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小説・「海のなか」(32)



***

 何度も繰り返し、叫んでいる。
「ーーーー!」
 誰かを追いかけていた。
 遠くに長い髪が靡いているのが見えた。わたしと同じ、色素の薄い髪が日の光に透けた。
ああ。あの後ろ姿を何度も見送ったことがある。
「ーーーまって!」
 飽くほど口にしたはずの言葉を、また吐き出した。
 その人が決して立ち止まらないのを、よく知っていた。馬鹿みたいだ。こんなこと、意味がないのに。そんなふうに嘲笑してみても、喉からは追い縋るような嗚咽が溢れ続けている。そうしてようやく、自分が泣いているのだと気がついた。だからこんなにも景色が歪むのか。潤んだ視界はもう、後ろ姿を捉えることができない。
 不意にほおに手を当ててみた。
 ーーーー濡れていない。
 そうわかった瞬間、絶望が心を覆った。そうか、また泣けなかったのだ。いや。泣けるわけがない。泣いたら全てが変わってしまう。
 すると、

『ここは、海のなかだからね』
『海のなかで、泣くことはできない』

 ひどく馴染みのある声が、不気味な結論を運んできた。その凍るような吐息を、わたしは確かに知っていた。
「まって…おかあさん」
 そう言ったのが、夢だったのか現実だったのか。目覚めた今ではわからない。きっとわからない方がいいのだ。ああ。厭になる。こんな夢ばかりはっきりと覚えているなんて。

(第八章おわり。第九章へと続く)

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