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小説 鏡の中

 琢磨は、深雪との関係を清算しようとしていた。
 もとから、長く続く関係じゃないんだ。琢磨はホームの端で電車を待っている間、誰にも聞こえないように同じセリフを何度もつぶやいていた。


  
 深雪と会ったのはいつだったか。確か、中学2年の時のクラス替えの時だ。まだ横浜に住んでいた時だ。言葉はほとんど交わさなかった。お互いに引っ込み思案で、恋仲に結びつけるにはあまりにも遠かった。

 卒業してから、僕らは高校も別になったし、その後東京に引っ越したので、会う機会もないと思っていた。
 
 再会はいつでも突然だ。卒業してから、15年も経って会うなんて。
 大手町ビルの地下で、彼女とばったり会った。歩いていて、向かい合った時、お互いのことをすぐに判断することができた。

 思えば、彼女を遠ざけねばならなかったのだ。琢磨は振り返ってそう思う。日常の軋轢に顔を覗かせるノスタルジー。甘えてはいけない、そう自分に言い聞かせた。

 しかし、肉体は、重力に引かれるように深雪へと落ちていった。蜂蜜色の瞳が、琢磨に成熟を伝え、硬質な腕が、深雪に成長を教えた。

「カラコン? 入れてるよ」
 深雪はそう言った。なるほど。あの、深い瞳はそうやって作り出されているのか。
「大人の女性はみんな入れているよ。取ったら別人、みたいな人もいる。私がそう」
 深雪は顔をくしゃりとつぶして笑った。どれだけ、精巧に顔を彩っても、本質的な筋肉の動きまで変えることはできない。そこには、あの頃の深雪がいた。

 琢磨が家に帰ると、妻がいた。妻は忙しなく動いていた。 
 どうしてこの人と結婚したのだろう。琢磨は自分に問いかける。
 食卓には、夕食が並んでいた。娘が駆けてきた。琢磨は娘を抱き上げる。
 小さい子は、小さい。当たり前のことだ。だからこそ、誰かが側にいなければいけない。それが、俺が背負った責任なのだ。


 深雪の家には大きな鏡があった。彼女の部屋の一番奥に鏡が据えられていた。深雪はよく全身の姿をそこで見ていた。
 深雪は恋人を事故で失ったという。ある日の夜、琢磨の腕の中でそう言った。
「私が、殺したんだ」
 深雪が言った。
「どんな因果も、それは必然だ。誰のせいでもない。なるようにしかならないさ」
「わがまま言って、喧嘩して、そんな時に事故にあって、そして、死んでしまって、この世界からいなくなって」
 言葉は次第に吐息が多くなり、その姿を消した。沈黙の後、夜には嗚咽が混じった。
 
 
 妻は何かを感づいている。琢磨は、家の中の違和感に敏感だった。

 時間が何かを変えていく。それはきっとどんなものにも当てはまるものなのだ。人は常に選択を迫られる。過ちは選択から生まれるのだ。選択しなければ未来もまたない。
「今度、笠原さんの家族と、遊園地に遊びに行こうってなったの。行くでしょ?」
 妻が言った。
「行くよ。でも、午前中は仕事があるから、午後に遅れていくよ」
「土曜日だけど?」
「俺がいないと、回らないこともあるんだ」
「そう」
 娘がとことこ歩いてきた。妻の硬直した表情は即座にほどけ、母の顔になった。
「良い子だねえ。今度遊びいこうねえ」
 娘はひまわりのような笑みを咲かせた。
 
 

 空気が乾いていた。部屋の中は音一つなかった。
「つまり、離れようってこと」
 深雪は琢磨の顔を見た。

「率直に言うと、そうなる」
 深雪は深いため息をついた。井戸の底から取り寄せたような深いため息。

「いいじゃん。わからないよ。きっと」
「俺にはわかっている。自分に嘘はつけない」
 部屋は暗かった。深雪の表情は陶器のように白かった。ふと気づいたが、深雪はカラコンを入れていなかった。昔の深雪がそこにいた。ノスタルジーの引力が琢磨を強引に引き寄せようとした。

「あなたって、ずるいよね」
 深雪が言った。
「すまない」
 琢磨は立ち上がって、部屋を去ろうとした。彼女が琢磨の腕をつかんだ。
 琢磨は振り返って、深雪を見た。そこにいたのは一人の弱い女だった。ふと、琢磨は深雪の背後に立つ鏡を見た。鏡の中には見知らぬ男がいた。あれは、誰だ。
 あれは、俺だ。鏡の中には愚かな男が一人立っていた。色あせた頬に、冷めた唇。俺はこんな顔をしていたのか。鏡の中の自分と目が合った。琢磨は思わず目をそらした。


「一つだけ教えて」
 深雪が言った。琢磨は何も言わなかった。
「私のこと、好きだった?」
 泣きそうな声だった、しかし彼女は笑っていた。
「美しい人だと思っている」
「なんだよそれ」
 深雪はうつむいていった。言葉に力はなかった。琢磨も何も言えなかった。
 鏡の中の俺が俺を見ている。
 琢磨は自分の視線に耐えられなくなって、部屋を出た。出る時に、深雪を見た。うつむいている彼女の頭部だけが見えた。
 
 これでいいんだ。琢磨は何度もつぶやきながら、遊園地へと向かった。

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