉鎖的な社会で円滑に物事を進める上で大切な領分なのだ。彼女の佇まいは、そのどこにも属さないと表明している。
そんな印象を感じていたのは、私だけではなかった。
整列した生徒達が「あの先生可愛い」と盛り上がる中で、隣に立っていた彼は「あの先生、教師になる気無いんじゃねーの」と呟いて、私に同意を求めた。
見慣れない道着の胸元で、彼の喉仏が上下する。それを盗み見ながら私はゆっくりうなづいた。彼は私の反応を見下ろすと、この後に行われる部活の大会の壮行会で挨拶をする為、そのまま列から静かに離脱してステージ裏に向かっていった。

教育実習生は隣のクラスでホームルームを請け負うことになった。彼女の専門教科は音楽なので、選択科目に美術を選んでいた私は、直接彼女の授業を受けることがなかった。
音楽を選択していた友人たちが
「先生緊張していて可哀想だったから、寝ないでちゃんと授業を受けたんだよ」
と報告してくるのに「優しいね」と相槌を打つことはあっても、彼女と言葉を交わすことは殆どなかった。
廊下ですれ違っても、彼女は私に微笑みかけたりなどしなかった。いつもすれ違うときに微かなムスクの香りが私の頰をくすぐる。手で捕まえようとしても、消えてしまうほどに儚い。だから私も彼女に挨拶をしたりちょっかいをかけることもなかった。

教育実習の期間が終わりに近づいた頃、それまで騒がしかった野球部のやつらの雰囲気が変わってきた。香水の香りも整髪料の匂いもしない彼らは、相変わらずすぐに溢れそうな熱量を持っていたけれど、それを外に発散することをいつのまにかやめていた。
だから、選択授業を終えた彼らが音楽室から連れ立って戻ってきたときも、私はとっさに気がつかなかったのだ。
「最初はたどたどしくて心配だから聞いていたはずなのに、いつの間にかあの先生の話が面白くて引き込まれてるんだよな」
「それ俺もだ。最近ロシアの歴史に興味持ち始めた」
口々に話しながら、教室のドアを開けた彼らは、上履きを引きずる音も、ガムを食べる音も立てなかったし、あろうことか引き戸を開けると、そのまま教室に入らずに、後ろにいた女子を先に中に通したのだ。
「私もロシアの曲に興味を持つようになったよ。音楽って歴史や民族と密接に結びついているのね」
彼らに道を譲られた女子たちは、そう言って彼らと笑いあっている。

その時、後ろから剣道部の彼が入ってきた。
彼が廊下から引き入れてきた冷気に、野球部の男子は振り向いた。
彼の背丈は頭一つ分彼らより高い。
野球部は彼がいることに気がつくと、途端に意地の悪そうな笑みを浮かべた。
先生のかけた魔法はたった今、解けたのだ。私はそう感じた。
「お前、先生に惚れてるだろう。授業中、瞬きもせずに口を開けて先生を見つめてたの、見えたぞ」
私の心臓は、耳の受けた衝撃よりやや遅れて激しく血流を押し出した。
彼は、挑発には乗らずに暫く野球部を見つめていたが、
「悪いか」
とだけ答えるとそのまま教室を静かに横切ると、私の隣の席に腰を下ろした。
その声の響きは、空気に溶けて消えてしまっても、つかの間教室を支配していた。野球部たちが、その支配を打ち破るように大声で囃し立てはじめたのと、予鈴がなるのが同時だった。

彼の姿を見ても、私の体に溜まった熱は逃げていかなかった。それどころか、どんどん内側に溜まっていって、違う物質に変容しつつある。
先生の教えているものは音楽ではなかったのだろうか?彼らをどんな生き物に変化させてしまったのだろう?
彼女のまとう複雑な香りが鼻腔に蘇り、私は頭を抱えて机に伏した。母親が朝手渡したシャツから、石鹸の匂いが立ち上る。こんな香りをまとっていても、私の中で生まれる感情の匂いは打ち消すことが不可能なのだ。

「先生いつもお洋服素敵ですね。お嬢様でしょう」
隣の教室で日誌を書いていた彼女に話しかけたのは、その日の放課後だった。
校庭に面した窓から、ボールを打つ音やホイッスルの音が聴こえてくる。
「ありがとう」
先生は私の声に顔を上げ、しばらく私を見つめてから私の胸元の名札に目を止めた。
「実はね、お金がないから殆ど母や叔母のお下がりなの。本当に好きなものしか買いたくないから、リクルートスーツは買わないで済ませちゃった」
「ふぅん。先生って他の教育実習生と違うのね。でも、そんなことしていいの」
私の質問に、彼女は形の良い眉をすこし上げてこちらを見つめる。彼女の指先に、万年筆の青いインクが滲むのが目に入る。
「あら、だめなの」
私は彼女の目線に耐えかね、前髪をいじった。
昨夜から肌荒れがひどい。目の前の女性は白い艶やかな肌を有しているが、かつては私のように思春期を経験したのだろうか。ムスクの香りをつける前は、石鹸の香りの香水をつけていたこともあったのだろうか。
「標準服だって、着たくなければ着なくていいのよ。でも、標準服を着ることによって救われている事実から目を背けているくせに、そうやって安全な場所から好き勝手に言うのはずるいんじゃないかな」
彼女の言葉の鋭さに、私はたじろぐ。
その感覚は、休み時間に彼の言葉を聞いた直後に感じた衝撃とよく似ていた。

彼女の前で、私は生徒ではいられなくなる。同じフロアに引っ張り出される。そして、私はそんな自分を見つめるのが、こわい。教室を飛び出して廊下を走ったが、注意をする声は聞こえなかった。

日の傾きかける頃に校門を出ると、剣道部員が道場から出てくるのが見えた。彼の姿もある。彼は、私に気づくとゆっくり近づいてきた。
「どうした、そんな仏頂面して。野球部に何かまたからかわれたのか」
彼はそう言って隣に並んだ。
彼の声を聞いても、私の心に立った波は静まらない。だから、彼に嫌われてしまうとわかっていても、流れ出る言葉を止めることが出来なかった。
目の表面に涙が盛り上がるのにも構わず、私は絞り出すように言った。
「22歳なんて、歳上じゃん。相手にされていないよ。どうしてあの人なの。周りにはもっと可愛い子たくさんいるのに」
彼は、すぐになんのことかわかったようだった。
彼を引き止めたい。私のそばに留め置きたい。すがりつこうとする私を、彼が冷静に見下ろしているのがわかった。
「年齢でしか人を判断できないようなお前にはわかんないと思うよ」
お前のバカにしている野球部のやつのほうが余程頭がいい、そう言って彼は交差点を渡っていった。信号が赤に変わり、彼の姿は国道を走る車で見えなくなった。
今まで信じていた世界が急速に遠ざかっていく。石鹸の香りを排気ガスの混じった北風がさらっていく。目に入ったゴミを拭おうとしていると目の端に涙が滲んだ。叫んだせいで息が荒い。カバンを地面に放り出して大きく息をすると、さまざまな香りが鼻腔をくすぐった。
私のシャツは汗で湿り、もう石鹸の香りなどしない。いくら無垢なふりをしても、それを見抜く人種は世界にたくさんいるのだ。
その結論に至り、ようやく私は自分の中に生まれた熱を沈めることができた。

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