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連載小説・海のなか

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とある夏の日、少女は海の底にて美しい少年と出会う。愛と執着の境目を描く群像劇。
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#連載小説

小説・海のなか(44)

小説・海のなか(44)

次の日も、その次の日も夕凪は俺を待っていた。俺はその姿を見るたび、何か責められているように感じた。そしてようやく気がついた。夕凪がいなかったあの日、自分が傷ついていたということに。そして傷を持て余し、憤っていたということに。 
 俺は夕凪を赦したかった。もともと怒るのは得意ではない。そういえば今までまともに怒ったことがない。自身の怒りにすら遅れて気がつくのだから、当然うまい怒り方もわからなければ、

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小説・「海のなか」(42)

小説・「海のなか」(42)

翌日、夕方が近づいてくるとわたしは社殿の影に身を隠した。それが悪いことだとわかっていたけれど、どうしても見たかった。わたしの不在を知った陵の表情を。その顔色ひとつでわたしの中の何かが決定的に動いてしまう気がしていた。
 いつからこんなに狡くなったんだろう、と他人事のように考えながら壁に背を預けると、夜に侵されつつある空を見上げた。星が微かに煌めき始めたのを見て、晩秋すらもう終わりかけていることを悟

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小説・海のなか(41)

小説・海のなか(41)

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 あの日から毎日気がつけば境内に腰を下ろしていた。なぜかそうしているだけで息をするのが楽になる。不思議な心地だった。相変わらずすることはなかったけれど、心は穏やかだった。わたしの目は気がつくと石段の方を眺めている。そこから聞こえてくるはずの足音はいつでもはっきりと蘇ってきた。息遣いまで聞こえてきそうなほど…。
 なぜここまで夕暮れを心待ちにしているのだろう。待つのは辛くなかった。なぜか彼

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小説・海のなか(39)

小説・海のなか(39)

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 気がつくと陵とはもう別れていて、わたしはひとり夜道を歩いていた。さっきまで食べていたおでんのせいか、腹の底はほかほかとぬくもりを宿していた。
 無意識のうちに頬に触れていた手をそのまま握り込むと冷たかった。季節が移ろっていく。冬は好きだ。雑音が少なくて鬱陶しくない。空気もすっきりと澄んでいるように感じられる。
 帰り道、なぜか頭の中の靄は薄らいでいた。つい先程まで嫌になる程付き纏ってい

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小説・「海のなか」(38)

小説・「海のなか」(38)



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 夕凪は零れる涙を止めることができないのか、微かに体を震わせていた。けれどそのうち諦めて、流れてゆく涙をも食うように無言で食べ始めた。俺はといえば、どうすればいいのかもわからず、気がつけばつられるように食べ終えていた。味はしなかった。というよりも、覚えていない。そんなものよりも夕凪の涙の方がずっと衝撃だった。あんなに感情のない涙を、初めて目の当たりにした。なぜなら彼女は理解し

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小説・「海のなか」(37)

小説・「海のなか」(37)

「ありがとう…」
こぼすように呟くと、夕凪は暗がりの中じっとこちらを見つめていた。
 「なんか変?」
 戸惑って俺は半笑いになってしまう。すると、夕凪ははっとして
「いや、本当に来てくれると思ってなくて」
 と言った。どうやらお互いに相手がいるか不安に思っていたらしい。そう考えたら、どことなく嬉しくなってしまった。
 「夕凪でもそんなこと考えるんだな」 
 「え?」
 「だって周りなんか気にしない

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小説・海のなか(36)

小説・海のなか(36)

※今回は海のなか(35)と(36)は連続更新になります。近日中に(37)も更新予定。

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 無理に走り出したせいで、走り方はまだどこかぎこちなかった。さっきまでのあまりにも自分らしくない強引なやりとりに、いまだ浮き足立っている。きっと俺の演技はバレてしまっているだろう。
 羞恥に顔を熱くしながら、俺は全速力で帰路についた。今日の夕凪を思い起こすと熱っているはずの体がスッと冷めていくような恐

