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【今日のnote】「ノルウェイの森」


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、188日目。


 ずいぶんと長引く風邪だな、と思いながら、今日も部屋にこもって仕事をしている。

 早朝に編集・校閲業務の納品をして、午前中は大学取材の記事の修正点の打ち合わせを電話で行い、身体がしんどいので日中は少しだけ休んで、昼下がりから3,000文字の原稿を1本終わらせ、今、noteを書いている。夕食は出前の中華料理。食べないと風邪が治らない。ながら仕事は良くないと思いつつも、次の原稿をやるまでに時間があまりないので、夕食を食べながらnoteを書く。

 今夜はこれから、まだ5,000文字の原稿をやらなければならない。明日も、編集・校閲業務、3,000文字、5,000文字の原稿という同じメニューだ。落とせない原稿なので、ここは何とか乗り切らなければいけない。フリーランスライターはいつも宿題を抱えている。これでも多少、納期を調整してもらっているのだ。リスケを重ねている事業計画書も残っている。代理店さんやクライアントには感謝しなければならない。

 特に音楽をかけていないので、部屋の中は静かだ。換気扇が回る音と、エアコンが暖かい風を出す音と、加湿器が蒸気を出す音と、僕がタイピングをする音と、食事を咀嚼する音が、わずかに部屋の中に響いている。部屋には、Yohji Yamamotoの服が何着か掛かっている。内田すずめさんの絵画が刺繍された二着の服の中からは、ふたりの女性がこちらを覗き込んでいる。『今宵椿』と『月光』。ふと、視線を感じて、何度か服を確かめる。そこには女性の絵画があるだけだ。誰かが見ているわけではない。椿の赤色を見て、少しだけ誰かのことを思い出し、そして何とも言えない気持ちになる。

 気づけば、三十四歳になったんだな、と思う。

 そして、2018年が終わりを迎えようとしている。

 東京の拠点には、ほとんど本を持ってくることができておらず、NewsPicks系の流行りのビジネス本しか置いていなかったので、なんだか殺伐とした気持ちになっていた。これじゃあ、まるで、小説を書くことも、読むことも忘れてしまった大人みたいじゃないか、と思った。

 それもあって、今月の頭に、地元の事務所に戻ったとき、本を何冊か持ってきた。

 中島らもの「永遠も半ばを過ぎて」と「君はフィクション」、吉本ばななの「アムリタ」と「TSUGUMI」、三島由紀夫の「葉隠入門」、村上春樹と川上未映子の対談本「みみずくは黄昏に飛びたつ」。恥ずかしながら、有名な作品もあるけれど、どれもまだ読んでいない本である。


 そんな中、ひとつだけ、すでに読んだことのある本を持ってきた。

 それが、村上春樹の「ノルウェイの森」だ。


 なぜ、今になって「ノルウェイの森」なのか。

 自分でも、あまりよくわからない。けれど、この本は、僕の人生を変えてしまった一冊で、少年の頃の読書の原体験であり、この本に出会ってしまったことで、おそらく僕の現在の生き方も、感性も、すべてが決定付けられてしまったのではないかと思うくらいの衝撃を受けた作品だ。

 死生観を叩き込まれた。人生の理不尽さを知った。失うことの恐ろしさを学んだ。できるならば、主人公のような人生は送りたくないと思った。愛する者を失う人生なんて、ぜったいにいやだ。だから、僕はこの本を読んでからしばらく、村上春樹という作家がものすごく嫌いになった。やさしくなかったからだ。「ノルウェイの森」には、少年の読者にたいする、一切のやさしさや配慮がない。心通わぬ恋愛、人生の喪失、混乱のままに終わる物語。当時、十二歳の少年だった自分には、あまりにも重すぎる小説だった。

 はじめて「ノルウェイの森」を読んでから、二十二年の歳月が経った。

 そして僕は、十二歳から、三十四歳になった。

「ノルウェイの森」の主人公であるワタナベは、三十七歳だ。気づけば、あと三年で、僕は彼と同い年になる。


「ノルウェイの森」の小説の冒頭で、ワタナベは、ハンブルグ空港に着陸したボーイング747の機内で、ビートルズの「ノルウェイの森」の旋律を奏でるオーケストラの演奏音を聴き、過去に失われてしまった恋人、直子のことを思い出し、はげしく混乱する。

 以下、引用。

 でも、そんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは事実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮れの影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸い込まれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぶんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルグ空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。



 多くの人の記憶に残る文章を書くということ。

 僕の人生の中で、絶対にやり切りたい仕事は、それだけだ。

 僕は人生に、それほど多くのものを求めてはいない。ただひとつだけ、偏執的に譲ることができないのは、書かれるべき文章をこの世に残す定めを感じるということだ。それだけは、絶対にやり残して死ぬわけにはいかない。

 それは、小説なのかもしれないし、あるいは、なんらかのエッセイなのかもしれない。創作する過程自体がコンテンツなのかもしれない。まだ、どんな形式なのか、その全容は、僕自身にもわからない。

 ただ、ひとつだけいえることは、僕の頭の中に、「誰か」がいて、その「誰か」が、僕に強く問いかけてきているということだ。

 おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。

「ノルウェイの森」に初めて出会った十二歳の頃の僕には、語るべき言葉は何もなかったけれど、三十四歳の僕には、それなりに、語るべき言葉がある。伝えたい「何か」がある。そろそろ、僕自身の中に温めてきた物語をかたちにするために、動き出すべき星の巡りがやってきているのかもしれない。

 これまでは、小説を書くことを、どこか受動的な取り組みだと思っていた。書いたものを、誰かが見つけてくれなければ、ずっと芽が出ないものだと思い込んでいた。しかし、今の時代は、自分の動き次第でコンテンツを世の中に伝えていくことができる時代だ。「ノルウェイの森」が書かれた頃とはまったく違う。出版社に売り方を考えてもらうのではなく、誰かの手元に届くまでのデザインを、自ら考える時代になっているのだ。「新世界」と「革命のファンファーレ」を読んで、新しい視点が自分の中に育まれた。

「ノルウェイの森」は単行本・文庫本合わせて1,000万部、海外翻訳33言語という記録を持っているらしい。それだけ読まれた作品ということは、それだけの理由を物語の中に秘めているということだ。この本の中に、その手がかりはある。久しぶりに、ゆっくりと読み返してみたいと思う。そして、僕自身が「これだ」と思える作品をひとつ作り上げて、それを持って世界中を歩き回り、ひとりでも多くの伝えるべき人たちの手元に届けてみたい。

 鳥の目と、虫の目と、魚の目と、虎の目と、竜の目と。

 五つの目を駆使して、作品づくりだけでなく、売り方まで含めて、考えてみようじゃないか。

 そうすれば、人生におけるすべての行動のモチベーションが、ひとつの目的に注がれることになる。人生の点が1本の線になる。


「ノルウェイの森」についての思い出を書こうと筆を走らせていたら、不意にアイディアが降りてきたので、今日は長いnoteになった。

 ここからまた、5,000文字の記事を書く仕事をしなければならない。もう、このnoteを書いたことで今日の僕の体力は削りに削られまくっている。けれど、降りてきてしまったものは仕方がない。

 彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。

 そう、僕は文章にしてみないと物事をうまく理解できないタイプの人間なのだ。まずは書く。そこから何かが始まる。これまでもずっと、そうやって生きてきた。——このnoteもまた、何かの始まりなのだろう。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

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