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どっちが? トシちゃんと慎吾ちゃん

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shueisha  1984                                              magazine h  1983

「ラップ」について、アイドルでは僅差で風見慎吾『Beat on panic』が先。

■ ラップ (レコードリリース年月)
田原/ 『It's BAD』       1985年11月
風見/ 『Beat On Panic』    1985年4月  風見が半年ほど先
 
※しかしながら、風見の曲はぎりぎり「ザ・ベストテン」入りできなかったため(2週連続11位)、「人々の認識」は田原によると思います。

一方、よく議論される「ムーンウォーク」は…

■ ムーンウォーク (レコードリリース年月)
田原/ 『シャワーな気分』       1983年5月    田原が1年半ほど先
風見/ 『涙のtake a chance』    1984年12月
 
※しかしながら、田原のそれはその時点で完成度的に印象がいまひとつで、「世間でのインパクト」は風見によると思います。
(1983年7月7日のザ・ベストテンで、田原が初出場の風見のいる前でそんなムーンウォークをしていますが、新人風見はどういう気持ちでそれを見ていたのか気になるところです。) 【追記】ムーンウォーク アイドル →

なので、「先」と「一般での認識、インパクト」がそれぞれお互い逆転現象状態ですね。

いろいろ書いてすみません。というのも、田原俊彦と風見慎吾の比較を試みようと思いまして…。

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TOSHI IN NY10R CANYON, magazine h  1984

キャリアや認知度はトシちゃんが圧倒的ですが、ダンスの実力とその影響力では双璧だと思うのです。そしてキャラタイプが同じ。80年代アイドルで、彼らは軟派「僕、キミ」系、マッチとシブがき隊が硬派「俺、オマエ」系。

曲については既に他で取り上げられているので、ダンスパフォーマンスでの実績について思うところを記述させてください。

■ 誕生年月
田原/ 1961年2月   
風見/ 1962年10月  一歳半違い

■ デビュー
田原/ 1979年10月 18歳  ドラマ TBS「3年B組金八先生」   
風見/ 1982年10月 20歳  バラエティー TBS「欽ちゃんの週刊欽曜日」

■ 歌手デビュー
田原/ 1980年6月 『哀愁でいと』 NAV/キャニオン    
風見/ 1983年5月 『僕笑っちゃいます』 フォーライフ

■ 歌手としての活動期間
田原/ 1980年~ 現在  80年代はどっぷり
風見/ 1983年~1985年 実質2年半

■ 野望、下積み
田原/ 芸能界への強い憧れ。デビュー前から、山梨の工業高校に通いながら週末ごとにレッスンを受けに東京へ通う。
風見/ 広島のカトリック系進学校から大学進学で上京。芸能界へ入ったのはたまたまで、歌手デビューするつもり全くなし

ボクは高1の夏、15才のあのクソ暑い甲府で、歌手になると決めた。それは、なりたいという希望や憧れじゃない。“絶対歌手になってやる”って自分の魂にこれ以上ない勇気を奮い起させ、それからの人生のすべてをこの道に賭けた…。   田原俊彦  『とびッきり危険』  集英社   1986年

「僕はこういう世界に入る気持ちはまったくなかったんです、実は。どちらかというとなりたくなかった方ですね。」「歌に対してもホントに消極的でした。そしたらレコード会社の方が “いや、慎吾君ね、世間一般はそんなこと認めないんだよ” とおっしゃって(笑)。一生、レコードなんて出す気はなかったんですけどね。」 風見慎吾 Oricon 1983, 1985

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shueisha  1984

■ 家庭環境と芸能志向
田原/ 母子家庭で4人きょうだいの唯一の男の子。経済的に豊かではなく、母親を楽にさせたいとスターを目指す。
風見/ 父親が町工場を経営しており比較的裕福 。欲しいものはたいてい買ってもらえた。バイト感覚でテレビ出演するも父親から猛反対される。

