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絶滅危惧種

朝いちばん、慣例の儀式があった。
親戚中の同じ年頃の孫達(上は小学生〜下は幼稚園児まで)がずらり畳に座って待っている。目の前のふすまがシズシズと観音開きに開くと、向こうの間にまるでお内裏様とお雛様のように(ずいぶん老けてはいるが)お祖父様とお祖母様が並んで座っていて、私達孫連中は、声を揃えて「おじーさま、おばーさま、おーはーよーございまーす。」

畳に頭を擦り付けてご挨拶するその時、両手の親指と人差し指で三角を作ってその中に鼻を入れなければならない。
そういう儀式。

私と妹はお辞儀した時、ちゃんと指の間に鼻が入るよう、顔の前にはじめから小さな三角を作りながら、クスクス笑いながらふすまが開くのを待ち構えていたのを覚えている。

以上、半世紀以上前、お盆休みに里帰りした時、父の実家での体験。「今ならありえないよね〜」と思い出し笑いをする類のものだ。5歳の私はあの時「時代錯誤」のニオイを感じていたのだろうか。

アルバムをめくると、日常から消えてしまったものが写っていることに気づく。たった一代前「あたりまえ」のように存在していたものが、じわりじわりと姿を消していっている。

たとえばこれ、人間の「大家族」。
あの時代にあったような大家族は、今や絶滅危惧種ではあるまいか。特に都会生活者にとって、3代以上が一つ屋根の下に集う機会は滅多に無いのでは。現に父の実家は、本家と呼ばれた長男一家は消滅し、分家の兄弟姉妹は全員東京に出たきりになって随分経つ。いったん核を失ってバラバラになった一族には、もう集まる日も儀式もありえない。

あれは一体なんだったのだろう。

ふすまの向こう側で威厳のある顔をして、ずらりと並んだ孫たちの小さな頭を見下ろしていたお祖父様、お祖母様が守ろうとしていたものは一体なんだったのだろうと、考えてもしかたのないことを考える。

1人1台のスマホでつながる個人と個人。
結婚しないで1人暮らしでも生きていける社会。生身の人間と会わなくて仕事もできるし、何でも手に入るオンライン生活。人間社会のユニットはまだこれ以上小さくなっていくのだろうか?これからも?

決してあの時代の大家族がただ懐かしい記憶というわけでもない、この私でさえ考えることがある。シロクマにとって氷が、ベンガルトラにとって森が必要なのと同じくらい、人間にとって必要なものは何なのだろう、と。

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