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世界はここにある⑲  第二部

「大丈夫か」

 男は煙草をくわえたまま僕の顔を覗き込んだ。煙草の灰が自分の顔に落ちてこないかが気になって、そう言う彼が何者であるのかまでは考えが及ばない。僕の目線上に赤い小さな火種がチラチラと動く。暗くてわからないが火種の先には用済みの灰だけが狙いを定めて投下の合図を待っている。僕は逃げることもできずにそれを待ち続けるだけなのだろうか。

 男は察したのか一息吸ってから、煙草を自分の足元へ捨てた。幾分か僕の未来が変わったような気がした。どうやら男は僕に危害を加えるつもりはないようだ。
『おい、起き上がれるか』と聞いてから僕の肩と首後ろに手を添え、自分の膝を僕の背中のほうへ差し込むようにして身体をおこしてくれた。

「どないや? いけるか?」
「あっ、なんとかいけるかな」
 僕は懐かしい関西弁にいくらか気を許してそう答えるが、あちらこちらに痛みを感じ、答えるほどには身体を動かせてはいない。

「待てよ。ゆっくり起こすからな、ほら、大丈夫か?」

 上体を起こされ、自分の手でも身体を支える。手を地面について初めてそこが何かしらの草が生え、緩やかな斜面になっているところだと気づく。僕は車から飛び降りた。そして盛大に転がりこの場所でようやく止まったのだろう。それは彼女の指示だった。立花三佳の。

「足、いってもうてないか? 動けそうか?」
 男の問いかけに僕は足に神経を集中してみる。そっと動かす足は一応、その任務を果たせそうだ。痛みはあるが重大ではない。重大なのはそんなことではない。

「大丈夫そうです。ありがとうございます」
「おお、良かったな。取り合えず試験はパスやな」
「なんの試験ですか」
「そやな、言わば主演男優の試験かの」
男は『ふっ』と短く鼻で笑い、添えてくれていた手を外した。

 少し広めの川の、黒くにしか見えない水面に、数十m間隔である道路灯の灯りが揺らめく。川音が遠慮がちに聞こえる。対岸には同じように灯が見え、車が走る様子も伺える。ここがどこなのか正確にはわからないが、先ほどのありえない現実から帰ってきたことはわかる。

「あの、あなたは、とりあえず味方ですか? 誰ですか」
「俺か、俺は坂崎泰輔さかざきたいすけ。帝都通信の記者やってる。三佳から聞いてないか?」
 坂崎はポケットを探り煙草を取り出しながら言った。

『いや、聞いてないです』と答えたあと、飛び降りる前に三佳が何かをくれたことを思い出し、ズボンのポケットを探すが何も出てこない。

「何か探してるんか」
「さっき車から飛び降りる寸前に三佳さんが何かをくれたんですけど……」              

 言い終わる前に坂崎が股間を押さえながら『このへんとちゃうか?』と言う。僕は漸くとそこにねじ込まれた紙片にたどり着く。 

【帝都通信 社会部 坂崎 泰輔】と併せ、携帯番号が走り書きされている。いつの間にこんなものを用意していたのか分からないが、こうなることを彼女は予想していたようだ。

「番号は覚えてくれ。スマホには登録すんなよ。お前のスマホはあちらさんにバレてるからな。俺が別の携帯を用意してやるしな」
 坂崎はそう言って辺りを見渡してから煙草に火をつけた。煙草は苦手だがこんな時に一服吸えたら、もう少し気が落ち着くのだろうかと思った。

「僕が飛び降りたの、よくわかりましたね」
「ああ、それな…… 三佳はお前に、まあ、俺の代わりやけど、接触することを決めてからこうなることは見抜いとった。今のところ俺はまだ監視が甘い方やからな、俺の方がいざという時動ける。そやからこれは想定内ちゅーやつやな」

 坂崎は大きく煙を吐き、少し咳き込んだ。そしてまた辺りを見回す。
「なんにしてもここは早く移動すべきやな、歩けるか」
「なんとか」
「よっしゃ、肩貸すから頑張れ、すぐそこにバイクを停めてるからしばらく辛抱せいよ」

 僕は坂崎の肩を借りてなんとか歩き出した。さっきよりも煙草の匂いが鼻に付く。しかしそれくらいの事は辛抱すべきなのだろう。なんとか命がつながったのだから。何日か前まで僕はこんな目に遭うことなど夢にも思っていない。しかしこの煙草の匂いと身体の痛みは現実だ。三佳が話していた僕の片割れとやらの存在。そしてサツキのこと。一遍に押し寄せたこれらの事は嘘みたいだからまだマシなんだと思った。サツキの事だけを母親なり誰かから聞いたのなら、僕はもっと痛みを感じていたと思う。

