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消雲堂自分史 阿武隈川

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駄目な人間の私が、どうやって生きてきたのかを再確認するマガジンです。自分のためのものですが、興味のある方はどうぞご覧下さい。
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#自分史

林静一さんのこと

林静一さんのこと

僕は25歳から独り立ちして(遅い…)東京の上落合(一応、新宿区です)に住み、池袋西部の画材売り場で働き出しました。1982年のことでした。その画材売り場に、毎週のように漫画家の林静一さんが画材を買いにやってきました。

僕は小学生の頃に(その頃は秋田市に住んでいました)雑貨屋の店頭見つけて買った漫画雑誌「ガロ」で林さんの「巨大な魚」を読み、「こんな世界を描けたら…」なんて子ども心に思ったのです。そ

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HONDA CB50 始末記

HONDA CB50 始末記

高校生の頃に父親に原付バイクCB50を買ってもらった。

嬉しくなって「慣し運転」もせずに、まだ開通前の東北自動車道に侵入して走った。バカだから最高何キロまで出るのかを試してしまった。80キロ以上出たことで嬉しくなったが、原付だから公道30キロまでしか出せない。しかも最高時速を試したのが原因で、熱を帯びたマフラーが真っ赤になったと思ったら冷めても銅色になってしまった。

それからあちこち走り回って

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「阿武隈川 卑しい青春」

「阿武隈川 卑しい青春」

「卑しい男」僕は卑しい人間ですから、若い頃には女の人にモテる職業に就きたかったですね。ミュージシャンとかイラストレーターとかですかね。バカですよね。今思うと本当に恥ずかしい。

僕はスポーツ以外のことには何にでも興味があって、やってみるんですが、いずれもそこそこか、平均以下なんです。何の才能もないのは承知しているのですが、まあそれでも下手の横好きですから何にでも手を出しちゃうのです。今は無心になっ

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「スピッツ」

「スピッツ」

そのスピッツに名前をつけていたかどうかは忘れてしまったが、僕はいつも彼と一緒にいた。

近くに住む子どもと遊んだ記憶がないので、彼は孤独な僕の良い遊び友達だったのだろう。 それにしても、昔のアパートで、よく犬が飼えたものだと思う。 もちろん、アパートの室内で犬を飼うことはできなかったので彼は外につながれていた。

当時の自宅は2階建ての1階で、 その庭のような敷地内に小さな小屋を据えて飼っていたの

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「人生年鑑」 前編

「人生年鑑」 前編

僕は、海外旅行こそ香港と深圳だけと少ないですが、日本国内では、いろいろなところに行きました。

僕は福島県いわき市に生まれました。父の仕事が建設会社の営業職だったので、転勤ばかりしていました。僕の記憶にはないのですが、生まれたいわき市から会津若松市に移ったように聞いています。その後、福島市、青森市、秋田市(市内を計3回引っ越しました)を経て、父が会社を設立するというので再び福島に戻ってきました。

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街の灯りは人生の灯火

街の灯りは人生の灯火

昔、大阪に出張した際に、羽曳野から近鉄電車に乗って奈良に向いました。翌日に奈良の橿原での取材のために予約している奈良駅近くのビジネスホテルに泊まるためでした。あたりは暗くなっていました。確か、大阪から奈良市内に入る際に眼下に見える無数の街の灯りが見えました。僕はその灯りを見てちょっとした衝撃を受けました。街灯りの美しさにではないのです。そんなロマンチックなものではありません。衝撃だったのは夥しい灯

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Tokyo Ten thousand scenery「新宿ションベン横丁の黄昏」

Tokyo Ten thousand scenery「新宿ションベン横丁の黄昏」

また昔話です。

20代前半、目黒の美術研究所に通っていたときのこと。美術研究所には絵を習うという前提で通っていたのですが、通っている人たちは本気で絵を志す大人ばかり。若者といえば美大受験のための人たちで、僕のように「漫画を描いていたけれど絵が下手だから習いに来た」的な輩はいるはずがない。

ただし、奇妙な人たちはいた。絵描きを志す人たちの中にも才能のない人がいて、そういう人たちがえてして自分は天

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弁天山

弁天山

人の記憶というのは何歳の頃からあるのだろう? なかには生まれたときの記憶があるという信じられない人もいる。僕の最初の記憶は、多分2歳の頃だと思う。生まれたのが福島県の平市(現在はいわき市)なのだが、その操車場らしき場所を歩いている記憶があるのだ。操車場を調べると常磐線のいわき貨物駅のようだ。何故、そのような場所に行ったのかは両親に聞いてもわからなかった。

その次は、福島市の土湯温泉で苦しまずに溺

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死に逝く者 記憶の断片

死に逝く者 記憶の断片

①ひょうひょうと吹く風が鉄塔の柱に当たってビュンビュンと唸っている。雲ひとつない晴天なのに風だけが強い。その空き地にはもうすぐ大きな家電量販店が建つ予定だった。

10年前、僕はこの空き地に大きな四駆トラックを停めて一晩を過ごした。

「よくこんな所で眠れたね」かみさんが笑った。

「ほんとだね…今考えると怖いね」10年前は義母の楓子さんも生きていた。

10年前の記憶が蘇る。

「なんね、うちに

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25歳の旅 21歳の東北行

25歳の旅 21歳の東北行

昭和53年(1978)の初夏、僕は21歳だった。あの頃は人も街も、元気があって明るさに満ちていたような記憶がある。街も空を遮る高層ビルは少なくて、四季折々の気候が楽しめた。

時代が変わるとともに、地表は土中の生物が呼吸ができなくなるような人工的な素材でコーティングされて常に高温の熱気を放射している。その上には無用な高層ビルばかりが建ち並んで、日当たりが悪くなった上に、ビルとビルの隙間には激しいビ

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中途半端のすすめ①

中途半端のすすめ①

しつこいようですが、絵が下手だったから漫画家になるのを諦めた僕でした。絵が下手でも絵が描きたいなんて気持ちが強いと、次に何を考えるか…。

それは写真なんですね。絵が下手でもカメラとフィルムさえあれば、自分が決めた構図でデッサンもパースも正確な1枚の絵が作れるからです。実に簡単なんです。

昔のカメラはアナログでした。車で言えばマニュアル車です。露出オートにオートフォーカスなんて付いていませんから

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文章講師

文章講師

昨年までの6年間、千葉県や茨城県のカルチャースクールで自分史と文章の講師をしていました。10年前まで30年以上、小さな出版社や新聞社で記者・編集・営業を兼ねた仕事をしていた経験から選んだ仕事でした。

しかし、無名な僕の講座など人気がなく、ほとんどが2~3人の受講生しか来ませんでした。2~3人は良い方で、仕方なく1人相手に講師をしていたこともありました。スクールでは講座の告知チラシを新聞広告などに

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25歳のひとり旅

25歳のひとり旅

「イラスト描ける人いる?」と呼びかけたのは銅版画を制作しているMという見た目も服装も個性的な女性でした。僕はそれまでイラストなんて描いたことがありませんでした。描いていたのは漫画のようなものでした。

それは、まさしく漫画のようなもので、気に入った風景や人物写真を見ながら、それを丸ペンでガリガリと紙に描き込んでいただけのものです。幸いにもデッサン力がなかったので全く違うものになりましたけどね…。そ

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