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2012年1月29日、1度死んだ日

この日は、地面が雪で覆われてクッションのようになっていたと聞いた。


時間も覚えておらず、引き金もわからず、なぜこの日だったのかもわからない。


2012年1月29日に当時住んでいた渋谷のマンションの7階から飛び降りた。

しかし、九死に一生を得る。
慶應義塾大学病院へ運ばれ、外傷性くも膜下出血、肺挫傷、肋骨数本骨折、頚椎、恥骨にもダメージを負い余儀なく2か月の入院をするハメになった。


思い出せる範囲だと、退院の3日くらい前に意識が戻ってベッドで拘束されていたことと、今は亡くなった母親、それと元妻がいたと思う。

当時付き合っていた彼女は即日フェードアウトしたらしい。





気がつけば10年も経った。


死にたいと 思った理由は至ってシンプルで「地位」「名誉」「金」という三大神器を失ってしまったことだ。


音楽業界、あるいは芸能界において、この三大神器によって多様な関係を保てる気がしている。金があればあるほど、つながりが勝手に増え、レアな人種とも出会える。それは海外アーティストでも例外ではない。
ただし金だけがあればいいというわけでもない。
それなりの地位や名誉は必要だ。それによって良くも悪しくもつながりは多様になる。

そして、その神器の効力がなくなっていくことに耐えられなかった。
最初に「金」、次に「地位」、最後に「名誉」。
自分に価値がある理由にしていたのだろう。
勘違いも甚だしい、もう哀れとしか言いようがない。惨めで、悔しくて、でもどうにもならなくて、歯がゆい日々を過ごし、最後は出会い系サイトでサクラのバイトをしていた記憶がある。

景気が良かったのは音楽活動7年のうち1-2年。
いい年の翌年に20分の1程度まで収入が激減することもあった。
税金を払ってしまえば終了だ。
言うなら1億円から500万円だ。プロ野球選手と同じで結果が全てなのである。金銭感覚が麻痺するのも当然なのかもしれない。


事務所からはメジャーレコード会社との契約延長がないと決まった途端
「今後どうすんの?インディーズに戻るならココ辞めたら?」
と冷たい対応を取られた。



インディーズに戻るかは悩んだが、当時の自分にはその勇気と、プライドを捨てることが出来なかった。
そして本当にシビアで厳しい世界だ、と痛感した。
サラリーマンをやっていた方がどれだけ安心か、と思ったこともある。
そして、この仕事はつぶしがきかない。



もしかしたらメロディメーカーやアレンジャーなどの仕事はあったかも知れないが、メジャーアーティストとしてプライドが邪魔して踏み切れなかったこと、同時に音楽家としての価値がないことも、賞味期限はとっくに切れていたこともわかっていた。

2012年の3月、何も出来ない身体を引きずり引退を決意した。




冒頭で引き金がわからないと書いたが、今思えば、恐らく躁状態で取った行動だ。その頃は病識なんてないし、病気だとも思っていなかった。
とりあえず眠りたいから睡眠薬をくれ、と心療内科に通っていた。

金の遣い方は異常、毎日飲み歩く、交友関係も歪つだった。
音楽制作も初期とうってかわり、誰でも作れそうな
「売れる!ダンスミュージックのテンプレート(仮)」
のような制作方針に変わっていった。



誰とコラボするのか!が自分の音楽のアイデンティティになっていて、かつては天才と呼ばれたデビュー作を聴いて、ピュアなファンになってくれた方は、メジャーでとにかく派手な活動する姿を見て殆どいなくなっていたと思う。
チヤホヤされ過ぎて調子に乗っていた。
「変わった」「終わった」「落ちぶれた」とよく言われたものだ。




なんでネガティブっぽい記事を書いてるのか、というと先日書いたメンタルタイムトラベルの話と関係している。メジャーリリースの中で仕上がりに納得できた作品が1枚だけある。youtubeにもサブスクにもないが、とても思い入れが深く、好き勝手やらせてもらった作品だ。
最近インストールして、聴きすぎたことが影響しているのかもしれない(笑)




その後福岡へ帰ってきて、仲良くなった人に色々とカミングアウトするたび、

「神様が生かしてくれたんだよ」

そんな言葉を沢山かけられた。

数年間は、

「いやいや、一思いに死ねなかったことが一番の後悔だわ、ふざけんじゃねえ」

と思っていた。

後遺症がまったくないわけではないし、身体なんて常に痛い。記憶力も悪い。そもそも疾病や服薬も多すぎて何が何だかわからない。



でも、生きることに執着してないんだけど、なんだかんだ生きてるんだよな。すると何らかの意味があるのかもしれない、と思うようになる。

経験を武器に、今できることと言えば、

「絶望には希望を」「不安には勇気を」「迷いには貢献を」


伝えて生きることなんじゃないか、という気はしている。

そう思えるようになったのは、環境の変化が大きいのかもしれない。




「これから」のことを考えられるようになったのは、いま周りにいてくれる人達が愛を与えてくれるからだと、気管支切開の傷跡を触りながら思った。

Thank u all so much.

うん、2度目の人生も案外悪くないかもね。


かなり端折っていますが、最後までお読み頂きありがとうございました。

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