■ 小中高時代
田原/ 成績が良くなく中学の先生から公立高校は無理と言われたが、私立の入学を避けるため奮起して勉強。公立の工業高校になんとか受かるが、工業や授業内容に全く興味が持てず、勉強も部活もせず、日々マイルド不良の仲間たちと喫茶店などでたむろする。芸能界を目指し普通に就職する気がなかったため、学校をサボりまくる
風見/ 小学校ではオール5で学年一位、児童会長を務める。超難関の中高一貫エリート男子校にあっさり受かるが、強制されることが嫌いだったため、勉強も部活もせず、日々街に繰り出し映画館やディスコに通う。高校三年の夏からやっと受験勉強を始め、現役で都内の大学の工学部に合格。

■ デビューのきっかけ
田原/ 高校1年生のとき、ジャニーズ事務所に履歴書を送ったがなしのつぶてのため上京しジャニー喜多川氏に直談判、レッスン受講を認めてもらう。事務所の働きかけでドラマ「金八先生」でデビューするが、歌手志望だったため釈然としなかった。
風見/ ローラー仲間の哀川翔らが演劇集団「零心会」を結成するにあたり、半ば無理やり入れられる。会のメンバーがいろんなオーディションを受けるのに付き合わされているうちに、萩本欽一の番組になぜか受かりお笑い番組でデビュー。その後レコードを出すことになるが、歌手を志望していなかったため釈然としなかった。

■芸能界入りにおける自己認識
田原/ 何もないゼロの自分だったから、怖さや迷いは全くなし。
風見/ 理系大学生で、知識や技能を生かした職業に就ける未来が確実だったため、芸能界入りも入った後もずっと不安を抱えていた。

■ダンスの動機
田原/ スターになるための手段としてやる仕事で、それまで踊りたいと思ったことはなかった。
風見/ 子どものころからリズムに乗って体を動かすのが好きで、仕事として踊る気はなかった。

■ ダンスの習得
田原/ デビューを目指し、ジャニーズで有名ダンサーや振付家達から緻密なレッスンを受ける。ダンスの先生にニューヨークのスタジオレッスンに連れて行ってもらう。付けてもらった振りを何十回も繰り返し練習することで、自分のものにしていく。
風見/ 指導を受けたことがない。自発的に原宿ホコ天でツイストを踊る。 デビュー後はコンサートステージ用に自己流で練習。ブレイクダンスは独学。単身でニューヨークのディスコに通う。自身の人生で出会ったカッコイイものに憧れる気持ちを表現することで、踊りを自作する。

■ ダンスのタイプ
田原/ 基礎からの努力派。バレエ、ジャズダンス系。空気を抱くような余韻、エレガンス。総合的な完成度、芸術美。「うっとり」「素敵!」
風見/ 身体能力駆使の才能派。アクロバット、ストリート系。空気を切り裂くシャープさ、軽さ。新規性、技術美。「すげー」「カッコイイ!」

■ ダンスや演技の傾向
田原/ 振付家に付けられたダンスを丁寧に踊る。演技でも監督や演出家から受けた細かい指示を忠実にこなそうとする。権威に従う王道。演じ手志向。
風見/ 自身による振付なのでステージごとにアレンジし、その時の気分で好きに踊る。コント出身で元々台本作家志望だったこともあり、演技にもしばしばアドリブを入れる。権威に逆らう邪道。作り手志向。

■ 歌唱力
田原/ デビューからしばらくは無かったが、80年代後半ではかなり向上
風見/ 元々歌は上手くないが、初期フォーク系の曲ではそんなに悪くない。後期ブレイクダンスの曲では不安定さが目立ってしまう。なお、歌唱レッスンは萩本欽一の意向で受けさせてもらえず。「フラット気味の慎ちゃん」

ちなみに、トシちゃんの『It's BAD』はラップのところで下手さが目立っちゃって、慎吾ちゃんの『Beat On Panic』はラップ以外のところで下手さが目立っちゃう。でも、二人とも独自の世界観創れててすごくいいと思うんだけど。声も好きだし。

