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世界はここにある㊸  第三部 

 5年前 ドイツ国内

「ドクター・タカヤマ。先週のデータはもう精査が済まれたのですか」
 助手の一人がタブレットを見ながら高山尚人教授に声を掛ける。高山の手にはまだ半分ほど残ったままのペーパーカップのコーヒーが居心地が悪そうに持たれている。
「このコーヒーは何とかならないのか? よく皆、これを飲んでるな」
 そう言って彼はキーを押下した。
「今、承認してuploadしたよ」
 
 カップをデスクに置いた彼は研究室棟に囲まれたようにある庭を窓越しに見た。良く手入れをされたバラと雑草の無いドイツ芝の張られた庭には、3人掛けのベンチが点在している。過ごしやすい6月のこの時期、あのベンチに座ることが彼は好きだった。行き詰まった思考がその蕾を開くように、芳醇な香りと共に突如目の前に現れることが二度三度とあった。モニターに映し出されるデータや、顕微鏡の中のような限られた視野ですべては完結しない。微細なる世界はすなわち宇宙、それは何処までも広がりそこから見上げる空の先に続いている。

 彼女はそのベンチに座りいつもの本を読んでいるようだった。およそ必要な知識はタブレットから得ることができる。ネットワークでつながるデータベースには少なくとも6歳の子供が必要な知識以上に、ほぼすべてがある。しかし彼女は手垢のついた高山の持つ日本文学の全集が好きだった。何度も読んだはずの頁が彼女に何を与えているのかいつか聞いてみたいと彼は思っていた。

「ナオはもうマスタークラスに入った。多分3ヶ月もあれば応用情報技術は終了してしまう。彼女の次の目当てを聞いておかないと」
「量子力学とロシア文学を学びたいと言ってましたよ」
 助手は彼女にはもう呆れたと言わんばかりに大きく手を拡げ目を丸くして彼に答えた。
「良かったよ、遺伝子工学と言わないで…… 3か月で私の30年を追い越されちゃたまらんからな」
 高山教授は笑ってナオをもう一度窓越しに見た。そんな会話を聞いていたかのようにナオが彼を見つけ手を振る。彼も小さく手を振った。

「ドクター、着信が入ってますよ」助手に言われデスクの上にスマートフォンを置いていたのを思い出す。
「タカヤマです」
「ドクター・タカヤマ、なぜ実験データの解析をしていないのだ」
 チャールズ・D・ロセリストは明らかな不満を第一声にのせていた。
「チャールズ、ゲノムの件はこれ以上研究を進めるつもりはないと申し上げた筈です。私はこの研究を医学以外に応用するつもりはない」
「君が研究を進めるか否かは問題ではない。このことに出資しているのは私だ。研究の成果を何に利用すれば人類の為になるのかは私が判断する。君に最終決定権はないのだ、タカヤマ」
「私にリーダーを降りろということですか?」
「君は世界で一番素晴らしい車を作った。運転するのは君でなくてもいいんだ。プロの運転手を雇えばその車を操り、どこまでも快適にドライヴを楽しめる。そうだろう?」
 高山はそれを聞きながらナオの姿を探した。さっきいたベンチに彼女の姿はすでになかった。
「君には失望した、ドクター・タカヤマ。ただ、これまでの貢献は私も認めている。ハーバードの研究室を1つ君にプレゼントしよう。そこで体細胞クローンの研究を進めるといい。『フラクタル3.0計画』からは離れてもらう」
 この研究の出資者であるチャールズの権限には逆らえない。契約も交わしている。これ以上の反抗は不可能だ。

「1週間でドクター・ブリュスコワに全てのデータと彼女を引き継げ」
 ブリュスコワの名を聞き高山はすぐに反論する。
「チャールズ、ブリュスコワはだめだ。彼はこの研究を引き継ぐには危険すぎる」
「彼の能力を認めていないのか」
「そうではない。彼は一流だと思う。フラクタルの理論を応用するに彼のインスピレーションはとてもクールでクレイジーだった。しかし彼の考えの先は幸福ではない。暗黒面におちるジェダイそのものだ。それに彼には我々が知らないコネクションがあると私は思っている。それはいつかあなたに敵対する者たちかもしれないのですよ」
 高山は感じていた。ドクター・ブリュスコワはやれと言われればクローン人間による軍隊を作り出すことも厭わないだろう。しかしそれをロセリストも望んでいるのかもしれない。