「これや、頑張って乗るんやぞ。あかんかったら車呼ぶつもりやったけど、なんとかなるやろ? 5分もかからんからな」
坂崎はそう言ってベスパの後ろに僕を乗せバイクを走りださせた。原付ではないものの、あまり大きくないベスパは重たそうに動き出す。河川敷の舗装されたランニングコースのようなところを暫く走るとスロープがあり、上の道路にでた。そこからはどう走っているのかは分からない。ただ僕は煙草臭い中年オヤジの背中に恋人の様にしがみ付いているだけだ。かぶされたヘルメットだけはなんの匂いもしなかった。

 いつの間にかどこかの商店街の路地裏に着いていた。ベスパを停めて僕が降りるのを手伝ってくれた彼は『ちょっと待っててな』と言い、商店街の表のほうへ消えて行った。何かの店の裏なのか換気扇が必要以上に音をだして回っている。同じように室外機がブーンと言う音をまき散らし、得体のしれないものを混濁した風が顔に吹き付ける。擦り傷があるのかヒリヒリと痛んだ。

「おう、こっちや」
 坂崎の声が背後から聞こえた。僕が振り返ると坂崎ともう一人、女の姿が見て取れた。年齢はさほど若くはなさそうだがよくはわからない。いかにも水商売風の姿ではなさそうだが、香水が先に漂うところは近所に住む主婦というわけではなさそうだ。

 僕が少し頭を下げると彼女は同じ様に無言で頭を下げ、そのまま路地の奥に進む。辛うじて点いている壁灯に照らされたアルミ製の扉の前で女は立ち止まり、鍵をドアノブに差し込んだ。扉の横には何十年も前の物のように見えるビールケースが何個か積み上げられている。女が扉を開けると、坂崎は『入って』と言い僕を呼び込んだ。勝手を知っているように坂崎は壁のスイッチを入れると照明が付き、そこが直接上階に上がれる階段になっていることがわかった。どうやらかなり古いビルらしい。その造りと湿っぽい感じは普段、誰の眼にも触れないのだろう。

 階段は何度か折り返し上階にたどり着く。坂崎に肩を貸してもらいながらの昇りでも結構辛い3階分くらいは上がったような気がする。幾つかの扉があるその階は住宅の感じはしない。

「ここはな、以前、芸能事務所やったんやで、その会社はもうつぶれてないけどな」
 坂崎はそう言いながら鍵のかかっていない扉をあけ僕を招き入れた。窓のブラインドが降りていることを確認してから照明をつける。思ったより広めの室内には簡易ベットが一つあるだけだ。やはり少々湿っぽい。かび臭い匂いが気になるが、ここなら安心かとも不思議に思えた。

「そこのベットに横になっとけ、もうすぐ食べもんも持ってきてくれる。とにかく今夜はここで寝て、明日は病院に連れてったるからな」
「ここは坂崎さんの隠れ家的な所ですか」
「ああ、俺のと言うか、三佳のかな」
 僕は驚いた。彼女がこんなところで息をひそめている姿が想像できない。
「まあ、もともとは俺が使ってたというのはある」
「でしょうね」
 僕は皮肉ったが坂崎は意に介さず煙草に火をつける。

「大丈夫か」
 何度目かの問いかけに僕は首を縦に振る。

「三佳さんは大丈夫なんでしょうか」
「あいつか? あいつなら大丈夫やろう。今のあいつはアンジェリーナ・ジョリーよりタフやで。今頃どっかでお前と同じように隠れてるわ。流石に映画みたいに銃撃ったり、男相手に格闘はできんけどな」
「連絡、つきませんか? 無事かどうか、僕の無事も伝えないと」
「それは俺が伝えるから心配すんな。三佳からはそのうち俺のところへ連絡が入る。お前はとにかく身体、休めとけ。お前は俺らにとって切り札なんやからな」

 切り札という言葉に僕は戸惑う。自分は何者でもない、ただの会社員だったはずだ。
「僕が何の役にたつと言うんです」
 僕は坂崎に訴えた。

「お前には、悪いと思うよ、残酷やわな……」

 何が? サツキを知らないうちに失って、こんな目に遭わされた上にまだ何かを背負わなければならないのか?

「高山くん…… じぶんがな、高山教授の息子であることが、俺らには最後の砦なんや」


⑳へ続く

★この作品はフィクションであり登場する人物、団体、国家は実在のものと  一切関係がありません。

エンディング曲
Starry Sky (2021 Remaster)
CAPSULE Official


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世界はここにある②    世界はここにある⑫
世界はここにある③    世界はここにある⑬
世界はここにある④    世界はここにある⑭
世界はここにある⑤    世界はここにある⑮
世界はここにある⑥    世界はここにある⑯
世界はここにある⑦    世界はここにある⑰
世界はここにある⑧    世界はここにある⑱
世界はここにある➈    
世界はここにある⑩


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