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街の灯りは人生の灯火

昔、大阪に出張した際に、羽曳野から近鉄電車に乗って奈良に向いました。翌日に奈良の橿原での取材のために予約している奈良駅近くのビジネスホテルに泊まるためでした。あたりは暗くなっていました。確か、大阪から奈良市内に入る際に眼下に見える無数の街の灯りが見えました。僕はその灯りを見てちょっとした衝撃を受けました。街灯りの美しさにではないのです。そんなロマンチックなものではありません。衝撃だったのは夥しい灯りの数です。

「灯りの数以上に人の人生があるのだな」と考えて、そのひとつひとつの灯りは「家」という、そこに居住する家族の人生を管理している国家なのですからね。4人家族ならば4つの人生がそこにあるのです。そこから家族は分散して違う家と人生を作るのです。それまでそんなことを考えたこともなかったのです。よくわかりませんが、ある種、そういう年齢だったからでしょうか?

少し前に「東京の生活史」(岸政彦 編)という分厚い本が出版されました。購入しましたが未読です。僕は読書が苦手なのです。しかし、これがどのような本なのかはわかります。東京に居住している人たち150人の人生(半生)が、インタビュー記事として収録されています。この本は、奈良の夥しい数の街の灯りと同じです。

僕は一般社団法人自分史活用推進協議会の認定を受け(会費を納めていないので今も会員であるかは不明ですが…)、自分史講師としてカルチャースクールで「自分史」を教えていたことがあります。教えていたというか、僕が代筆していたのです。その時の受講生さんたちの人生を垣間見た感想は「疲れた」でした。他人と一緒にその時代の話を聞きながらまとめていくというのは疲れる仕事でした。例えば昭和8年生まれの方の人生を振り返ると自分も一緒に、その時代に存在していたような気になるのです。

同じように奈良の夥しい街の灯りのなかには数えきれぬほどの人生が時間の流れとともに動いているわけです。そう考えると…人の命は大切にしなくちゃならないのです。

どこぞの国にいきなり攻め込んで、「正義の戦いだ」と正当化して多くの人々を殺傷する愚かな人間が、まだまだこの世には存在しています。人間の本質は愚かですが理性が抑制して平和を保っているのです。しかし、理性を抑制できない愚か者は、死んでも治らないんです。

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