休職しているのを両親に言えなかった。働いていることにしてた。【休職4か月目】
https://note.com/mina_career/n/n3f49fcb74f26
↑自分のやりたいことの片鱗に出会った話
※自分の記録用なので雑な文章です。
※最初から気になる方はこちらから
休職してから順調にメンタルを回復していきつつも
私は家族に休職していることをずっと隠している。
言えなかった。
言いたくなかった。
じゃあ前回の休職の時はどうしたっけ。
そういえば
一度目の休職の時はGWの帰省前だったから
休職してすぐ家族に打ち明けた。
でも家族に心配をかけたくなかったし
強がりでいたかったから
泣きたいのをぐっとこらえて
泣きつきたいのをこらえて
助けてって、どうにかしてって言いたいのをこらえて
「大丈夫」
と言ってその時の休職告白は終わった。
休職の家族への告白は
涙とセットになってしまう。
きっと
家族への告白
=自分で負け(休職)を認める
ことになって悲しくなるから。
家族に打ち明けるってことは
どこか自分で休職してしまった弱さを認めるようで
社会からはじき出された負けを認めるようで
ずっと無理だった。
そして家族に心配かけたくなかった。
あと、過干渉な母から
「もう帰ってきな」と
田舎の実家に呼び戻されてしまうのが嫌だった。
せっかく夢だった一人暮らしを
しんどいけど、辛い状況になってるけど、
でも、
メンタル壊してるときでもどこか守りたかった。
自由は手放したくなかった。
だから私にはゆるぎない自分の中の答えが必要だった。
母に「帰ってきな」と言われても
「私は〇〇したいの」
と言える答えが必要だった。
母に「休んで何しているの」と言われても
「心配しないで。〇〇してるの」
と言える答えが必要だった。
休職したのが5月。
告白のタイムリミットは8月のお盆の帰省まで。
その間も実家からいろいろ贈り物は届くから
(ありがたい)
両親とはラインのやり取りをしていた。
両親は私がずっと働いていると思っている。
隠しているような罪悪感。
本当はメンタルクリニックに通いながら
毎日抜け殻みたいに灰になって
生活をしているのに。
と、こんなに「どうしよう」と悩んでいたのに
つながりの学校で友達に恵まれたから
本当の私がやりたいこと
興味のあることに出会えて
(興味あることはここでは割愛)
自分の中でやっと整理がついた。
今休職していること
今立ち止まっていること
それでもいいこと
休んでやりたいこと
そんなのが自分でやっと受け入れられて
認められて。
家族にもすんなり言うことが出来た。
家族に受け入れてもらうのと
自分で受け入れるのとって
なんだか似ている。
===
母「仕事はどうなん?」
—今休職してて。
母「またかいよ」
—ちょっと自分の人生について考えて見たくなって...。
(いろいろ自分のやりたいことを話した)
===
私は両親に心配をかけるのがとても嫌だった。
だから休職の告白についても考えるのが面倒になってきて
いっそのこと黙っておこうとの選択肢も当然あった。
でもつながりの学校で
「私の中にはどんなニーズが(私は何を望むのか)あるのか」
NVCや相手の話を聴くエンパシーの練習をして
自分の気持ちに向き合ったから
メンドクサイから黙っておく
▶家族に休職していることを言う
の選択をすることが出来た。
父はいい意味で私にあまり干渉をしてこない。
どんな私でも小さい頃から受け入れてくれていた。
その代わり絵の賞とっても褒めたりもしない。
多分照れ屋。
問題は過干渉マミー。
なんて言われるだろう…。と思ってたけど
母「あんたさ〇〇さん覚えてる?あの建物がさ...」
母「でね、学校のさ...」
母「あとこれがね、●●ちゃんのところから...」
そうだった。
母は機関銃みたいに話す人だった。
私の話をしても過度に落ち込んだりすることもなく
聞いて聞いて!の人だったと
思い出した。
私の「両親を不安にさせたらどうしよう...」
は勝手に思っているだけで
あんまり私の告白に攻撃力はなかった。
でも帰省の最終日。
「これ、家賃とかの足しにしなさい」
そういってお金を持たせてくれた。
私の人に相談できない性格は母譲り。
母は感情をあまり表に出さない。
弱音を吐かない。寂しさも不安も恐怖も
全部娘の前では見せない。
多分これを私は見てきたから
相談する方法を今の今まで分からずに来てしまった。
だから私が帰省初日、休職告白したときも
きっと心配をしてくれてたんだと思う。
私が帰省した時は必ず両親は夜遅くまで話を二人でしている。
(私は疲れてるので即寝る)
(でも両親の部屋の明かりがついてるの分かる)
今回も私に見えないところで色々話してくれていたんだと思う。
私は今まで帰省の時には必ず強がっていた。
社会人になってから帰省は多分6回くらいしてるけど、全部。
余所行きの、都会の女を装って
楽しい私☆彡 で、いた。
今回の帰省で初めて素の自分で家族に体当たりできた気がする。
この歳になってやっと強がらずに
腹を割って話す、みたいなのが出来るようになった。
つながりの学校で見栄っ張りの皮をはがしてもらった
おかげな気もする。
そして化けの皮をはがしてもらったから
私は自分の「食べ物の愛を大切にしたい」
という自分の願いに気付くことができた。
この思いに正直になれた。
(熱い思いが気になる方はコチラ↓)
だから実家の、我が家の、私の家系の
代々営んできたお米屋さんの問題にも
首を突っ込むことが出来た。
そう。私の家は70年くらい続くお米屋さん。
今はもうあまり見かけなくなったけど
昔は町にお米を売るお米屋さんがあって
もちろん田んぼを持っていて
お米の卸もやっていて
それが我が家。
ずっと見て見ぬふりをしてきた。
私は新卒で入った会社で大量の食料廃棄を
毎日目にしていた。
それから食べ物とビジネスは合わせてはいけないものと思い
もう見ないようにしていた。
だから実家の事も見ないようにしていた。
でももう見れる。
この際だから我が家はどれだけ田んぼを持っていて
どれだけお米を売っていて
何に困っているのかを聴いてみた。
でもお盆の帰省中。
もちろん楽しいお出かけも両親と一緒にしたから
家族のシビアな問題に入り込むには
時間がなさ過ぎた。
余り聞けないままさようなら。
より家族が好きになったお盆だった。
この後一人暮らしの家に帰り私は
3日間コロナ。
声でないし熱やばいしご飯ないし。
そんな中離れたところに住む
両親、薬剤師の親戚が
もう、かなり助けてくれた。
この出来事でさらに家族を大切にしようと思った。
もちろん自分の事も。
↓次。ちょっと元気になって転職に手を出した話。やめとけばいいのに。
同情するなら投げ銭して