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生活の中の小説

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日々、心を通り過ぎていく一瞬の風景を切り取って、小説にしていきます。小さな物語を日々楽しんでいっていただければと思います。
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2020年5月の記事一覧

小説 天才

小説 天才

 天才なんだよ。あいつは。

 宮岸は、よくそう言った。あいつは天才だ。あいつは。
 あいつとは、弟の豊のことで、豊のことを宮岸は天才と呼んだ。

 幼い頃から宮岸はサッカーをやっていた。兄に憧れて弟もサッカーを始めた。才能の差にすぐに周囲が気づいた。しかし、言わなかった。言えなかった。
 宮岸本人もまた弟の才能に気づいていた。幼時にそれとなく、自己の持つ才覚の限界を見定めていた。ああ、こんなにす

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小説 月読の詩 第2話「二人の明日」

小説 月読の詩 第2話「二人の明日」

 アヴリエは羽織った衣服を次々と脱いだ。一枚衣をはがす度に村のために背負った重責までもが抜け落ちていくような気がした。

 最後、彼女は村娘がいつも着る薄地のワンピースだけになった。村の女は大概この格好で家事を行う。日常の自分の姿だ。

 私たちの日常は遠い地平の彼方へと行ってしまった。
 アヴリエは自分の肌を見た。色白の肌は、世相の無知を思わせた。無垢と無知は、場合によっては同義である。

 不

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小説 月読の詩 第1話「祈りの祭壇」

小説 月読の詩 第1話「祈りの祭壇」

 祭壇の上に供物が置かれた。祭壇の周りには祭服に身を纏った人間が無言で立っている。コルトマは闇の中に茫洋と浮かぶ祭壇を見つめていた。

 密閉された祭儀堂の中央には大きな祭壇が据えられ、周囲には足の長い燭台がいくつも並んだ。使いが一人一人堂内へと入り、供物をささげていく。

 今朝、川で釣れた魚、畑からとれた野菜、干物、燻製。村の生活を育むあらゆる恵みが祭壇に並べられた。
 最後の供物を持ってきた

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小説 乾いた城の中で

 雨が上がって、太陽が注ぐと、山間に一つの城が見えた。山林を二日も迷った男にとって、その城は希望に見えた。助かった。男は素直にそう思った。

 尖塔が鋭く伸び、城壁が高くそびえ、その威容は周囲の森林とはまるで溶け合わず、不似合いだった。城全体を壁が囲い、何者の侵入も拒否しているように見えた。なぜ、こんなところに城があるのか。男は何も考えずに城へと向かった。物事を冷静に考える余裕はなかった。

 男

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小説 八年目の私

小説 八年目の私

 朝の鎌倉は人影まばらだった。平日であることもあるだろう。古都は静寂を湛え、小さな生活を重ねていた。少し高台に登れば、相模湾を臨むことができ、水平線の果てで空と海とが一つになる。 
 
 久ぶりにこの町に来た。あの時は二人でやってきた。お互いまだ大学生で、何も知らなかった。政治のことも、経済のことも。そして、自分が結婚するだろう人のことも。
 
 あなたが、そうだったのね。運命の人。少女漫画みたい

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小説 冷やし中華

小説 冷やし中華

 母はよく冷やし中華を作った。一年中、いつでも。母は季節感を忘れたように、冷やし中華を作った。季節を忘れてしまったかのようだった。

「好きなものを、好きなときに食べる。これが一番の幸せでしょ」
 母はそう言った。

 僕はテーブルの上に置かれた皿を見た。そこには色鮮やかな冷やし中華があった。
 冷やし中華って、なんで冷やし中華なんだろう。ふと、母に尋ねた。小学生の頃だったように思う。母はもちろん

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小説  5月のスキャット

小説  5月のスキャット

 私は、知らないのよ。本当に、そんなこと。だってそうでしょ? あの子があんなことしているなんて思いもよらなかったのよ。

  たまたま、たまたま見たの。お金を盗んで、そう。だから、私はそれを、伝えたの。知り合いの人に、ね。直接言ったわけではなくて、ただ、ふっと漏らしてしまったの。そしたら、めぐりめぐって、彼女が、やったってばれたの。