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小説・海のなか(35)

小説・海のなか(35)

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 見つかってしまった、と思った。
 今だけは誰にも会いたくなかったのに。けれど、よく考えてみれば会わないはずがないのだ。陵の家はこの神社を抜けてすぐだった。そんなことすら頭から抜けてしまうほど考えに没頭してしまっていたらしい。気まずさに顔を上げることができず、足元に視線を彷徨わせていると、彼の手に握られているそれが自然と目に入ってきた。その両手には焦茶の通学鞄とビニール袋がある。きっと彼

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小説・海のなか(34)

小説・海のなか(34)

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もう何度目かの物思いから回復すると、あたりは薄暮だった。つい先程までははっきりと見てとれた物の輪郭が一気に崩れ薄闇へ溶けようとしている。一瞬、自分の視力ががくんと落ちたかのような錯覚に襲われた。刻一刻と世界は曖昧さの度合いを強めていく。ふと、このまま盲目になってしまえたら、と思った。知らないということがどれほど幸福なことなのか、見えていないということがどれほど幸福なことなのか、わたしには

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小説・海のなか(33)

小説・海のなか(33)

今までのあらすじ

高校2年生の少女、小瀬夕凪は海で遊んでいて、溺れてしまう。溺れた先で彼女はある不思議な「青」と名乗る少年と出会う。
結局、夕凪は数日後海辺に打ち上げられる形で発見され、日常へと戻る。しかし、夕凪は青の存在が忘れられない。結局、再び海へと潜り青との再会を果たすのだった。青との逢瀬を繰り返すにつれ、夕凪は自分がある過去を忘れていることに気がつく。すると、青は夕凪にこう告げた。「全て

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小説・「海のなか」(32)

小説・「海のなか」(32)

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 何度も繰り返し、叫んでいる。
「ーーーー!」
 誰かを追いかけていた。
 遠くに長い髪が靡いているのが見えた。わたしと同じ、色素の薄い髪が日の光に透けた。
ああ。あの後ろ姿を何度も見送ったことがある。
「ーーーまって!」
 飽くほど口にしたはずの言葉を、また吐き出した。
 その人が決して立ち止まらないのを、よく知っていた。馬鹿みたいだ。こんなこと、意味がないのに。そんなふうに嘲笑してみ

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小説・海のなか(30)

小説・海のなか(30)

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 いつのまにか、わたしは外へと飛び出していた。全てを剥き出しにし、なりふり構わず。気がついた時には既に、家へと続く長い坂道を走り降っているところだった。
 一歩踏み出すたび、歩みが身体中に響いてわたしの内側を滅多撃ちにした。久しぶりの全力疾走に、呼吸音しか聞こえなかった。現世の全てが遠ざかり、その分頭の中の光景が色濃く迫ってくる。日暮れの青く染まり始めた家路はやけに遠く感じられた。
 も

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小説・「海のなか」(29)

小説・「海のなか」(29)

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夢に出てきたと思しきそこは、海の見える窓際の席だった。その夕暮れ、マキノのアイスクリーム屋を訪れたのは、夢が忘れがたかったからだった。窓辺から見える景色の真ん中には青い帯が遠く揺らめいていた。わたしの正面にはもう一人分の空席がある。あの夢では埋まっていた席。そこにいくら目を凝らしても、何か像を結ぶことはなかった。ただ、気配だけが凝集し、何かを為そうとしている。記憶の裏側を、無遠慮に引っ掻か

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小説・「海のなか」(28)

小説・「海のなか」(28)

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20××年 10月5日

溺れている。
深い色。
上の方に光が見える。

***

20××年 10月6日

「はやくおいで」
と誰かが呼んでいた。
顔がない女。
でも、笑っているのがわかる。

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20××年 10月7日

「 」
 誰かに呼びかけている。
 手は冷たいままだ。
 あの人は、振り返らない。

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20××年 10月8日

指切りの歌を歌ってい

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