慎吾ちゃんの情熱は 遠い空に輝く星のように
80年代「視聴率100%男」萩本欽一。タレ目の風貌、ほのぼの系お茶の間番組とは裏腹に、大将による稽古の厳しさは正に昭和。コニタンこと小西博之さんも欽ドンの柳葉敏郎さんも疲弊するほどのシゴキ。特に素人新人の慎吾ちゃんには厳しかったそうです。
番組「週刊欽曜日」の初期のころ 「欽ちゃんバンド」でのそれぞれの弾き語りで、慎吾ちゃんが「ベースじゃおもしろいことなんかできないだろう」と本番でなんとなく流したら、大将に烈火のごとく叱られたと。「オマエにおもしろいことなんて誰も期待してない。できないながらも一生懸命やっているところを見てもらうことが大事なんだ。もうオレの前に顔出すな! 二度とスタジオに来るな!」
叱られながら大将に教わった最大のことは「汗をかけ」ということ。これを耳にタコができるくらいたたきこまれたと。以下、慎吾ちゃんがまだ新人でブレイクダンス導入構想など全くないころに言われた大将の言葉。
大将はこうも言っていた。「ぼくの自慢の息子。きっと何年か後には慎吾がテレビを変える。」 それが1984年。実際、翌年の85年にブレイクダンスの大ブームを巻き起こしエンターテイメント界に革命をもたらすことになるわけだけど、コトの大きさや真の影響力は誰もすぐには分からない。時代が2回変わった40年後に、意外なかたちで花が咲くことになった。
『涙のtake a chance』1984年12月。本当はこの曲の予定ではなかったのだそう。バラード調の静かで穏やかな曲を出すことが決まりかけていた。
大将が慎吾ちゃんの情熱に打たれて生まれた曲
☆彡
いちばん尊いのは、一か八か熱く突き進む姿勢が時を超え脈々と若い世代に引き継がれているということ。それは生命そのもの。その強さと美しさは、時が過ぎても遠い空でずっとそのまま変わらず輝く星のようです。