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日本初のヒップホップアーティスト

いま慎吾が注目しているのがブレイクダンスなどのニューヨーク・サウンドだ。  「気分はドップリNY」 Kindaieiga  1984

近年、ダンスが学校教育で必修化されたり、ヒップホップの歴史が大学などアカデミック界隈でレポートされたりしているようですね。

20年ぐらい前にダンス関連の仕事をしていた身としては、ずいぶん日本も変わったなあという感じ。

しかしながら、日本におけるヒップホップやストリートダンスの歴史を論じるにあたり慎吾ちゃんについて言及されていないのがどうもすっきりしない…。きっと、芸能だからアイドルだからお笑いタレントだからと、文脈から外されているんでしょうね。Wikipediaの「日本のヒップホップ」にも記されてないし。

とはいえ、私もかつてそれに似た思考を持っていました。例えば、2000年代初頭に政府出資の国際ダンスイベントの運営に関わった時。そこにストリートダンス部門があることに最初違和感を抱いたものです。というのも、ふつう政府出資系は、財政支援がないと成り立たないハイアートや高尚アングラが主な対象なので。ストリートダンス(昭和で言うブレイクダンス)は慎吾ちゃんの印象が強かったため芸能やエンタメのイメージがあり、「芸能系として興行が成り立つだろうから、アート系とは別じゃないの? 」と感じて。

要するに、私ら世代には「ブレイクダンス、つまりストリートダンス」⇒「慎吾ちゃん」⇒「芸能、エンターテイメント」、さらに「芸能エンタメ≠オーセンティックな文化活動」という観念があったということです。

だから現在、ヒップホップやストリートダンスが文化として市民権を得て、その歴史がアカデミックに論じられる時代になったとしても、芸能人、ましてやアイドルの名前なんて持ち出しにくいだろうし、あれは芸能だ商売だネタだとスルーされるんだろうなと察します。アングラとしてのカルチャーこそが実態で真髄で、正規の歴史だと捉えられるんだろうなと。

しかし! 慎吾ちゃんのおかげで1985年にブレイクダンスが日本中で大流行し、我々世代にとっての常識的認識として定着したのです(後にジャンルや名称が細分化再定義されたことはさておき)。それまで日本人は「このテの踊り」を見た事がなかったので。それ以前にもブレイクダンスの映画があったりホコ天やディスコで踊られたりしていたそうですが、そんなのは都市部のヤングしか知らないこと。「映画を観る、ディスコに行く」という娯楽文化を持たない、東京なんか行ったこともないという人の方が世の多数派でした。

慎吾ちゃんは、そんな当時の日本の「情報格差」「機会格差」「世代格差」をクリアし、「このテの踊り」を全土に広めた初めての存在だったのです。

首都圏や都市部の人、カルチャー通の人にはこの観点が欠けがちですが。

1984年末の『涙のtake a chance』での本格導入でテレビを通じて日本中の幅広い世代に知れ渡り、その後ブームは去りましたが、その時広く人々に認識基盤ができたからそれが潜在的土壌となって、後にまた芽が出て育ったと。90年代の「ダンス甲子園」の対象は、子どもの時に慎吾ちゃんに影響を受けたドンピシャ世代なわけだし。

ダンスというのは女の子がするものという風潮だった時代に、「こんな踊りがあるんだ!」「‘男が踊る’ ってアリなんだ!」という意識を子どもたちに植え付けていたのです。

ブームだけに終わらず、時代を超えて実る文化の種をそこで蒔いていたわけですね。

1983年末にヒップホップへの関心やブレイクダンスが得意なことを語って、1984年のお正月コンサートでブレイクダンス宣言をし、ちょっとお披露目。ロス五輪に沸く84年の夏、「ヒップホップで過激にキメます!」を謳い文句にしたコンサートツアーでバックダンサー達と日本各地を巡り、ブレイクダンスを大々的に披露。岡山や沖縄ではビーチの大イベントで踊って生放送されたりと、炎天下の会場は大盛り上がり。

慎吾ちゃんにとってブレイクダンスは、例の曲をテレビで歌い踊る半年前に、既にひと仕事終えていたものだったのです。

この夏シンゴのコンサートをみた人はアッハーン、アレだ!なんて思うでしょう。とにかくシンゴちゃんはこのところブレイクしまくっちゃって、体がコッキンコッキンとウソみたいによく動いたり止まったり。 
magazine h  1984

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角刈りにする前、バックダンサーたちと    magazine h  1984

夏のコンサートツアーを終えた後、新曲をバラードで出すという計画を伝えられたとき、その路線を拒否するために師匠の萩本欽一にダンス導入を直訴しました。

「ボクははじめて大将にさからった。“やりたいことがあるんです。やらせてください” って。」  風見慎吾 shueisha 1985

急きょ別の曲を制作することに。それが『涙のtake a chance』。

11月にレギュラー出演の番組「週刊欽曜日」で歌い、ブレイクダンスをテレビで披露。1985年の年明けに歌番組に出演したことでブレイクダンスが爆発的に広まるのですが、その前からホコ天では「打倒 風見慎吾」と目されていました。同年には、作曲家にラップを取り入れるよう頼んで作ってもらった曲『BEAT ON PANIC』とアルバムをリリース。かねてから「DJやりたい、スクラッチの。そして日本語でかっこいいラップをやりたい」とヒップホップエレメンツの導入案を抱いていました。