「君は世界一の科学者だが世の理には全くもって無知だな、ドクター。私がそんなことに気付いていないと思うのか? ブリュスコワは自身の立ち位置と私のことをよく理解している。裏切りさえもシナリオなのだ」
「あなたはまさか東西両陣営でこの技術を悪用させるつもりか?」
「おお、それも面白いアイディアだ! ドクター・タカヤマ! 君にはまだ活躍する場所がありそうだ」
「待て、それはどういう意味……」
 電話は切れた。彼は世界を操る力を持っている。それはよくわかっているつもりだった。それが本当に人類にとって素晴らしい世界を生み出す力になるはず、そう願っていた。そして一度は信じ、封印した自らの研究を再開した。彼が言う通り研究以外のことに自分は無知なのだと高山は思う。

 それを高山は自身の良心と研究への欲望を混濁して始めてしまった。友人の医師から紹介されたある患者。堂山サツキは息子の英人と同い年の子供だった。先天的な遺伝子異常が見られ成長は望めない子だった。彼は家族共に自宅近くに呼び、自身の研究室でゲノム編集による遺伝子の異常を抑える研究をした。時間との闘いに勝つためには倫理観よりも己の知識、技量、アイディアを優先した。結果、奇跡の偶然にも助けられ彼女を助けることができた。その時のサンプル細胞は凍結保存する必要があった。彼女が成長する間は細胞分裂によるエラーがどういう影響を及ぼすか未解明だったからだ。

 彼はその中で「遺伝子のフラクタル」を発見する。彼の作ったモデルは永遠にエラー無く複製していく。そして一方の遺伝子情報に影響されることなく、つまり配偶者の特性は持つものの、優性的にフラクタルは相似としてそれを引き継いでいく。顔、形、性は変わっても。それに加え研究の中で進化を続けるニューロンを組み込めることまで成功をした。このモデルを応用すれば認知症など病気の治療は勿論、子供の学習能力の爆発的な進化を期待できた。

 彼はその成果を現実のものとするために禁忌を犯す。そして誕生させてしまったのがナオであった。彼は自身の悪魔の所業を正当化するつもりはなかったが、生れ出たナオへの責任は生涯をかけて果たすつもりであった。そして彼女は生きるフラクタルの鍵として成長を続け、彼女の中で日々生まれ変わる細胞は同時に何億もの生命を救うチャンスの核でもあったのだ。

 しかしある時、神の子であるナオにエラーが生じる。フラクタルを形成する一本の線分が欠落し、限りない自己相似と増殖が反転し、エラーの増殖が始まった。通常のがん細胞の増殖をはるかに上回るかも知れない危機。彼はそれを解決するために世界中のDNAデータを解析する。そして再び堂山サツキのサンプルが必要であること、そしてそれだけではなく新たな鍵が必要なことに帰結する。その答えはとても偶然にそして奇跡の如く見つかる。それは彼の息子、英人が持つDNAのなかにフラクタルの一本を見つけたことだった。

 ナオはある意味、サツキと英人を引き継いだ娘であるとも言えた。そのことをナオは知っている。そしていつ再びフラクタルがそのエラーを発現し自身の命まで奪うことになるかも知れないことを。

 その技術を逆手に取ることで支配者は完全にコントロールできる人間を生み出していく手段を得る。そしてナオのフラクタルは別の生体の中でも自己増殖を続ける。後に悪魔はその手段としてパンデミックを引き起こし、ワクチンを用い多数の世界の人々にそれを忍ばせることに成功するが、その時の彼は想像すらしていなかった。

 高山は中庭に出てみる。途中で見えなくなったナオが気がかりだった。どこへ行くわけでもなく一人では外へ出れない。ここにいる限り彼女は守られていた。だが自分は極小の世界を宇宙のように捉え、どこまでも思考の世界を拡げられるのに、彼女には壁で囲まれた小さな世界しか与えていない。いつか彼女が自らの意思で現実を体感したいと主張した時、自分は彼女をどう守るのだろう。品種改良を重ね鮮やかに香るバラを見て高山はそう思った。

