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家族愛についての映画の話

どうして現実はいつも一つしかないのだろうか

西地中海周遊(シチリア、ナポリ、ヴェネツィア(もちろん西地中海ではないが、ヴェネツィアビエンナーレのために寄った)、ニース、バルセロナ、タラゴナ)のヴァカンスを楽しんだ後、ロンドンに戻ってきたと思ったらすぐにとある国際学会のためにリーズに行き、完全に力尽き、やっと落ち着いてきたと思ったら、映画『デッドプール&ウルヴァリン』のエンドロールに涙してしまい、かと思ったらパリオリンピックが始まり、バスケットボール男子の日本代表の予選リーグの試合を観ていたら、約2ヶ月も更新ができていない現実に打ちひしがれてここに戻ってきた。

あぁ、どうして現実はいつも一つしかないのだろうか。


デッドプールとバスケ、時々ラジコン

デップーことデッドプールよ、あなたはいつも正しい。「もう、マルチ・ユニバースなんて終わりにしないか!」って完全に同意する。ベンヤミン的な過去の救済をテーマとした物語でもあったから、説得力があった。だから、あのエンドロールには泣いた。映画はカメラを通した(その場合に限るが)現場に横たわる1つの現実しか映さない。それは編集されど、基本的にはその現場の1つの現実を観客も同じように見る。つまり、映画はその映画が作られていくその様子そのものを映し出している。
でもね、人間は弱いのよ。どうしてもこの一つしか存在しない現実を受け入れられずに、否定したくなる時があるわけよ。例えば4点リードしていた第4クオーターの残り10秒、みんなで「3点は仕方ない、打たせていい」って意思の統一が行えていたら、とか、最後のオフェンスは河村選手のドライブでファール誘ってフリースローを貰えていたら、とか、そもそも八村選手が退場処分になっていなかったら、とか。バスケットボールの歴史が変わってしまうような、そんな世紀の番狂せが起こってしまった現実にどうして私は今いないのだろうか。
昔、子供の頃、ラジコン(RCカー)が好きだった。おじさんが誕生日のお祝いにラジコン(RCカー)を買ってくれたことがある。そのラジコン(RCカー)はコントローラーとラジコンカー本体が長いコードで繋がっているタイプのものだった。最初は楽しく遊んでいたが、私は徐々にそしてすぐに世界の構造を直感的に把握した。ははーん、ラジコンカー本体はこの長いコードのせいで不自由になっているのだな、と。 「ラジコンカー本体は自由に生まれたのに、1本の長いコードで鎖につながれている!」と。  そう、長いコードを切らなかった世界に現実の私は戻れなかったのである。そんなことを思い出してしまった私に対して今必要なのは、 ケア(Care)ではない、(薬理学的な!)キュア(Cure)である。
痛みが癒えないな、映画みたい。(一応、回文である。)

今回どうしても紹介したい映画

たまにロンドンのシネコンが良いなぁと思うのは、公開〇〇周年記念っていう名目で何十年前の映画をピンポイントで上映してくれる。今回紹介する映画もその50周年記念上映ということで今年の1月下旬に見た映画だ。
そもそも、私は70年代のハリウッド映画は本当に好きで、どれも映画に対する愛と情熱が感じられるし、何よりみんな自由に映画制作を楽しんでいる感じが映画を見ていると伝わってくるところもいい。本作も5回ぐらいは見たことがある作品だけど、劇場で見るのは初めてだったので非常に楽しみにしていたことを覚えている。見るたびに、「あー、やっぱり家族っていいなー」って思わせてくれる作品だ。はっきり言って、本作は家族愛についての映画である。まずは、簡単なあらすじから話していきたいと思う。

介護なしでは動けない身体になってしまっている父親の代わりに、父親の役割を担う長男は、ひとけの少ない場所で飲食店を経営しながら、なんとか家族を養おうとしている。そんなことを知ってか知らずか、次男は放蕩息子。写真が趣味で、いっつも旅ばっかりしていて全く家に帰ってこない。たまに帰ってきたと思えば、旅の途中で人に迷惑かけたことを自慢げに話すだけで、家の手伝いもしてくれない。長男に怒られてばっかり。でも心は優しいはずで、夕ご飯の時間になると弟と一緒に父親の介護を積極的に行う。そして最後に、恥ずかしがり屋で引きこもりの三男。その見た目や体型からは想像もできないほど繊細で小心者な彼は、兄貴たちに怒られないように趣味にいかに没頭するかだけを考えている。私が特に好きなシーンは、彼がある「やらかし」をおこなったしまった後に、「あー、また兄ちゃん達に怒られるわー。どうしよう。」みたいな表情で落ち込むところ。たぶん、なんとか上手な言い訳とかを考えているんだろうなーと思うと愛くるしくなる。そして、来客を招き、家族みんなで夕ご飯を食べる印象的なシーンに突入する。

家族での夕食、何気ない日常、二度とこない朝焼け

やっぱり家族みんなでご飯を食べるシーンっていいよね。長男も一旦父親的な役割から解放されて、三兄弟みんなで食事を楽しむ。三男も三男で、来客が来ていたからなのか、いつもそうなのかは分からないが、正装でちょっとおめかし?までしていて、気取っている感じも可愛いかった。
そして食事の最後に、お父さんも含めてみんなで余興に興じる。ほら、よくカラオケが得意だったおじいちゃんとかおばあちゃんに、その子供たち(親やおじさんやおばさん)が一緒にカラオケ歌うこととかあるでしょ?その感じで、昔お父さんが得意だったことを息子たちが協力しながら行おうとするわけよ。とっても楽しそうに。特に長男が、父親的でも長男的でもなく、単なる子どもとして兄弟たちとその余興を楽しんでいたシーンが印象的だったなぁ。
まぁ、その家族みんなでご飯を食べて余興を楽しむシーンがクライマックスで、そのあとは悲劇的な結末になるんだけど。でも、兄弟3人ともキャラ立ちしているし、表面的には怒鳴りあっているシーンばっかりで歪みあっているように見えるんだけど、でもやっぱりどこか心の底ではみんな繋がっているというか、信頼し合っているっていうのが見えるのがこの映画のすごいところだなぁと思う。ああいう何気ない家族集まっての夕ご飯って貴重だったんだなーって思うし、もし近々家族と会う機会があれば、あと何回みんなでご飯を食べることができるのだろうか、と自分に問いかけながら精一杯その食事を楽しみたいと思う。
最終的には悲劇的な結末になるんだけど、最後の最後、三男の朝焼けの下でのダンスシーンは、『ジョーカー』のそれや『ブレックファースト・クラブ』のガッツポーズぐらい名シーンとして映画史にも私の心にも刻まれている。そしておそらく、藤本タツキ先生の心にも。

あ、映画のタイトル言うの忘れてた

1974年10月にアメリカで公開され、日本では1975年2月に公開されたトビー・フーパー監督、製作、脚本(キム・ヘンケルと)を務めた映画、原題: The Texas Chain Saw Massacreこと『悪魔のいけにえ』、皆さんも家族愛についての映画が見たいと思った方はぜひ見てみてください。


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