■ ルックス
田原/ 顔含めトータルで理想的。身長もわりとあり、脚も長め。
風見/ 顔が途中から急激に垢抜ける。小柄だが、細身小顔で身長に対し脚が長めなのでバランス良し。

■ 印象
田原/ 王道アイドル。軽薄系王子から徐々に大人の男の色気を増していく。
風見/ 素朴コミカル系から突然アウトロー系に。急激な垢抜け度に色気がついていけていない。

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magazine h  1984                                       shueisha  1985

■ 海外活動
田原/ 事務所の方針でダンスのレッスンやステージ鑑賞、その他撮影などの仕事でニューヨークはじめ海外に頻繁に行く。刺激を受け良い経験だと思う一方、外国に行くことは実はあまり好きではない。英語はできない
風見/ 仕事で外国に行くことはほぼなく、もっぱら単独でニューヨークへ飛びディスコに通う。小学生の時に単身渡航の経験があるため、気軽に海外へ行く。英会話は、流暢ではないが、受験英語を駆使し意思疎通可能。

■ アイデンティティー
田原/ 歌手、歌って踊るスター、エンターテイナー、「僕は俳優じゃない」いつまでもアイドル
風見/ 役者、コメディアン、エンターテイナー 、「僕は歌手じゃない」
不本意ながらアイドル

ボクは永久にアイドルでいるつもりだ。一生アイドルだ。常に女の子たちの “気になる存在” でいたい。     田原俊彦 『とびッきり危険』  集英社  1986年

「まちがってアイドルになっちゃった。」「僕自身、自分のことをアイドルだと思ってません。」 風見慎吾 shueishaOricon  1985

■ 自己認識している能力、支えとなっている精神
田原/ 運動神経・ルックスの良さ、ハングリー精神
風見/ 頭脳明晰、センスの良さ、奉仕の精神

歌って踊って芝居をやって、いままでにない日本のエンターティナーの座にボクがついてやる。  田原俊彦  『とびッきり危険』 集英社 1986年

「自慢げにすごいことを見せるよりも、簡単でもみんなで踊ればこんなに楽しいんだよ、っていうのをわかってほしいんです。」 風見慎吾 
BP New Year 1985

■ 大手事務所退所、独立
田原/ 30歳を超えて、結婚と同時に。
風見/ 20代半ば、同時に改名。

この時代に大手事務所を辞めるというのは極めてたいへんなことでした。

■ 進化の速度、時代との親和性
田原/ 時間に沿って徐々に進化。80年代を中心に長く受け入れられた。
風見/ 劇的変化とダンス本位スタイルで革命をもたらしたが、時代を先取りしすぎて歌手活動は短期。

■ 実績、位置づけ
田原/ 確実に80年代という時代を担った。その後も長きに渡り、歌とダンスを主とすることにこだわり続ける
風見/ 革命を起こし新たな文化を切り拓いた。その分すぐ歌謡界から去り、他の活動へと移行。

慎吾ちゃんはまだ売り上げがそんなに落ちていなかったのに、なぜか3年6曲で歌もダンスも止めてしまった。実にもったいない。当時まだダンスが主流にない時代だったし、歌唱力とダンス力に差がありすぎたからか。ブレイクダンスに限らずダンスそのものの質が高いのに、ブレイクダンスのイメージが付きすぎてしまったのか。あるいは革命児の宿命と言うべきか。それか、当人にとってはダンスは単にキャリアの通過点に過ぎなかったのかも。

トシちゃんは歌とダンスにさらに磨きをかけ、80年代末に見事にセカンドブレイクを果たしたが、ご存じのようにその後かなり長く表舞台に出てこない時期を迎えた。

後のエンターテイメント界に強い影響を与えたこの2人を今改めて広く認識してもらえるような、さらなる記事を期待しています。 いずれ、テレビなどで取り上げてほしいですね。

時代を担った&文化を切り拓いたソロアイドル両雄、万歳!

トシちゃんと慎吾君 small

この一年半後ダンスライバルに   TBS  1983年七夕


【追記】コンサート風景の対比もどうぞ→「ダンスの横綱