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少年隊の全米デビューは

トシちゃん慎吾ちゃんを中心に80年代ダンス系ソロアイドルについてあーだこーだ綴っておりましたが、ソロじゃないけどダンス系ということで気分転換に書き散らかしてみます。

「レコードを出さないことで、つらいこと、差別されることもあったけど、今となっては世界デビューできるということで、パーフェクトに近づきたい。そのために、英語とタップダンスをマスター中。」 
東山紀之 shueisha 1985

少年隊…。実はよく知らないのです。いや、その存在はかなーり早くから知ってはいましたが。というのも、レコードデビュー前からアイドル雑誌に結構よく出ていたので。1982年ごろから? まだグループ名が「このままずっと “少年隊” でいくのか」と不安定な時期から。ヒガシなんかまだ顔が出来上がってなくてかなりのキツネ目で、言っちゃ悪いがタレントとして表に出るのはちょっとどうかなという感じのマスクだったのです、ホント。その後顔が落ち着いてきてクール系イケメンとなりましたが。マッチなどのバックダンサーとしてだけでなく、独立ユニットとしても活動していました。

レコードを出すまで下積みが長かったと言われているけど、メディアにはよく出ていて女の子にはおなじみな存在だったから、あれが下積みだとしたらかなり華やかで恵まれていたと言えるはず。売上ランキングのプレッシャーなく実演できるわけだし。レコードデビューが遅かったのは、シブがき隊との時期ずらし? それともチェッカーズや吉川晃司の人気が落ち着くのを待っていたから? あるいは世界進出の計画があったからとも言われていますね。

-  アメリカ最大のレコード会社WEAと契約。芸能界をアッと驚かせた少年隊の日本デビューが決まった!日本ではワーナー・パイオニアと契約し、年内にまず日本語盤シングルを発売、来年に英語盤LPを発売する。また来年7月頃に東京・青山劇場で主演ミュージカルが上演されるが、その作品で本場ブロードウェイにも進出することが企画されている。やったね! -
「少年隊  日本デビューから一気にブロードウェイ進出」  shueisha  1985

アメリカ最大のレコード会社と長期専属契約、翌年にはアルバムを世界発売するということを、1985年夏にマスコミを集めて大々的に発表しています。

「とにかくアメリカでデビューなんて今までにないパターンでしょ。はじめてのことやるなんて責任重大だよね」  東山紀之 「ターゲットはでっかくグラミー賞だぜ、エッヘン」 shueisha 1985

レコード発売は日本での方が先となりましたが、契約はアメリカの会社との方が先に決まったそうです。

1986年初頭、『仮面舞踏会』『デカメロン伝説』がヒットしたころには、秋の全米デビューのためアルバムのレコーディングをしに渡米すると言っていました。

「明日からロスに行ってきます。世界発売のレコード、すごいものを作りますから…」 錦織一清  ザ・ベストテン  TBS  1986年4月10日

彼らの世界進出への活動は、当時メディアでよく報告されていたようです。

-マイケル・センベロのプロデュースによる海外向けアルバムの制作、マイケル・ピータース振り付けのミュージカル主演。少年隊は確実に世界と手を結びつつある。遊びじゃない、彼等は本気で夢を果たそうとしているのだ。
-アルバムのリリースはいつ頃になる?  日本でも出る?
「今年中じゃないかなとは思う。」「逆輸入で入ってくると思います。」
東山紀之  「少年隊特集 世界が僕等に道を開けた」  oricon 1986

しかしながら結局アルバムは発売されず、世界デビューすることなく日本で普通にアイドルしていました。

レコーディングから1年ぐらい経った1987年の春、ラジオ番組で世界進出の進捗について聞かれたとき、曖昧な返答で受け流しています。

ー 世界に羽ばたく少年隊、ということで、どうですか、今年の方針は?
「また外国に行かせるんですか。」
ー どういうスケジュールになっているんですか?
「そうですね…、今のところまだ…詳しいことは分かってないんですけど。とりあえず日本で『stripe blue』をがんばんなきゃいけないし。世界でももちろんがんばる、と。ね、今年あたりは。両方ともがんばる、と。期待しててほしいな、という感じですね。」
錦織一清 東山紀之  文化放送  港区海岸1丁目 1987年3月1日