 私は、悪意があったわけではなくて、ほんとに、ぽろりと。そうな

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小説 だから僕は真夜中にコーヒーを飲む

「眠れなくなるよ」
 礼美が言った。

 僕はコーヒーを飲んでいた。時間は午後10時を回っていた。
「大丈夫。カフェインが効かない体質なんだ」

「私なんて、3時以降に飲んだらもうアウトだけどね」 
 彼女はコーヒーをあまり飲まない。飲まないのに、食事が終わるとコーヒーを入れてくれる。カップの横にはミルクが一つ置いてある。彼女は僕の好みを知っているのだ。

 夕食後に飲み、あまったコーヒーを風呂上

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小説 月明りから逃げて

小説 月明りから逃げて

  光が追いついてくる。闇夜を厳かに照らそうとする。影は、ビルの隙間に隠れた。
 肉体がほどけていく。実体が欠けていく。

 もとから実体なんてないじゃないか。影は小さく呟く。 

 俺は死んで、影になった。影でも生きていたかったのだ。世界への未練、残された、君。
 「あなたは、いつも遠くを見すぎるのよ。未来を見るのはいいと思う。大切なこと。でも、足元をもうちょっと見てもいいのかなってそう

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小説 シーラカンス

 シーラカンスは、古生代のデボン紀に出現してから現在まで、それほど体の形を変えていない。正雄はそう聞いた。

 化石で見つかるシーラカンスが、現在の姿とまったく同じであるわけではないが、それでも形の変化はわずかであり、少しずつゆっくり進化を遂げたのだという。

 生きた化石。シーラカンス。検索すると画像はたくさん出てきた。パソコンのディスプレイには古代の形をとどめる魚の姿があった。

 いつだった

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小説 アイロン

小説 アイロン

 登美子は、啓輔のシャツをしっかりと伸ばした。しわがないように、見栄えがいいように。

 主婦という言葉に憧れていた。
 会社にいるよりはずっとましだと思っていた。会社では自分の居場所はなかった。自分は歯車の一つだった。代わりはいくらでもいた。きっと、自分がいなくなっても、次の日には新しい人が来る。

 啓輔は将棋に凝っていた。
 インターネットでずっと将棋の対局を見ていた。
「わかるの?」
 と

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小説 鏡の中

小説 鏡の中

 琢磨は、深雪との関係を清算しようとしていた。
 もとから、長く続く関係じゃないんだ。琢磨はホームの端で電車を待っている間、誰にも聞こえないように同じセリフを何度もつぶやいていた。

  
 深雪と会ったのはいつだったか。確か、中学2年の時のクラス替えの時だ。まだ横浜に住んでいた時だ。言葉はほとんど交わさなかった。お互いに引っ込み思案で、恋仲に結びつけるにはあまりにも遠かった。

 卒業してから、

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小説 終わる世界

小説 終わる世界

 かつてそこには、豊かな海があった。コトネは文献でそう知った。 
今では、海と呼ばれるものは少なくなった。水は汚染されたし、生物は息絶えた。

 人類は地下の底に蓄えられた水を、くみ上げて生き延びた。大地が悪意を浄化した。

 わずかな水だけを頼りに人は命をつないだ。小さな暮らしを重ねて、少ない幸せを味わった。
人の娯楽は消えて、互いの言葉だけが、楽しみを生み出す手段だった。

 家の中には静寂だ

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小説 雨の薔薇園

小説 雨の薔薇園

 真也子は薔薇を育てていた。ワインのように深みのある赤い薔薇だった。
 真也子はよく薔薇に話しかけていた。友人のように、時に恋人のように。
  
 庭には銅像があって、なんでも軍隊の将校の銅像なのだそうだ。
「祖父が、海洋を彷徨っているときに助けられたって。その人の銅像を作ったの。変わり者よね」
 と真也子が言った。
「遭難したの?」
 則都は彼女に尋ねた。
「ええ。船がエンジントラブルで動かなく

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