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筋ちがいの「平和式典」 忘れられた「広島・長崎」の記憶

1971年、広島平和記念資料館を訪れた黒人たちの画像(写真下)。


映っているのは、アメリカの俳優兼コメディアンで、2021年に79歳で亡くなったポール・ムーニーの若き日の姿である。

6月に亡くなったハリウッド俳優、ドナルド・サザーランド関係の資料を見ていて、偶然発見した動画の一コマだ。


ポール・ムーニーは、ジェーン・フォンダ、ドナルド・サザーランドらと、ベトナム反戦慰問団「FTA」を組織し、日本の米軍基地を巡回していた。

おそらく、岩国基地でのFTA公演の前後に、広島を訪れたのだろう。

動画では、ムーニーと一緒にいた黒人女性が、原爆の展示を見て「ベトナムやパキスタンと同じだわ」とつぶやく。

Paul Mooney & Jane Fonda in FTA (1972)


ポール・ムーニーの広島訪問は、当時の世界的なベトナム反戦運動と「広島・長崎」、また、日本の反戦・反核運動との接点を示すもので、歴史的意味がある。

FTAの中の、とくに黒人メンバーが広島を訪れた、というのも、実は味わい深い。


ーーという記事を、6月に書き始めていました。


でも、残念ながら、エディ・マーフィーの一世代前の黒人コメディアン、ポール・ムーニーは、日本であまり知られていない。

これが、ジェーン・フォンダやドナルド・サザーランドが広島を訪れた写真なら、わかりやすいんだけどなあ、と正直思った。

ポール・ムーニーを原爆資料館に案内したのは、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のメンバーだと思うけど、日本側の記録も発見できなかった。

だから、この「ポール・ムーニーの広島訪問」のネタは、「お蔵入り」にしたんですね。


ベ平連のヘルメットをかぶったジェーン・フォンダ(ドキュメンタリー映画「FTA」より)


原爆ドームの「過激派」たち


でも、いったんボツにしたこのネタを、「蔵出し」する気になったのは、6日の広島の記念式典で、「反戦・反核団体」とのトラブルがニュースになっていたからです。


式典会場内にも「反戦反核」デモ音声、今年も〝静かな慰霊〟ならず 公園内では座り込み(産経 2024/8/6)


わたしがひいきにしている、元産経記者の三枝玄太郎さんも、きのうの動画で、これをネタにしていた。


団体の抗議活動には中核派も加わっているとみられ、広島県警は今年2月、「大行動」のメンバーが、強引に集会場所を確保しようとしたとして、暴力行為法違反の容疑で中核派活動家5人を逮捕しています。
 
午前5時前に市職員が「慰霊の場になります。公園外に移動してください」と公園の利用者に呼びかけるも、原爆ドーム前では「中国侵略戦争反対」「改憲戦争阻止」などとプラカードを掲げた数百人が腕を組んでかたまり、移動を拒否したそうです。  

産経新聞によると、那覇市から足を運んだという男性(37)は「平和を願う気持ちは誰にも否定できないが、こうした集会やデモは純粋に平和を願っている人たちが行っているのか。訝しんでしまう」と話していたそうです。  今年も平和記念式典は静謐とは程遠い状況だったようです。
(動画の解説より)


広島原爆慰霊式典でまた中核派系団体が騒ぐも報じたメディアは産経のみ
(三枝玄太郎チャンネル 2024/8/7)


三枝さんは、動画の中で、「反戦・反核と、広島の式典に、何の関係があるんだ」とか言っていた。

他のニュース記事を読んでも(記事を出しているのは、産経や週刊ポストなど限られていましたが)、

「ああ、世間とマスコミは、広島とベトナム反戦運動のかかわりを、知らないか、すっかり忘れているんだなあ」

と思ったんですね。

「反戦・反核」と、「広島」が結びついた大きなきっかけは、1960年代後半から70年代初めにかけての、ベトナム反戦運動なんです。


ベトナム反戦と原爆ドーム


「原爆ドーム」は、今でこそ、国際的なヒロシマのシンボルで、世界遺産にもなりました。

でも、1960年代前半までは、国も市も、原爆ドーム保存に消極的でした。

民間の観光業者のあいだでも、「いつまでも原爆を売り物にするのは広島の恥だ」と、原爆ドーム取り壊しを支持する意見がけっこうあったんですね。

そのあたりは、以下の論文に書いてあります。


広島・長崎と「記憶の場」のねじれ
福間良明(立命館大学紀要)

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no110_06.pdf


でも、1960年代後半に、原爆ドームを残そうという運動が盛り上がる。

その背景にあったのが、ベトナム反戦運動です。

たんに「ベトナム」だけではなく、当時、ベトナム戦争の前線基地になっていた沖縄は返還前後で、核の持ち込み疑惑などがありました。だから、マスコミも、ベ平連などを中心とした市民運動も、盛り上がったんです。