世界発売の予定時期から半年も過ぎているのに「まだ分からない」。その年に行われるはずだったブロードウェイ公演のことも語らず。

上記と同じ時期にテレビ番組に出て同様の質問をされたときには、ヒガシが「(世界デビューは)まだです。これからです。」と言っています。しかしながら、最終的には進展がないままうやむやに。

ある動画では英語に苦心していたと語ってたから、それが障壁になっていたのかも。事務所の指示で英会話学校に通ってそこでどんなに会話練習をしたとしても、結局のところ基本文法や語彙がないと対話は頭打ちになるから、外国で活動できるような英語力を持ち得なかったと思う。文法単語は必須、日本人にとっては。 

少年隊はステージ鑑賞やダンスレッスンでニューヨークだのロスだのたくさん海外に行かせてもらって、ジャニーズは本当に恵まれていたんですね。トシちゃんもそうだけど。

-  デビュー前の約4年間、3か月に1度ほどのペースで海外に渡り、本場のエンターテイメントを学ばせた。ブロードウェイのミュージカルを何度も鑑賞し、マイケル・ジャクソンの『スリラー』の振付師であるマイケル・ピータースの1日8時間に及ぶダンスレッスンを受けさせたこともあった。- 
デビュー35周年、「ジャニーズ最強」と評された少年隊の実力 文/岡野誠 NEWS ポストセブン 2020/4/26

非ジャニの慎吾ちゃんなんか、ダンスを習得するのに独り夜な夜な自室でビデオを繰り返し見るしかなかったというのに、この待遇の差。しかも、彼は進学校卒だったから文法語彙の英語基盤があったのに。ジャニーズはあらゆるレッスン環境に恵まれているけど英語力を持てず、非ジャニだと語学対処できそうなのにダンス教育や海外進出の機会が与えられない

他の非ジャニだと、例えば晃司クン竹本孝之さんも学歴上かなり優秀だったから、もし仮に彼らが英語を習得せざるを得ない状況に直面したなら、なんとか対応できたかも。

1985年初め、つまり少年隊が契約する半年前に、日本のヘヴィメタルバンド LOUDNESS/ラウドネスがアメリカでレコード発売とツアーを実現させているから、直前に世界進出に成功したちょうど良い先行事例があったのだけど。

アルバム制作の方針は全面的に米国のレコード会社に任せていたようです。

「日本の方の僕達のレコードの場合は僕達もわかるから自分達で考えたりなんかしてるけど、今度のWEAのレコードの方は全部まかせてます。」
「これはやっぱりアメリカで受けるために作っているから。」
植草克秀 東山紀之 「世界が僕等に道を開けた」 oricon   1986

少年隊の三人が英会話レッスンを受けている様子や、渡米先でレコーディングをしている様子が当時メディアでよく紹介されていたので、世界進出の準備は入念に進められていたはずです。

黒柳「(そちらアメリカには)いろんなお仕事の下準備にいらっしゃってると伺っていますが、うまくいっています?」 少年隊「ええ!」
黒柳徹子 少年隊 ラスベガス中継  TBS  ザ・ベストテン  1986年3月6日

☆彡

当時はインターネットも携帯電話もなく、それどころかそんなものがこの世に出現することさえ一般の人々はイメージできなかった。重い辞書片手に、ひとつひとつ英単語調べたり。それでも当時皆、模索しながら世界とつながろうと努力と工夫を重ねていたんですね。遠かった海外、憧れのアメリカ、世界を夢見ていた昭和の若者たち。

【続編記事】 少年隊 全米デビューと英語  ほか