本能寺の変1582 【 重史 33 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 033】 『信長公記』
←はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
→その一因 目次大 目次中
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 人物 】
*加筆修正
【 重史 033】 そ第78話
①五月廿九日、信長公、御上洛。
②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
③今度は、御伴これなし。
『信長公記』
天正十年1582、五月二十九日。
信長は、上洛した。
五月廿九日、信長公、御上洛。
信長は、安土に、留守居の衆を残した。
本丸に七、二の丸に十四、合せて二十一将。
安土本城御留守衆。
津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・
世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。
二丸御番衆。
蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・
祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・簑浦次郎右衛門・福田三川守・
千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守。
是れ等を仰せつけられ、
従うのは、小姓衆のみ。
御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
信長は、中国へ出陣するつもりだった。
直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
信長は、軍勢を安土に残した。
京に入れ置くことを取り止めた。
「家康」への配慮、である。
家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。
御陣用意仕り侯て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、
御触れにて、
信長は、親衛隊(馬廻衆)を伴っていなかった。
すなわち、自身を警固する軍勢がいなかった。
今度は、御伴これなし。
(『信長公記』)
【引用】 そ第78話
⇒ 次へつづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?