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知性と奉仕のブレイクダンス

「自分がお人形さんだったらやってる方も楽しくないけど、見てる方も楽しくないからね。」   風見慎吾 BP New Year 1985

アイドルは素材として空っぽであればあるほどいい。周囲からの仕立てをすんなり受け入れられるし、流され続けていれば仕掛け屋がそれなりの到着地まで運んでくれる。「受賞」とか「大御所」とか。その良い例がマッチ。「これは本当の自分じゃない」とか「オレはこのままでいいのか」とかいちいち考えないで、与えられたものをとにかくやる。

実力や才能、思考や教養がなまじあると主張が生まれるから、お人形アイドルを全うし辛くなってくる。トシちゃんの場合、何もないところからジャニーズでダンスの実力を培った。慎吾ちゃんの場合は……元々ぎゅうぎゅうにコンテンツがあるセンスの塊

小学生で単身渡航するような行動力の持ち主。超進学校の理系秀才で、映画を何百本も観るようなドマニアで、パンクがニューウェーブが云々のUK洋楽マニアで、読書もし詩も書きお洒落ミッションスクール(田舎だけど)出身にいがちな最先端のカルチャーを享受できる素養を持ち合わせた高感度少年。大学受験もクリア、バイトも失恋も経験済み。そして、例の身体能力

さらに、幸か不幸か、カワユイ系イケメンに生まれてしまっていました。

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 new year concert  1984

芸能人、ましてやアイドルになりたかったわけじゃないのに、路上で哀川翔らとローラーやってた劇団の立ち上げに誘われて芸能事務所に所属することになって、そこで台本作家やろうとしてたら欽ちゃんの番組オーディションに連れられてなぜか合格して、お笑い番組でコントしていたら歌えということになり歌手系事務所に移籍させられて、出したら爆発してアイドルになっちゃってた…という顛末。

「僕自身、自分のことをアイドルだと思ってません。それで歌に対してもホントに消極的でした。そしたらレコード会社の方が “いや、慎吾君ね、世間一般はそんなこと認めないんだよ” とおっしゃって(笑)。一生、レコードなんて出す気はなかったんですけどね。」  風見慎吾 Oricon  1985

週に2日、欽ちゃん番組の収録のためにテレビ局に行くだけの大学生だったのに。

そもそもこのお方、本質的に欽ちゃんとかバラエティとかテレビとかのメジャーシーン方面の人じゃないと思う。人柄は誠実で素直な好青年だけど、センスは大衆対象ではなくてもっと高度というか深いというかマニアックで鋭い。だからきっと心の奥底ではこう思っていたことでしょう。「なんで俺、アイドル扱いなんだろう。もう二十歳すぎてんのに」、さらに奥では「俺、賢いんだけど」。あくまで憶測です!

テレビではお笑いアイドルとしてこの上なくカッコ可愛く、お茶の間に向けて精一杯おちゃらけてくれました。

「ボクは実を言うと『僕笑っちゃいます』のころから、デュランデュランみたいに化粧して歌いたかったんだ。」    風見慎吾 shueisha  1985

その反動か、コンサートではド派手ニューロマメイクでデビッド・ボウイを歌い、ダンサーたちとハービーのブレイクダンスを踊るぶっ飛びっぷり。この構成、作家じゃなく実は本人によるもの。1984年の夏、テレビでダンスを披露する半年前。このコンサートに行った人は歴史の証人ですね。

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concert tour    summer 1984

その後、自らの構想を欽ちゃんに直訴。周囲の計画を覆しブレイクダンス用ナンバーを制作。自己プロデュースの次元がタレントレベルじゃない。誰も手を付けてないジャンルに総合的に切り込んだわけだから。

「ボクははじめて大将にさからった。“やりたいことがあるんです。やらせてください” って。」   風見慎吾 shueisha  1985

慎吾ちゃんにとって欽ちゃん方式の「素人が一生懸命やってる様子を見せて楽しんでもらう」は、実は物足りなかったのでは、と勝手に穿っています。「素人感覚で…ヘタでもいい、一生懸命に…」と言ってはいたけど、きっと胸の奥では「人前に出るからには自分の力で見る人の心を動かしたい」という思いがあったのではないかと。センスとともに思考があるから、何か指示を受けても「よく分かんないけど、まっいっか」のまま終われない性分だったのでは。自身が「研究と開発」の人。本質を追求し原理から導出する。アイドルしながらも演じ手より作り手になりたい、演出や作家の方に興味があると言っていた。

