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小説 雨の薔薇園

 真也子は薔薇を育てていた。ワインのように深みのある赤い薔薇だった。
 真也子はよく薔薇に話しかけていた。友人のように、時に恋人のように。
  
 庭には銅像があって、なんでも軍隊の将校の銅像なのだそうだ。
「祖父が、海洋を彷徨っているときに助けられたって。その人の銅像を作ったの。変わり者よね」
 と真也子が言った。
「遭難したの?」
 則都は彼女に尋ねた。
「ええ。船がエンジントラブルで動かなくなったって。それで、一月も海を彷徨っていたって」


 則都は海を思い浮かべた。水平線と空が見えた。そこには永遠とも思えるような時間が流れていた。終わらない洋行。尽きていく命。圧倒的な海の美しさと、人間の儚さを思った。


「祖父はずっと薔薇を見ていらしいの。船に乗り込む前に、島の人から薔薇をもらったって。その薔薇は、なぜだか枯れなかった」 
 真也子は薔薇を軽く撫でた。薔薇が喜んでいるようにも見える。
「植物にも、命があるって言ったら笑うかしら」
「笑わないよ」
 則都は言った。


 雲行きは怪しかった。灰色の雲が空に横たわっていた。今にも雨が降りそうだった。


「船の中では、誰も言葉を発しなくて、みんな次第に力尽きて亡くなっていったの。一人亡くなる度に、薔薇の花びらが一枚一枚落ちていったって。そして、最後の一枚が、祖父だった。祖父は言ったの。まだ、やることがあるって。祖母、おばあちゃんを残してきたから。当時、おばあちゃんのお腹には私のお母さんがいたの。それで、帰りたいって、そう言った。最後の一枚の花びらは、落ちなかった」


 翌日、海軍将校の船がたまたま船を見つけ、彼女の祖父は助かった。彼女の祖父はやせていて、すぐに病院に運ばれたらしい。
 
「祖父は、生きて帰ったの。薔薇も家に一緒に持ってきた」
「あの、花びらが落ちなかった薔薇?」
「そう。ずっと、その花びらは落ちなかった。少ない花びらで日に日に赤くなっていったように思う」
「その薔薇は、まだ、あるの?」


 雨が降ってきた。則都は空を見上げた。
 真也子は雨を気にしていないようだった。彼女の体が雨で濡れていく。


「祖母が亡くなった時に、おばあちゃんが亡くなった時に最後の一枚が落ちた。薔薇は茎だけになったの。それから、祖父も茎みたいに細くなっていった。病気が見つかって、すぐに死んでしまった」


 雨の中で薔薇はその赤みをより深め、より鮮やかな色気を醸し出していた。
「母は、薔薇をたくさん植えたの。命が、永遠に消えないようにって」
「お母さんは?」
 真也子は家の中を指さした。


「でも、生きているだけ。もう、目覚めることはない。そう聞いた。お医者様が、そう言ってた」
 真也子は薔薇を力強く見た。
 右手を伸ばし薔薇の茎を掴んだ。先ほどまで薔薇を撫でていたその手つきとは違った。
 トゲが深く刺さって、彼女の皮膚を突き出した。血が一筋流れた。

 そのまま茎を力強く折った。彼女は薔薇を手の平に乗せた。だらりと薔薇は横たわり、しかし、なおその命の力を力強く主張していた。

「生きることと、死ぬことの、絶対的な境界ってどこにあるかしら」
 彼女は血の滴る手を見ながらいった。雨がその血を流していった。
 彼女の血が薔薇に注がれた。薔薇は血を吸ってより赤みを増していった。真也子は、薔薇を掴んで、凛々しく立つ銅像へと投げつけた。 

 灰色の空を薔薇が横切った。薔薇はその形を保ったまま銅像へぶつかった。ぶつかって、そのまま形を崩して、散った。
 

 真也子は泣いているように見えた。しかし、それが雨だったのか、涙だったのか、則都には判断することができなかった。
「家の中、行こう。体が冷える」
 則都は言った。真也子は小さくうなずいた。真也子は力なくその場を去った。

 則都は、彼女の折った薔薇を見た。そこには一輪の薔薇がもう既にその姿を見せていた。先ほどの彼女の暴力に拮抗するかのように、薔薇がその生命力を現していた。

 薔薇はその色の中に自身の明確な言葉を持っているように思えた。
 沈黙こそが、薔薇の持つ命をもっとも饒舌に語っているように見えた。 
 

 数年経って、真也子の家を訪ねた。
 しかし真也子の家はなかった。あの薔薇園も姿を消していた。
 銅像だけが、寂しくそこに残っていた。将校はじっと空の果てを見つめていた。
 しばらくし、銅像も撤去されて、そこには空き地だけが残った。 
 

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