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25歳の旅 21歳の東北行

昭和53年(1978)の初夏、僕は21歳だった。あの頃は人も街も、元気があって明るさに満ちていたような記憶がある。街も空を遮る高層ビルは少なくて、四季折々の気候が楽しめた。

時代が変わるとともに、地表は土中の生物が呼吸ができなくなるような人工的な素材でコーティングされて常に高温の熱気を放射している。その上には無用な高層ビルばかりが建ち並んで、日当たりが悪くなった上に、ビルとビルの隙間には激しいビル風が吹き荒んでいる。特にそれを感じることができるのが新宿だった。

吉野さんとは、いつものように新宿東口の地下にある喫茶店「カトレア」で待ち合わせた。吉野さんというのは、当時は珍しいフリーライターで、主に某有名劇画家のプロダクションで、個人的な趣味も伴った「映画」や「旅行」などの企画本を出版していた。

カトレアの中はたくさんのお客で満ち溢れていて、喫茶店の中は、その人たちが放出した煙草の煙が霧のようになっていた。この頃は禁煙なんて制約はなくて、誰もが当たり前のようにタバコを吸っていた。

吉野さんは奥の方に座るのが好きで、カトレアの奥に向かうと吉野さんが僕に向かって手を振った。僕は少し作り笑いをしながら「どうも…」と言って吉野さんの向かい側に座った。

吉野さんは、普段は呑気な感じだが、忙しいときには早口になって自分の言いたいことだけ言って「じゃあね」なんて去って行くこともよくあった。

「で、先生、デイリースポーツのイラストできた?」吉野さんは僕のことを“先生”と呼んでいた。僕が「先生じゃないですよ」なんて照れると「だって、絵描いてるんだから先生だよ」ときっぱりと言った。ワカゾウの僕を先生と呼んで、からかっている風ではなくて本気で先生と呼んでいた。

「はい、今日は6枚持ってきました」僕はクラフト紙の封筒からトレッシングペーパーでカバーしたペン画を差し出した。しばらく絵を見ていた吉野さんが僕を睨みつけるように見て「ワタナベ先生、こりゃダメだよ。全然色っぽくない。ポルノ小説の挿絵なんだよ。スケベェな読者が読むんだからね、そのスケベェ感を刺激するようを絵を描いてくれなくちゃさ…」

「はい…すみません」この時は片思いの恋愛しかしたことがなくて、男女間の欲望を刺激するような絵を描けなかった。そんなことより先生って呼ぶくせに注文だけはうるさい。

「しょうがない。絵はこれでいいよ。はい、2万円。ここにサインしてくれる?」1万円札を2枚渡された。当時の原稿料は1枚5千円…今回採用されたのは4枚だった。領収書らしき紙に下手くそな字でサインした。

「あ、君」吉野さんが側を通った店員を呼び止めた。

「先生、コーヒーでいい?」

「あ、アメリカンでお願いします」

「承知しました」店員が去って行った。

「ところで、あのさ…あ、煙草吸うでしょ?」吉野さんは媚びたような口調で僕の顔を見ながらカトレア特製の7色マッチを渡した。僕はポケットからハッカ煙草を取り出しながら、吉野さんからマッチを受け取った。

「どうも…」タバコを咥えてマッチを擦ると、シュッと音がしてマッチの先にキレイな炎が点いた。炎をタバコの先にあてがって吸い込むとジジっと音がしてタバコに火が点いた。

「ところで…って、何ですか?」

「うーん…先生って福島生まれだったよね。福島に行く用事があるかな」

「ありませんよ」

「今さ、『東北本線各駅停車』っていう本を作ってるんだけど、東北本線の名取駅から福島駅までの各駅の写真を撮り忘れちゃったんだよ。でさ、至急、駅舎の写真を撮らなくちゃならないのさ、代わりに行って来てくれるかな」と言って笑った。

「面白そうな仕事だ」と思った。交通費や宿泊費などは当然出してくれるだろうと思っていたから気安く「いいですよ」と返事をしてしまった。仕事で好きな旅行ができるのなら願ったり叶ったりだ。

「そう、よかった。じゃあ、明日にでも行ってきてよ。これは指示書」
吉野さんが開いたのは少年チャンピオンの原稿用紙に書いた未撮影の東北本線の駅名を表にしたものだった。宮城県の名取駅から福島駅まで各駅で降車して駅を撮影すると達筆で書かれていた。気になったのは駅名の横に書かれた「硬券」という文字だった。

「硬券ってなんですか?」

「ああ、これはね、切符のこと。昔の切符って硬い紙でできてたでしょ? 東北本線の駅ではまだ硬券を使っているところがあるの。それを…うん、硬券の入場券を買って欲しいんだよ」

「はぁ…」店員がアメリカンコーヒーを持って来てテーブルの上に置いた。タバコを置いてひとくちすすった。カトレアのコーヒーは美味かった。

「それじゃ、これからR社に行かなきゃならないんだ。それね、撮影していない駅舎を撮影して、指定駅から硬券を買ってくる…それだけだから、じゃあね」と言いながら大きな鞄を持って席を立った。

「はぁ…」

「あ、忘れてた。来月の絵はまた何枚か描いてきて。駅の写真と一緒にもらうから。じゃあよろしく頼むね」と言うと、吉野さんは逃げるようにカトレアから出て行ってしまった。

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