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ブレイクダンス芸能人は顔と体が命

芸能人は歯が命  アパガード   SANGI CO., LTD  1995

前回の記事で「慎吾ちゃんは歌手活動自体1986年以降していないから」と書きました。そう、多くの人が今も思う「なんで突然曲を出さなくなったの? 歌番組で慎吾ちゃんのダンスをもっと見たかったのに」の件。

「番組のトリでウェーブと一緒に『BEAT ON PANIC』歌いながら、あー、こいつらとももうお別れなんだなぁなんて、ふと振り向いたら、タケとタンタンが抱きついてきた。ケンケンなんか、もう泣いちゃって顔くしゃくしゃで。♫ ほほにこぼれる涙のわけは ♫  なんて、歌詞が急に胸に突き刺さってきて、みんなでお互いもらい泣きしながらブレイクダンス踊ってさ。」   
風見慎吾 shueisha 1985

レギュラー番組だった「週刊欽曜日」が1985年秋に終了、それと同時に『泣き虫 "チャチャ" の物語』をリリース。結果的にそれが最後となりました。元々、彼は自身を「歌手じゃなくて役者だから」。

テレビに出る芸能人の役割として「大衆への影響」「広く普及」という意味では、ブレイクダンスは涙のtake a chance』と『BEAT ON PANIC』の2曲及び84年夏85年全国ツアーで十分だったと思われます。

- バックはウェーブではなく、また新しい仲間 “BATTLE KIDS”。彼らが未熟なぶんだけ、よりハデにより過激に慎吾が踊る。

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85年全国ツアー  バックダンサー shueisha 1985

前宙、バック宙、旋風脚にヘッド・スピン…。体力の限界をはるかに超えたウルトラ・ダンシングに会場はディスコのようにゆれた。とびきりの軽さとスポーツ選手みたいな男気。どっちも最高!-  shueisha 1985 

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shueisha 1985

技も当時のいち歌手がウインドミル以上のことをする必要はなく、あとはそのダンスを見て好きになってくれた人や専門でやりたい人に踊ってもらえばいいわけで、タレントとしては「広く影響を与える次のこと」をして走り続けなければならなかったのでは、と思います。このころは俳優業のウエイトが多くなっていたし、裏ではコントやラジオ番組の台本書きもやり、その上まだ学生でした。

ダンスの本格導入で日本の歌謡界に革命をもたらしたけど、ブレイクダンスは当時の彼にとってあくまでエンターテイナーとしての芸のひとつであり、アイデンティティではなかったんでしょう。一方、例えばトシちゃんはどんなにドラマがヒットしても、アイデンティティは「歌って踊るスター」。

だからと言って、ヒップホップやダンス自体から離れようとしたわけではなく、そのころ頻繁にニューヨークに行ってるし、音楽嗜好もUKからブラックミュージックへ。だけどスクラッチDJは欽ちゃんにNGとされたとか。86年に「夏ごろに曲を出してコニタンが司会をしているベストテンに出たい」と言っており、アルバムも出したがっていたから、まだ歌うつもりはあったもよう。歌手活動しないとなかなか踊る機会もないし。この辺のところはよくわかりませんが。

とにかく、『涙の…』でテレビ披露する半年前からステージで踊っていたわけだからトータル1年半、「ブレイク」ダンスはやりきったのでしょう。

そしてもうひとつ、終了理由の示唆となっていたのが「体がガタガタになりそう」。

「ブレイクダンスって、1日5回も踊ったら、もう脚がパンパンに張っちゃうんですけどね 」
ー この日、慎吾はブレイクダンスを10回踊った。9回目を踊り終えたあと楽屋でジッとうずくまっていた慎吾は、肉体の限界にきてたみたい。 
shueisha  1985

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shueisha 1985

今となって重要な側面だったと思うのが、当時の施設事情。テレビ局の床が「ブレイクダンスが躍りにくい」「滑りにくくてむりやり回るから背中ゴリゴリ」。リハーサルだけで5,6回も踊らされてヘトヘト、体中アザだらけ。医者から「関節炎で肩や膝に水が溜まっている」と言われたり。疲労で倒れたこともあったとか。

「ちょっと練習するともう体じゅうアザだらけ。だけどカンタンにおぼえられるもんじゃないわけで、マジで傷だらけになっちゃう。でもって医者なんかに行くと、“ヒザが変形してますな” なんて言われちゃう。」
「正直言って、最近ヒザはイテ~し、背骨は腫れるし、情けない奴…。 BUT、しかし、でも、こんなこっちゃあくじけません。」 
風見慎吾 shueisha, BP 1985

板張りステージならともかく硬いコンクリートの床の上での激しい動きは体に良くなく、本人は曲がヒットし「うれしい痛さ」と言ってはいるものの、ブレイクダンスを踊るには体への負担が大きく不都合な環境だったと思います。現在ならそれなりの床を整備しているかもしれませんが、当時はスタジオやフロアであれほど激しく踊ることは想定されていませんでした。また、先ほど書いたように、あれ以上に高度な技や動きを顔と体が資本のアイドルが歌唱中にする必要もなく、『BEAT ON PANIC』で十分限界突破してます。

「なんせアメリカじゃ、ブレイクダンスで死者まで出てるっつーくらいで、根性いるんだよね、じっさい。」 風見慎吾 shueisha  1985

また、テレビでダイナミックなダンスをすると引きカメラになるのでアップが少なくなり、キレイなお顔が拝めないというジレンマもございます。

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この可愛さに島のギャル達は大感激 in 沖縄   shueisha 1984

☆彡

でも、やはり、せめてあと1年は楽曲リリースして、MJの『Bad』1987 が出るまで何でもいいからテレビで踊っていてくれてたらなぁ、とも思います。

「なんたって、レコードといえば年に1回、すぽぽぽーんと打ち上げる花火みたいなもんだから、慎ちゃんの場合。今年は、そーさなぁ、七夕あたりにでも1発上げてみっかなぁ、と。ブレイクダンス以上に衝撃のある歌歌ってみたいし。」 風見慎吾 shueisha 1986

きっといろいろご事情があったんでしょうね…。

そして、ニューウェーブではリマールとデュエットすべし。これはブレイクダンスで! まさに日英米、究極の融合。


☆彡


【追記】
前回も書いた通り、慎吾ちゃんの強い希望で1985年にプロモーションビデオが制作される計画があったのですが、どうやら立ち消えになったようです。「あまりお金はかけてもらえないけど、作ってもらえそう」と張り切って、睡眠時間を削ってまで構想を練っていたのに。ウェーブのみんなも出演を楽しみにしていたのにナ。

また、『涙のtake a chance』発売の半年前、1984年の夏、ウエーブと各地を巡ったブレイクダンスツアーの記録ビデオ、こちらも発売されていません。カルチャー史上すごく重要なのに。曲がヒットした後の1985年の全国ツアーも同様。

ビデオ制作は楽曲制作のとき以上に事務所の強い働きかけが必要だから、慎吾ちゃんは少々不遇な状況にあったように思います。同時期、キョンキョンのフツーっぽい記録ビデオは出ているのに。日本ダンス史の甚大な損失! 事務所は文化的価値を認識する力量を持っていなかったんでしょうね。所詮、「芸能」事務所、先見の明がなかったんだなと。