小説 アイロン
登美子は、啓輔のシャツをしっかりと伸ばした。しわがないように、見栄えがいいように。
主婦という言葉に憧れていた。
会社にいるよりはずっとましだと思っていた。会社では自分の居場所はなかった。自分は歯車の一つだった。代わりはいくらでもいた。きっと、自分がいなくなっても、次の日には新しい人が来る。
啓輔は将棋に凝っていた。
インターネットでずっと将棋の対局を見ていた。
「わかるの?」
と聞くと、わからない、と啓輔は言う。「プロでも、わからないときがあるんだから、素人がわかるわけないよ」
わからないものをなんでずっと見ているんだろう。登美子の疑問はつきない。
「解説もプロだから、大丈夫なんだよ」
なるほどな。プロの将棋指しがいて、プロの解説者がいて、そして、素人がいる。何も知らないのんきな人間が。ここにいる。
啓輔は真剣なまなざしでブラウザに表示される盤面を見ていたが、傍から見るとその表情はとても間抜けなものに見えた。
結婚したかった。主婦になりたかった。会社をやめるきっかけがほしかった。新しい自分になるきっかけがほしかった。
登美子はアイロンをかけながら、過去を掘り返す。良い思い出はない。くだらない仕事に、くだらない上司。でも、一番くだらないのは自分では。登美子の手が止まる。次の瞬間はっとして、またアイロンをかけ始める。
私は、しわだらけの人間だ。
啓輔と出会ったのは昨年開催された読書会だった。ネット上で募集されていて、渋谷のコインスペースで行われた。
相手は、誰でも良かった。というと乱暴かもしれない。しかし、それに近いものがあった。啓輔は悪い人間ではない。真面目な人間で、人の悪口も言わない。
若い頃、悪い男に惹かれるのはなぜだろう。動物としての本能なんだ。そんな風に解説している本があったか。登美子は啓輔を見ていても、強烈なときめきを覚えることはなかった。しかし、柔和な安心感を与えてくれた。
登美子と啓輔はすぐに交際に発展し、結婚するに至った。小さな結婚式を上げ、永遠を誓った。
仕事をやめることになった。共働きでも良かったけれども、登美子は専業主婦としての肩書きがほしかった。いや、サラリーマンとしての肩書きを捨てたかったのかもしれない。
毎日が自分のペースで進む。せわしない日常から解き放たれた。しかし、心なしか不安になった。忙しさが、自分の悩みを殺していた部分も確かにあった。
ふと隙間ができると、不安がどっと吹き出す。耐えられない。
家では私を評価してくれる人は誰もいない。啓輔は褒めてくれる。でも、彼は悪口を言えないから褒めているのだ。私を見ているわけでないような気がする。
登美子は鏡で自分の姿を見た。
太ったな。そう思った。
気を紛らわせるために、家事に勤しむ。部屋はいつも綺麗だ。汚れはどこにもない。
アイロンがけが好きだ。しわがすっと無くなり、パッと弾けるような白いYシャツがよみがえる。
私のよれた日常に力を与えてくれる。
仕事の中で、くしゃくしゃになった自分。それを、綺麗に、綺麗に仕立て上げる。でも、刺激を求める自分もいる。喧噪の中、逆風をものともせずに突き進む。そんな自分の姿。
啓輔が帰ってきた。登美子は、部屋にヨガマットをしいて、ヨガを行っていた。「どうしたの?」
啓輔が聞いた。
「痩せようと思って」
「ふーん。そうなんだ。いきなりヨガやりだすから驚いたよ。そんなに太ってもないけどね」
そうだろうと思った。
登美子は啓輔を見た。あなたは私を傷つけたりしない。あなたは私を評価したりしない。だからこそ平穏、そして、退屈。わがまま、言っている。
私はしわだらけなんだよ。
翌日、登美子は自分がかつて着ていたYシャツをアイロンがけした。もう着たくない、私は平穏をかみしめたい。
しかし、なぜだろう。静かな午前、どうしようもない寂しさが襲うのは。ワイドショーの音がむなしく響く。
登美子はテレビを消した。
そして、今度は啓輔のYシャツのアイロンがけを始めた。
丁寧に、丁寧にアイロンをかけた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?