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小説・海のなか(39)



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 気がつくと陵とはもう別れていて、わたしはひとり夜道を歩いていた。さっきまで食べていたおでんのせいか、腹の底はほかほかとぬくもりを宿していた。
 無意識のうちに頬に触れていた手をそのまま握り込むと冷たかった。季節が移ろっていく。冬は好きだ。雑音が少なくて鬱陶しくない。空気もすっきりと澄んでいるように感じられる。
 帰り道、なぜか頭の中の靄は薄らいでいた。つい先程まで嫌になる程付き纏っていた思考の渦が今は遠のいている。かわりに耳の奥では陵の声がいつまでも繰り返し聴こえていた。いつのまにか彼の声は別人のように低くなっていた。陵が変声期を迎えてからもおそらく話したことはあったはずだ。けれど、一対一できちんと話したことはほとんどなかったように思う。
 自分の口元にそっと触れると、口角に力が入っている。なぜか気恥ずかしくなって無闇に頬を揉みながら自宅の門扉にそっと手をかけた。ただそれだけで、心はすっと冷えていく。物寂しいと同時に安心も感じていた。何も持たないということは何も奪われないということだ。
 ーーーーその夜、自分の唇が象っていたのは、いつぶりかの笑みだということに気がついたのは、それから数日後のことだった。


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小説・海のなか(40)へとつづく。

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