「先生」
 意表を突かれたように振り返る先にナオは心配そうな表情を見せ立っていた。手には読んでいたであろう本を抱え、その目は真っすぐに彼を見ていた。

「どうした? ナオ」
「先生こそどうしたの? とても楽しい様子には見えないよ」
「そうか…… これはまいったな。いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」
「それは私のことでしょう?」
 高山は心配ないよと手を振り、彼女の目線まで腰を下した。
「なあ、ナオ。私といることは楽しいかい?」
「ええ、もちろん。先生はパパのいない私にはパパと同じだもの。そして先生でもあり、私のお医者さんでもあり、そして私を守る騎士でもある。それ以上の存在をどこで見つければいいのかしら?」
「それは光栄だ。私の妻でもそこまでは褒めてくれないよ。まあ、ほとんど家に戻らない夫をそこまで言う妻も存在はしないだろうがね」
 彼は微笑んで彼女を抱きしめた。髪にバラの移り香が感じられる。

「先生……」
「ん、どうした?」
「どこかへ行っちゃうの?」
「なぜ?」
「先生の心がさよならと言っているように感じるの」
「そんなことはないさ。私はお前とずっと一緒だ。いつかお前が素敵な人と共に生きることを決意するまではね。パパとしての私には当然の想いだよ」
「でも周りがそうはさせないこともあるわ」
「おいおい、いつシェークスピアを読んだんだ?」
「2年も前よ、けど私は現実の話をしている。最近の先生のデータログを解析すればわかるわ。私のデータはこの2週間ほぼ改ざんされている。そして特定のファイルは3ヶ月も開いていない」
「参ったな…… どうやってアクセスした」
「私は内部にいるのよ、外からはアクセスしにくくても中からなら簡単よ。この6年ほどの全てのデータを私は知ってる。そしてどこの誰とその情報を共有し、協議し、論理を構築し、そして何を行おうとしているかも」
 
 高山はナオの能力に今更ながら驚嘆する。彼女に隠し事は出来ない。そして自分の運命がどういうものであるのかもきっと私より知っているのだろう。

「私はお前を道具にはさせない」
「ええ、勿論それは信じてる。先生には私を作った責任がある。だから愛する責任もある」
「愛は責任なのかい?」
「責任を伴わない行動から愛が生まれる訳はないわ」
「それは君の自論かい?」
「サルトルの言葉を少しいじった」
「サルトル? 『実存は本質に先立つ』っていうやつか?」
「そう、私を先生が愛するのもそうだし、私が先生を愛することも…… 今までの生活と行動がそれを物語っている。愛は作り上げられるものなの。
愛から私は生まれたのではない。その存在は科学の中でしか本質はとらえられていない。今でもそうかもしれないけれど…… けれど私と先生はそのあとそこに愛を育て上げた。その愛が本当のものだという事を全人類に証明すべき責任があると思うの」

 高山は6歳の子供の口から紡ぎだされる言葉に息をのみ、そして目頭が熱くなるのを堪えきれなくなっていた。私自身の罪深ささえこの子は愛に変えようとしている。この子を命に代えても悪に売り渡してはならない。叶わなければ共に最後を迎えよう。最後までこの子のそばに居なければならない。そう高山は誓う。

 しかしその二人の想いは突然に引き裂かれることになった。



 ㊹へ続く


★この作品はフィクションであり登場する人物、団体、国家は実在のものと一切関係がありません。


エンディング曲

Hallelujah - Lucy Thomas - (Official Music Video)


世界はここにある①    世界はここにある⑪   
世界はここにある②    世界はここにある⑫
世界はここにある③    世界はここにある⑬
世界はここにある④    世界はここにある⑭
世界はここにある⑤    世界はここにある⑮
世界はここにある⑥    世界はここにある⑯
世界はここにある⑦    世界はここにある⑰
世界はここにある⑧    世界はここにある⑱
世界はここにある➈    世界はここにある⑲
世界はここにある⑩    世界はここにある⑳

世界はここにある㉑    世界はここにある㉛
世界はここにある㉒    世界はここにある㉜
世界はここにある㉓    世界はここにある㉝
世界はここにある㉔    世界はここにある㉞
世界はここにある㉕    世界はここにある㉟
世界はここにある㉖    世界はここにある㊱
世界はここにある㉗    世界はここにある㊲
世界はここにある㉘    世界はここにある㊳
世界はここにある㉙    世界はここにある㊴
世界はここにある㉚    世界はここにある㊵

世界はここにある㊶
世界はここにある㊷


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