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慎吾ちゃんの情熱は 遠い空に輝く星のように

「ボクははじめて大将にさからった。“やりたいことがあるんです。やらせてください” って。」 風見慎吾 shueisha  1985

80年代「視聴率100%男」萩本欽一。タレ目の風貌、ほのぼの系お茶の間番組とは裏腹に、大将による稽古の厳しさは正に昭和。コニタンこと小西博之さんも欽ドンの柳葉敏郎さんも疲弊するほどのシゴキ。特に素人新人の慎吾ちゃんには厳しかったそうです。

番組「週刊欽曜日」の初期のころ 「欽ちゃんバンド」でのそれぞれの弾き語りで、慎吾ちゃんが「ベースじゃおもしろいことなんかできないだろう」と本番でなんとなく流したら、大将に烈火のごとく叱られたと。「オマエにおもしろいことなんて誰も期待してない。できないながらも一生懸命やっているところを見てもらうことが大事なんだ。もうオレの前に顔出すな! 二度とスタジオに来るな!」

叱られながら大将に教わった最大のことは「汗をかけ」ということ。これを耳にタコができるくらいたたきこまれたと。以下、慎吾ちゃんがまだ新人でブレイクダンス導入構想など全くないころに言われた大将の言葉。 

“ お客の前に出たら指先の一本一本まで力を入れて、せいいっぱいやれ、手を抜くな。”  “ いくらできないと分かっていても、せいいっぱいやれ。踊りなんかヘタでいいから、とにかく汗をかくんだ。気を入れてやっていればお客は絶対に分かってくれるし、それは5年後10年後に花が咲き実になるんだ。” 萩本欽一
1982年  TBS「欽ちゃんの週刊欽曜日」稽古場にて    magazine h  1984 

大将はこうも言っていた。「ぼくの自慢の息子。きっと何年か後には慎吾がテレビを変える。」 それが1984年。実際、翌年の85年にブレイクダンスの大ブームを巻き起こしエンターテイメント界に革命をもたらすことになるわけだけど、コトの大きさ真の影響力は誰もすぐには分からない。時代が2回変わった40年後に、意外なかたちで花が咲くことになった。

『涙のtake a chance』1984年12月。本当はこの曲の予定ではなかったのだそう。バラード調の静かで穏やかな曲を出すことが決まりかけていた。 

「でもタイショーに頼んでね、ボクの構想を…。ブレイクダンスでバックもウェーブを使って、と。」 「で、タイショーもボクの熱にうたれたような感じで、この『涙の~』が生まれたんです。」   

大将が慎吾ちゃんの情熱に打たれて生まれた曲

「激しいでしょう、ブレイクは。若者たちがディスコで喧嘩して暴れて、じゃ喧嘩を踊りで表現しようみたいな。それがブレイクダンスなんですね。」「まったく素人感覚でやっているんですよ、自分たち。仲間とヘタでもいい、スポーツ感覚で…。不思議ですね。 」         

当時まだ若く、芸能活動や将来迷いもあったかと思います。

「先の事を考えて一時期不安なときもあったんですけどね、チャレンジしますよ。いま、意気込みがフツーじゃないですからね。やります!」

決めてみせるぜsmall
magazine h  1985

「この世界に入ってからは何もかも大将に教えてもらってばっかで、歌はヘタだし、役者としてもヒヨッコのボクが、はじめて自分自身でやってみようと思ったこと。それがブレイクダンスだったんだ。」

☆彡

いちばん尊いのは、一か八か熱く突き進む姿勢が時を超え脈々と若い世代に引き継がれているということ。それは生命そのものその強さと美しさは、時が過ぎても遠い空でずっとそのまま変わらず輝く星のようです。