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「人生年鑑」 前編


僕は、海外旅行こそ香港と深圳だけと少ないですが、日本国内では、いろいろなところに行きました。

僕は福島県いわき市に生まれました。父の仕事が建設会社の営業職だったので、転勤ばかりしていました。僕の記憶にはないのですが、生まれたいわき市から会津若松市に移ったように聞いています。その後、福島市、青森市、秋田市(市内を計3回引っ越しました)を経て、父が会社を設立するというので再び福島に戻ってきました。

秋田市では中学校まででしたが、修学旅行にも行きました。このときの行く先は北海道でした。蒸気機関車で青森まで行き、そこから青函連絡船で函館まで行きました。函館山を見物して函館からは蒸気機関車で長万部、長万部から洞爺湖まではバスでした。

福島に戻ってからは居住地の郡山市に定住するかと思われました。高校生の夏休みに愛車の原付CB50で同級生と共に新潟、山形を経て秋田までツーリングをしました。青森まで足をのばすつもりでしたが、1泊した秋田の海岸縁に建つバス停で冷えてお腹を下してしまい、そのまま郡山まで戻ってきてしまいました。

さて、郡山に定住するはずが、父が作った会社が倒産したことで、神奈川県大和市に仕事を見つけた父に従って家族で引っ越することになりました。僕はその頃、群馬県伊勢崎市の大学生でしたが、大学にいくこともなく下宿での引きこもり生活をしていました。大学生時代には大学の友人と一緒に軽井沢と小諸、伊豆大島と三宅島に旅行しました。その帰りの船の中で東京四谷のホテルに務める女の子に声をかけて、電話番号を聞き出しました。帰ってから勇気を出して彼女に電話したのですが、相手にされませんでした。先方は立派な大人の女性でしたから仕方がないんですがね。ああ、もうひとつ伊勢崎市では喫茶店のアルバイトの女性に一目惚れして交際を申し込んで断られたこともありました。大学にもいかずバカなことばかりしていました。日曜には大学の仲間と一緒に前橋のライブハウスや高崎の街に出かけて遊んでいました。

大和市では、知人もいないので、日々自宅に引きこもって過ごしました。そのとき、あまりに暇なので漫画のようなものを描いて漫画雑誌に投稿しました。幸運にも2度の投稿で2度選外佳作となりました。描いた漫画のようなものを見て、自分の画力のなさに落胆して、目黒の美術研究所に通うようになりました。そこには、どうやって食べているのか不明な自称画家、画家の卵、夜間には勤め帰りに趣味で絵を習いに来るという奇妙な人々が集っていて、1日中ブラブラと校内を歩き回り、その人たちと交流しました。あの時代がすごく面白かった。できれば親の金で生活しながら絵を描いたり、ダラダラとした生活を送っていたあの頃に戻りたいと思うのです。僕の人生は、この時代で終わっていても良かったのです。まあ仕方がない。もう少し生きるのでしょうね。

そのうちに美術研究所で「イラストを描ける人はいないか?」と言う人がいて、絵が下手なくせに「僕、漫画を描いてました」なんて言ってしまったのです。それからその人に紹介されたFさんに会いました。Fさんは有名な劇画家さんが創設したR社という出版社に出入りするライターで、主に映画や旅行に関する本を書いていました。

約束した新宿の喫茶店でFさんに会うと、Fさんは小太りでニヤニヤした顔つきの人でした。会うなり「デイリースポーツ土日版のポルノ小説の絵を描いてくれ。内容は男女が絡む絵であれば何でもいいよ」と言われました。

それから毎週、新宿の喫茶店で適当に描いた絵を数枚渡しました。そのうち採用されるのは8枚でした。1枚3000円か5000円でしたから悪くない原稿料でした。しかし、形が崩れ、余計な描線が多い、対価に見合わぬヘタクソな絵でした。イラストは2年間続きました。10年ほど経ってから知ったのですが、絵描き志望だった僕の父が、毎週、デイリースポーツを買って保管してくれていたことを知りました。親というのはありがたいものです。

また当時は美術研究所で出逢った女性に「あなた、なぜ働かないの?」と言われ、ショックを受けた時でもありました。「イラストを描いているよ」なんて、とても恥ずかしくて口に出せませんでした。