「新曲(涙のtake a chance)に関しては、もう少しスクラッチのリズムなんぞを入れて過激にやりたかったんだ、ホントは…。ところが、大将が “あのリズムだけはやめろ! 戦車の音みたいで戦争を思い出すから…” なんていうもんだから、ちょっとおとなしいリズムになっちゃったんだ。大将って意外に古い考えを持った人なんだなァ…。チェッチェッ。」 風見慎吾  
「気分はドップリNY 」   kindaieiga  1985

ということで、慎吾ちゃんは「(テレビを主とする)メジャーシーンにおける日本初のヒップホップアーティスト」、あるいは「日本初のヒップホップアーティストのひとり」と言えるのではないかと。ラップについては同時期に吉幾三のヒット曲があります。これは演歌イロモノの印象が強いけど。

「あのブレイクダンスにしても、職のない黒人が生活の糧を得るため必死に創り出したもんですからね。生活かけてやってるから、あれだけすごいものが生まれるんだと思うんですよ。」
新鮮なものとは生活をかけた必死の中から生まれるんだと慎吾は強調する。

風見慎吾 「気分はドップリNY」 Kindaieiga 1984

作曲家に自ら働きかけ、バックダンサーもコンサート用に自身がディスコに探しに行って見つけた仲間waveを新曲でも起用。振付けも自前で、衣装も自分で手掛けるなどクリエーターの面もある。作詞したり台本作家をやったりと本来は作り手志向。元々映画通のUKロックマニアのパンクでニューウェイブな前衛インテリで、実際頭も良い。中高時代ずっと帰宅部だったのにスーパー身体能力。劇男一世風靡ルーツ、かつ欽ちゃんからの超絶シゴキに耐えてきた身だから根性もある。未踏のダンスを「独学」で習得し、人気タレントとして既に培っていた自身の知名度を活用して新しい価値を日本全土に広めてくれました。

「今のボクは歌って踊って、ニューヨークのエッセンスを日本中にふりかけたい!と思っているんだ。」 風見慎吾 kindaieiga  1985

なのに、たまたま女の子好みのマスクしてたからうっかりアイドルになっちゃってて、しかもお笑い系でおちゃらけていたから、世間の先端気取り男子たちから「アイドルのくせに」とか「お笑いタレントなんかに」ってイキった反発があったそう。「あんなの外国人ダンサーの踊りを真似ているだけ、と  “強い嫌悪感” を抱いていた」と言う人がいたり、その一方で「あんなの我流で、本当のブレイキンじゃない」と言う人がいたり。鼻息の荒い巷のダンサーが慎吾ちゃんにバトルけしかけたことを武勇伝にしたり。

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女の子好みのマスク NEW YEAR  1984

賞賛を浴びると同時に反感も買ってしまうのは先駆者ゆえの宿命、世の常。

だから同時代、特に『涙のtake a chance』がヒットする前から踊っていた人は慎吾ちゃんのことを軽視したがるし、1980年以降に生まれた人には当時のブームや影響力を実感できないからピンと来ないと思います。

まぁ私ら世代にとっても、まさか後年アノ慎吾ちゃんを「アーティスト」と称する日がくるとはね…。笑っちゃいます♪

だが、彼を語らずして日本のヒップホップやストリートダンスは語れない。 芸能だろうがアイドルだろうがお笑いタレントだろうが、事実は事実。特に「普及」において彼の名前を出してない時点でアウト。

「ブレイクダンスを普及、っていうか、みんなで楽しく踊ろうよと、そういう意志の伝達をやりたいんですよ。それが子供にまで影響していて、自分が望んでいた状況になってきているんですよ。」     
風見慎吾   BP  New Year 1985

とは言っても、お堅く記すには確かに抵抗があるかも。「風見慎吾」って。みんなキャーキャー言って。世間はこんな可愛いイケメンがこんな若いうちにこんな偉業を成したとは認識できなかっただろうし、当時のイキリ男子もさすがに素直に受け止められなかっただろうな、と。

『涙のtake a chance』の華麗なダンスが大人気の風見慎吾を “審査委員長” にむかえ、ブレイクダンスコンテストが開催された。女の子を含め、ダンス自慢の9組が次々と過激にブレイク。会場を埋めた500人あまりのギャルもエキサイト。  Shueisha  1985

慎吾ライブ客文章カット - コピー

さすがに素直に受け止められない光景  magazine h  1985

あと、慎吾ちゃんの情熱と構想を受け入れた萩本欽一の名と番組名も。当時の彼のテレビを通じた大衆への影響力は計り知れないものでした。


☆彡


【追記】TBS「週刊欽曜日」は1985年、慎吾ちゃんのブレイクダンス導入を機にLAからブレイクダンサーのトミー平原を招いてラップ曲をリリースさせたり、ヨーロッパで84年に日本語ラップデビューしていたLA在住の日本人女性を招いてレギュラーミュージシャンとして出演させたりと、ヒップホップに全面的に迫ろうとしていたようです。私は全く知らないのだけど。この番組はかなりこのニューカルチャーの国内普及に貢献していたと思われます。

なんてったって、日本のヒップホップを牽引したCRAZY-Aがレギュラーで出ていたんだし。慎吾ちゃんのバックダンサー絡みで。CRAZY-Aはれっきとした欽ちゃんファミリーなのです。