「仕事は与えられたものをこなしていくだけじゃなくて、自分も参加して作っていかないと駄目だな、と。コンサートにしろプロモートにしろ、最初は自分が作るってこと。」   風見慎吾 BP New Year 1985

「可愛くて軽くて無難な欽ちゃんファミリー」といった世間のイメージとは真逆で、おちゃらけた道化の下に繊細な知性が横たわってる。なのでアイドル活動や芸能界はあまり肌に合わなかったかも。器用で几帳面だからいろんなことをクリアできるけど、賢いだけに気づくことも多いだろうし。

ブレイクダンス楽曲制作に挑まなければ大学に通い続けて卒業し、他の道もあったかもしれない。なのに腹をくくって突き進み、青春捧げて人生かけて未踏のダンスに体当たりし、未知なるものを日本中に広めてくれた。それは野心というより奉仕の精神を感じる。自身の知恵や努力の賜物を他者にひたすら捧げ、与えてばかり

「ほんとはね、やろうと思ったら、もっとすごい技ができるんですよ。でもあえてそれをやってないのは、自慢げにすごいことを見せるよりも、簡単でもみんなで踊ればこんなに楽しいんだよ、っていうのをわかってほしいんです。」 風見慎吾 BP New Year 1985

「 こんなに楽しいんだよ、っていうのをわかってほしい 」

当時の若者たち、例えば男の子だったら探検ごっこしたりチャンバラごっこしたり釣りしたり、野球したりバンド組んだりテレビゲームしたり、不良になったり窓ガラス割ったり暴走族に入ったり。それが、彼らの日常における情熱の持って行き方でした。

そこに慎吾ちゃんが躍り出た。「ダンスがあるよ!こんなのどう?」って。

「いまの日本の子どもには(日常で踊ることが)ぜんぜんないと思うんだ。ほんの何人かでもいいから子供たちが街角や学校でダンスして遊んでるみたいな、そんな光景を目撃できたら最高にハッピーなんだけどね!」 
風見慎吾 shueisha 1985

ブレイクダンスは元々ニューヨークの不良の喧嘩を「ダンスで決着を付けようぜ」と、より次元の高い戦いへと昇華させたもの。慎吾ちゃんはそのダンスを通じて、日本の子供たちに彼らの日常には無かった「踊る楽しさ」を伝えようとしました。そうしたのは慎吾ちゃんにさらなる高次元の精神があったからだと思うのです。より文化的で人間的な精神。争ったり、人を負かしたりして得られるものではない、もっとずっと大きなもの


Be Men for Others, with Others
他者のために他者とともに生きる人になりなさい


慎吾ちゃんのおかげで日本の若者や子供たちは新しいジャンルに触れることができて幸運だったけど、本人にとっては退路を断つことになったわけで、それは彼にとってどうだったのだろう。今さら余計なお世話でしょうが、当時はゆれる気持ちもあったでしょう。

たたずむ慎吾mid
magazine h  1984

でも、流れでなんとなく与えられる賞や地位より、自分の手で掴んだ本物の芸と大衆への真の影響力という実を得た。流されるのを由とせず、虚構で収まりたくなかったんでしょうね。元々ぎゅうぎゅうのコンテンツとセンスの塊だから。

「ベストテン番組に出演したいとか、チャートを伸ばしたいとか、そういうことはあんまり意識していないんです。ただ、ひとりでも多くの人たちが "アッ、慎吾が何か変わったことをやってるぞ! "  と言って見て下されば、それだけでいいんです。それだけで…」 風見慎吾 Oricon  1985

ノブレス・オブリージュ

「アーティスト」の機能を持っていたのにお笑いタレントになってしまっていたゆえに軽く見られ、知性や気概やプロデュースの功績が認められにくいのが残念だけど、欽ちゃんの高視聴率番組に出る人気アイドルだったからこそあれだけ普及したわけだし、彼の覚悟と精神は確実に次世代に受け継がれているはず。

そして現代、インターネットの夜空で記録映像が星となって、22歳の風見慎吾クンがずっとそのまま変わらずそこで輝いています。