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小説・「海のなか」(38)

 
 
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 夕凪は零れる涙を止めることができないのか、微かに体を震わせていた。けれどそのうち諦めて、流れてゆく涙をも食うように無言で食べ始めた。俺はといえば、どうすればいいのかもわからず、気がつけばつられるように食べ終えていた。味はしなかった。というよりも、覚えていない。そんなものよりも夕凪の涙の方がずっと衝撃だった。あんなに感情のない涙を、初めて目の当たりにした。なぜなら彼女は理解していない。今の心情も、そして流れた涙の理由も。全てはあの言葉通りだ。夕凪はただ純粋に驚いていた。「自分が涙を流した」という事実に。
 俺はとぼとぼと暗闇の帰路を辿りながら、また記憶を再生している。脳裏では幾度も幾度も夕凪が泣いていた。だが、どれだけ目を凝らしても本来あるはずの感情が見えない。嬉しいのか悲しいのか簡単な正負さえも判然としない。
 何度も思い返すうち、夕凪は泣いたことがないのかもしれない、と思った。あの表情はまるで涙を流すという機能を初めて使った人形のようだった。さっきまで隣に並んでいたはずの存在を、果てしなく遠く感じる。知らぬ間に突き放されてしまったような感覚。俺の片手にはウィンドブレーカーが一着ひっかけてあった。防寒と制服隠しのために夕凪に渡すつもりだったのだ。だが、実際には言い出すことさえできなかった。夕凪との彼我の差は一息にわたるには大きすぎて足が竦んだ。家を出た時は沸いていた勇気のようなものが今は見る影もなく萎んでいた。何かに打ちのめされた気分だった。
 神社の表階段を降り切ると、街灯の下に人影が立っていた。俺が存在を認めると同時に奏江がこちらを振り向いた。その口がうっすら開いたかと思うと、開口一番深いため息が俺たちの間に横たわった。奏江は長い前髪をかき上げながら低く言い放った。
 「まだ、追いかけてんのね。夕凪のこと。……まあ、知ってたけどさ」
 それでも確信はしたくなかったな、と続きそうな物言いだった。
 「ねぇちゃん、ついてきてたのかよ」
 「あたし、あんたがそこまでマゾだとは思わなかったわ」
 棘のある声で俺は言ったが、姉には当然のように無視された。嘲るような相手の言葉は弱者を容赦無く痛ぶるものだった。なぜこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。ただでさえ、今は無力感で声も出ないほどなのに。
 「誰がマゾだよ。そんなんねーよ」
 言い返す言葉に力がこもらない。今は全てがどうでもよかった。こんなくだらない問答に何の意味があるっていうんだ。
 「ったく。誰のためにここまで来てやったと思ってんの。感謝してほしいくらいよ」
 「はあ?!」
 「つーか、あたしだって身内の恋愛沙汰なんかごめんよ。付き合ってやるのなんか、今回だけなんだから」
 あまりにも横暴な物言いに窮していると、続けて奏江は問いかけた。
 「陵、あんた夕凪が一度でも自分から親しくしてる人なんてもの見たことがある?」
 「え…」
 促されるがままに思い返すが、俺の知る彼女はいつも独りだった。奏江はさらに問いを重ねる。
 「あの子はいつも一人でしょ。それがなぜか考えたこと、ある?」
 「周りから除け者にされてるから?目立たなくて地味だから?ほとんど話さないから?これらも問題の一部ではあるかも。でも、本質は違うわよね。独りでいるのは、夕凪自身が人との繋がりなんか求めちゃいないからよ。だから誰もあの子の側にはいられない。だって、虚しいもの」
 「……」
 虚しい。その言葉は夕凪に関わろうとする時いつでも付き纏うキーワードなのかもしれない。まるで幻を掴もうとするような、虚さ。俺はずっと蝕まれ続けている。そのことに今やっと気づいた。姉はずっと気がついていたのだ。俺すら知らなかったこの痛みに。
 「やめといたほうが賢明よ。ーーーーー踏み入れば、傷つくだけ」
 俺には何も言い返せなかった。ただ辛うじて頷くことだけを拒否した。ここで流されてしまえばひどく後悔するような気がした。
 「……姉ちゃんの言ってることは難しくて、よくわかんねぇよ」
 「あんた、そんな馬鹿じゃないでしょ。ほら、とっとと帰るよ。家着いたら風呂入れてよね」
 そのまま家路に着くかと思いきや、奏江は振り返って
 「もし、それでも夕凪に関わり続けるってんなら、もっと馬鹿になりな。正気のあんたなんてつまんないの、相手にもされないよ」
 「…どっちなんだよ。結局」
 戸惑いの中で立ちすくむ俺を置いて、夜は更に深まっていった。姉の複雑な思考はいつだって俺を置いていく。そのことに気がつかない訳でもないだろうに、奏江は時折こういう無茶をを言った。姉はわからないふりをしていると決めてかかったが、実際さっき言ったことは偽りない本心でもあった。俺は奏江には敵わないし、奏江と同じ景色をみることはできない。きっと一生。それとも、そんな諦念さえも見抜いているのだろうか。その上で、馬鹿にならなければ夕凪に近づけないと言いたいのか。だとするなら、我が姉上は想像以上に面倒見がいい。そんなに心配させたんだろうか。
「…いや。苛ついただけだろ」
 それで愚鈍な弟の尻を蹴りに来た。そうに違いない。あいつはそう言う身勝手な生き物だ。そうでなくては困る。これ以上完璧になられてたまるものか。
 夜空を見上げると、すでにオリオンの三つ星が輝いていた。ため息混じりの呼気は、糸を引くように輝きながら漆黒に蒔かれていった。
 
 
 
***
 
 
 小説・海のなか(38)へと続く。
 

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