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慎吾ちゃん、ニューヨークで大立ち回り

「ブロードウェイで芝居を見たり、ダンスレッスン場をのぞいたりすると、いい意味であせりも出るし、ぐっとやる気になってきますね。行ったあと、ひと月ぐらいはおおらかな気分にもなれるし、最高」
風見慎吾 shueisha 1987

80年代半ば、トシちゃんが外国に行くことをちょっぴり苦手とし、少年隊が英語に苦戦世界進出壁にぶち当たっていた一方、慎吾ちゃんは自ら頻繁にニューヨークへ飛んでいました。

ジャニーズのようにレッスンや観劇のため連れて行ってもらうのではなく、単独でプライベートで。全て自分で手配、現地での空港迎えも無し。ホテルさえしばしば現地調達。

元々、小学5年生の時にロサンゼルスの親戚を訪ねて独りで渡航したことのある強者。ニューヨークへ行きたいあまり、ドラマなど大きな仕事の話があったとき、撮影が終わったら休みをくれるよう所属事務所に交渉。人にも言わずにさらっと渡航。そこで夜な夜なディスコに通っていたそう。慎吾ちゃん、当時の記事で「毎年ニューヨークへダンスのレッスンに行っています」なんて言ってるけど、それって「ナイトクラビング」でしょーが。

当時のニューヨークは治安最悪。まだジュリアーニ市長が指揮を執ってない時代。だからこそヒップホップ文化が芽生えたとはいえ、単身ニューヨークって怖すぎる。そんなアイドル、他に絶対いなかったでしょうね。危ないし英語喋られないし。そんな中、慎吾ちゃんは危険地帯にあるディスコ、いろいろジャンルがある中で特にパンクばかりが集まるところが好きで行っていたとか。あと、世界最大のナイトクラブ、パラディアム。

そこで連日連夜、朝までめいっぱい踊ったそう。日本では人の目をはばかっておとなしめに踊る慎吾ちゃんも、ここでは大胆かつ自己陶酔型ダンサー。せっかく来たんだから目立たないと損とばかりにアクロバットを披露したりミック・ジャガーやプリンスのマネをしたりと、ハデな立ち回り。ついでに大将のマネまでして、それも勢いでニューヨーカーにウケたんだとか。

「パラディアムで萩本欽一のマネして笑いをとった日本人なんて、僕が初めてでしょうねえ」   風見慎吾 shueisha 1986                               

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shueisha 1986

英語は大学受験経験者ならではの語彙文法力で、ブロークンながらも意志疎通可能。ホテル代や買い物もバッチリ値切り交渉。その分、現地で友達になりディスコに付き合ってくれた若者達に大盤振る舞い。「どんどん飲んでくれ! ドント、マインド。アイム、ジャパニーズじゃベリー、フェイマスよ」なんて言ってて、やっぱり慎吾ちゃんはアメリカ進出すべきだったと思う。

歌わないスタイルで、ね。

「未だに日本はミフネ、ソニー千葉(真一)なのね。日本企業の看板はズラ~ッと並んでいるのに、日本の芸能人は何してんだろ。それを見るたびに、クソォ、自分はいつかエンターテイナーとして、ここにデッカイ看板出してやるゾって気持ちになるね。」    風見慎吾 Talk ライブ  秋に賭ける 1987年

このころはまだ渡航の格安チケットがあまりなかった時代、自腹で行くには飛行機代高かったでしょうね。だからやっぱりジャニーズは恵まれていた。ただ、恵まれすぎるのも良くなかったってことなのでしょうけど。