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小説 終わる世界

 かつてそこには、豊かな海があった。コトネは文献でそう知った。 
今では、海と呼ばれるものは少なくなった。水は汚染されたし、生物は息絶えた。

 人類は地下の底に蓄えられた水を、くみ上げて生き延びた。大地が悪意を浄化した。

 わずかな水だけを頼りに人は命をつないだ。小さな暮らしを重ねて、少ない幸せを味わった。
人の娯楽は消えて、互いの言葉だけが、楽しみを生み出す手段だった。

 家の中には静寂だけがあった。蝋燭の火が、夜をぼんやりと照らした。
部屋の調度品が闇の中で静かに浮かび上がる。
 
 男たちは狩りに出ていた。山に行き、獣を狩る。鋭い槍で、獲物を突き刺す。

 コトネは、文献探査を行っていた。過去の言葉から、当時の姿を見つけ出そうとしていた。
 かつて、そこに文明があった。世界を支配した文明が。

 文献を探すのは女性の仕事だった。祖母も、母も、過去を見つめていきてきた。
 狩りは男性の仕事。男は、今日だけを見て生きた。

「みんな、戦っているのよ。手段が違うだけでね」
 コトネの母は言った。母は、色あせた本を撫でた。赤ん坊の頭を撫でるかのように。

 図書館の遺構がいくつも見つかっており、そこから沢山の文献が見つかった。それらの本から海の記述があった。
 広い海があって、豊かな景色が広がっていたのだと。
 
 
 トミドは、コトネの父である。ある日、狩りへと出かけた。馬を駆り、荒野を抜け、山へ向かった。山にはまだ緑が残っていた。緑を見る度に、生命力の強さと、その緑の持つ威容に恐れを抱いた。
 死ぬかもしれない。
 獣は、言葉を持たない。ただ、本能のままに飛び込んでくるばかりである。槍を携え、駆けていく。口を固く結び、目を空の果てに向けた。家族を思った。娘の顔が思い浮かぶ。
 
 「海って、知ってる?」
 といった娘の姿を思い出した。
 俺は海を知らない。かつての世界の美しさを知らない。知っているのは獣が出す鮮血だけだ。
 まだ、この広い世界に海があるかもしれない。汚れていない場所が、美しい場所が。
 人の心ほど汚れてはいないさ。どんな大地も、空も。
 トミドは自分に言い聞かせる。
 太陽が輝いている。


  狩りを終えて、トミドは帰郷した。
 「井戸の水が、枯れそう」
 コトネが言った。トミドはその不安そうな表情を見逃さなかった。
 
 きっと、雨が降る。トミドはそう言ってコトネを落ち着かせた。
 コトネは不安を打ち消そうと文献ばかり読んでいた。言葉をどれだけ頭に入れても、すぐに抜け落ちていってしまった。
 言葉を集めて、村長に報告しなければいけないのに。
 
 トミドは夜の向こうを見ていた。じきに夜が明ける。しばらく休憩したら、また狩りにでなければいけない。ここの土地は作物が育たない。地下水も、枯渇しようとしている。
 俺は、どうすればいい。
 トミドは拳に力を入れた。どんな状況でも、生きていくために必要なのものは自分の力だけだ。

 コトネは朝まで眠れなかった。明日が、来なければいい。
 ベッドに横になりながら、宙で文字を書いた。文献から覚えたことばだ。
「夢」
 コトネはしばらくして眠りに落ちた。午後まで寝ていた。
 しびれをきらした母が起こしにやってきた。

 その日の夕方、雨が降った。
 トミドは狩りから戻ってきた。獲物はなかった。しかし、その目は力強かった。雨が降って、水が手に入る。
 男は、明日の希望を夢見ていた。


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