ヨルシカの風を食むの歌詞について

ヨルシカさんの楽曲『風を食む』の歌詞について考察したことを書きます。
盗作の初回限定盤などのネタバレがあるのでご注意下さい。
歌詞には「」を付けています。

「僕」を奥さん、「貴方」を盗作おじさんとして考察します。

風を食む→空を食べる→何も食べられない
と読んで、「風を食む」を病気で食が細くなった表現とすると、奥さんが亡くなっていく過程の歌のように読めます。(おそらく作中で死因は不明なので、病死かは断定できませんが)
「桜の散りぬるを眺む」は(『春泥棒』で命が桜に喩えられていることを踏まえると)自分の命の終わりを客観的に眺めているのかなと。
「散りぬるを」は、いろは歌からでしょう。
いろは歌は花を命に例えているので、
命を桜に喩えた春泥棒と似ているなと思います。

「空は高いのかな」という歌詞が2度出てきます。
1度目の「空は高いのかな」は物理的な高さを言っている元気な頃の言葉で、
2度目の「空は高いのかな」はどれだけお金を積んでも空を見れない、という病状が悪くなった時の言葉かなと思います。

最初の「僕らは今日も買ってる」は、盗作おじさんとショッピングしてる場面かなと。この後の「足りないものしかなくて」は、2人でしたい事や行きたい場所が沢山あるという意味に思えます。
「靴を履」くことができるくらい元気ですし、「空は高いのかな」からは、奥さんのスキップする音が聞こえるようです。

「テレビを眺めて空想」の時には、体調を崩して外出して空を見ることもできなくなり、家でテレビを観ているのかなと思いました。
「貴方は今日も買ってる」は、奥さんの病気を治そうと、盗作おじさんが薬を買ったりしてる場面かなと。この後の「足りないものしかなくて」は、奥さんの病気を治す術がない、という意味に読めます。
2度目の「空は高いのかな」は奥さんが自分の命の値段を想っているのかなと。心に値段をつける描写が何度もありますし。
「貴方だけこの希望をわからないんだ」は、奥さんにとっては盗作おじさんがいるだけで希望だ、ということかと。それだけで「僕にとっては美しい」のでは、と思いました。

終盤の「貴方は風を食む」は、傷を持った人が風を食むように歌うからこそ、何も食べられない(風を食む)ほど弱った人にとっての希望になり得る、という意味に取りました。

「貴方だけ」と何度も繰り返す終わり方は、死ぬ間際の走馬灯で盗作おじさんのことを考えているのかなと想像しました。
風を食むMVのラストで空から降る砂時計の砂が止むのも、奥さんの命の終わりを表しているように思います。
砂が降り止む映像から、雨や雪が止むことを連想します。「冬籠り 春が先」という歌詞もありますし。
雨や雪が降り止むと、晴れたり春になったり穏やかな時期が来るので、
奥さんにとって穏やかな最期だったのかなと思いました。
曲もフェードアウトで緩やかに終わります。

風を食む→風を無くす→花を散らす風(春泥棒)に抗う→奥さんの寿命を延ばそうとする、と解釈してもしっくりきます。
風を、花(命)を散らす春泥棒、つまり時間だと解釈すると、誰もが風を食んで(時間を消費して)生きている、とも思えます。




全く別の解釈として、『風を食む』を消費社会についての歌だと考えることもできます。

「風を食む」という行動は、商品ではない、お金では買えないもの(風)を味わう、とも読めます。
「ニュースは希望のバーゲン」について思うのは、ニュースの語る希望は、バーゲンセールというだけで、無料ではないんだなと。
風が無料であることとの対比にも思えます。
お金の豊かさとは別に、自然にあるものを楽しむ心も豊かさだと思います。

心を割引する描写は、心という、個人にとって一番大事なものを安売りしてしまうという意味かなと。
心を大安売り(バーゲンセール)するという。
食べていく為に心を売る、と読むと、心を込めた歌を売って生きている人(盗作おじさんやナブナさん)の葛藤にも、広く社会に生きる人の葛藤にも思えます。
心や時間や、傷でさえも消費してしまう社会について歌っているように思いました。

代替可能なもの(お金で買えるもの)と、代替不可能なものを対比している歌にも思います。
誰にとっても心は代替不可能なのに安売りしてしまう、という歌にも思えますし、
僕にとって「貴方だけ」が代替不可能だった、と受け取れば、ラブソングだなと思います。愛はお金で買えないのかもしれません。


曲中でハミングしているので、
「食む」はhummingのhumでもあると思えます。

この曲が収録されたCD『創作』は、CDなしバージョンも売られました。
風を食むは、空を消費する、空のCDを買うって意味でもあるのかなと。
無のなかに音楽を見出すことが、創作なのかもしれません。