「東北本線各駅停車の旅」

ある日、Fさんから「東北旅行に行ってみる?」と言われ、てっきり交通費も宿泊費も貰える仕事だと思い込んで「行きますよ」と答えると「宮城県の名取駅から福島県の南福島駅までの各駅に降りて、駅舎の写真を撮り、切符(当時は硬券でした)を買ってきてほしいんだ」と言われました。僕は良い仕事を貰えたと勘違いして費用のことを確認せずに承諾しました。

その数日後に福島県猪苗代町にある父の実家に向かい、1泊させてもらいました。事情を話すと従兄が「俺が福島駅まで車で送ってやっから」と言ってくれました。従兄は猪苗代湖畔に「ドライブイン翁沢」という食堂を夫婦で経営していました。父の実家は代々続く農家ですからその長男である従兄は農業と食堂の兼業というわけです。彼の夢は食堂で観光に訪れた人々に料理を食べてもらうというのが夢だったのです。なかでも「ソースカツ丼」は、従兄の得意料理でした。その日の夕食にもソースカツ丼をごちそうしてくれました。

早朝には田畑の世話をして、昼はドライブインの主人を兼業する彼は大柄でゴリラとかキングコングのような人でした。僕にとって頼りがいのある兄のような存在でした。翌朝、早く、僕は従兄の車に乗って猪苗代から福島市に向いました。猪苗代から福島市まではかなり距離があります。途中には活火山の吾妻山が聳えていて、その裾野を走って土湯温泉を抜けると福島市に入ります。その間、車中では「お前何になりたいんだ?」「絵描き?そんなもので食えるわげねぇど思うげんちょ…」「男は好きなことをやるべきだと思うんだ」「俺も夢だったドライブインを開くごとがでぎだがらな」「まぁ精一杯ガンバレばいいべ」そんな話をしていたと思います。福島駅で降りると何だか別れの言葉を言うのが恥ずかしくなりました。とりあえず「どうもありがとう。気をつけて帰ってね」と言うと、従兄は「おお」と言って、あっという間に去って行きました。

その従兄も昨年亡くなってしまいました。随分前に屋根から落ちて下半身不随になり寝たきりでしたから無念だったと思います。屋根から落ちた理由については、また書きたいと思います。ふとしたつまらないことが一生を棒に振ってしまうことにつながるのです。ご注意下さい。

コロナ禍でもあり、葬儀には出席できませんでした。コロナ禍のなか親戚は3人亡くなりましたが、いずれも葬儀には行けませんでした。

福島駅からは東北本線の電車に乗って名取駅まで北上しました。名取駅からは各駅に降車して駅舎の写真を撮り、入場券の硬券を購入しました。降車駅は、名取、館腰、岩沼、槻木、船岡、大河原、北白川、東白石、白石、越河、貝田、藤田、桑折、伊達、東福島駅の15駅でした。

ところが東福島駅の一つ手前の伊達駅で、あたりは薄暗くなってきました。時刻表を見ると東福島駅に着く頃には真っ暗になってしまいます。そこで電車を待つよりも思い切って東福島駅まで歩こうと決めました。距離は3キロほどでした。今、地図を見ると、東北本線の線路沿いに歩く道はありません。どうやって歩いたのかは記憶にないのですが、四方は田んぼで、歩いているときに奥羽山脈の向こうに陽が沈んでいくのが見えました。この時の風景だけは記憶に残っています。努力はしましたが、結局、東福島駅に到着したときには夜になっていました。

帰って数日後にライターのYさんに新宿のいつもの喫茶店で会いました。Yさんは写真を見るなり「ダメだよ。夜の駅舎の写真なんか使えないよ。また撮影してきてよ」と言うので、「お金がないので、もう行けませんよ」と言うと、何かブツブツ言いながら喫茶店から出て行ってしまいました。それきりYさんとは会いませんでした。デイリースポーツのイラストの仕事もなくなりました。


実は、13年前にYさんと有楽町の喫茶店で再会しているのですが、Yさんは僕のことを「まったく覚えていない」と言っていましたが、実は「各駅停車の旅」のことを思い出して「僕のことを覚えていない」と言ったのではないか?と疑っているのです。Yさん元気ですか? また仕事下さいよ。

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