原水協のHPにも、こう記されています。

とりわけ、1960年代にはじまったアメリカのベトナム侵略戦争が段階的に拡大され、核兵器が使われる危険が高まる中で、日本原水協は、「ベトナムを第二の広島、長崎にするな」をスローガンに、全国、全世界の反戦平和運動と連帯して活動しました。


そうした背景から、「ベトナム反戦」と、「反戦・反核」が一緒に盛り上がって、原爆体験記などを残す運動が起こり、原爆ドーム保存の運動にも結びついたんですね。

つまりですね、原爆ドームの前でおこなうこととしては、「反戦・反核」こそ由緒正しい行為なのです。


長崎に「原爆ドーム」がない理由


明日は長崎の式典ですが、長崎には「原爆ドーム」にあたるものがない。

本来ならば、「旧浦上天主堂」が、長崎のそれになるはずだった、というのは衆目の一致するところです。

しかし、残念ながら、1958年に取り壊されてしまいました。


「長崎の原爆ドーム」はなぜ解体されたのか?(ハフポスト・安藤健二 2022/8/9)


上のハフポスト記事にもある通り、もし残っていたら、世界遺産になったのは確実でしょう。

旧浦上天主堂も、1960年代のベトナム反戦運動の時期まで生き延びていたら、取り壊されることはなかったと思います。


「原爆ドーム」のようなものがあるかないかが、広島と長崎の認知度の差を生んでいると思います。

わたしは、悪いけど、長崎のあの平和祈念像が嫌いなんですね。

あんなマッチョな、古代ギリシャ人みたいな彫像、芸術的には優れているのかもしれないけど、原爆のイメージと結びつかない。

その点では、広島の、何かツルツルピカピカした平和公園も嫌いですね。あんなものにカネをかけるなら、犠牲者の補償や原爆症治療にカネを使え、という声は1950年代にもありました。


やっぱり、原爆ドームのような、なまなましい歴史の証拠を残すことが重要です。

そして、あのドームを前にして起こる、落ち着かない気持ち、怒りとか不条理感とかが大事だと思う。


関係者たちの慰霊に水をさす気はないけれど、「静かに平和を祈る」ことに積極的な意味があるとは、わたしには思えないですね。

まして、いまだアメリカの核の傘で守ってもらっている日本政府の人間や、「犯人」であるアメリカ人たちが、「平和式典」をやる偽善には耐えられない。オバマが来たときもイヤでした。


わたしは「反戦・反核」論者ではないし、中核派とかにイデオロギー的にはまったく共感しないけど、原爆ドームの前で「反戦・反核」を叫ぶのは、以上のような歴史的由緒もあり、少なくとも筋がとおっていると思います。

筋がとおっていないのは、行政がやる「式典」のほうです。原爆について、怒りを表明させず、国民に「黙祷」という名の沈黙を強いる。不当な儀式です。

今回、長崎の式典にはアメリカ大使その他が来ないということで、かえって少し筋がとおってよかったと思います。


忘れられていく戦争


なんだかんだ言って、西側は平和な時代が長く続き、戦争に行った世代が少なくなったから、いろいろ忘れているんですね。

ベトナム戦争の記憶が遠くなるのを、「しめしめ」と思っているのは、トランプ前大統領だと思います。

彼がベトナム戦争で「徴兵逃れ」した疑惑は、前の前の選挙のとき、戦争に行ったマケインからさんざん叩かれましたから。


ベトナム反戦運動が大きくなった理由の一つは、人種差別を含んでいたからです。貧しい黒人がベトナムに送られ、軍隊でも差別されていた問題がありました。

金持ちの白人、ドナルド・トランプなどは、戦争に行かなくて済んだ。

とくに疑惑の的となったのは、1968年に、トランプが身体検査の結果、兵役免除になったことです。

そのことが、1971年に、黒人のムーニーが広島原爆資料館を訪れた事実を、味わい深くしています。

アメリカの支配層に抑圧された黒人は、「広島」側の気持ちに立ち、共感できたはずだからです。


これを書いている数時間前にも、トランプの副大統領候補、J・D・ヴァンスが、

「俺は海兵隊に入ってイラクに行ったが、(民主党副大統領候補の)ワルツは行っていない」

と、Xでライバルを非難していた。


おいおい、それを言ったら、トランプはベトナムに行ってないぜ、大丈夫か、と人ごとながら心配になった。


韓国人はベトナム戦争に行った。30万人も。朝鮮戦争でアメリカに加勢してもらったお返しですね。


日本人は行かなくて済んだ。それは9条のおかげ、かもしれないけど、日本も基地を提供して、ベトナム戦争に加担していたのは間違いない。

9条以前に、アメリカの味方をする義理はないんだから。原爆落とされてんだぜ。

まあ、いろいろ言いたいことはあるけど、朝から血圧を上げたくないのでこの辺で。


<1971年、FTA来日の資料集>


以下は、6月に記事を書くために集めた、ジェーン・フォンダらのFTAが1971年に来日したときの記録や資料です。

まとまっていませんが、ご参考まで。




1971(昭和46)年■米の反戦女優、ジェーン・フォンダ(33)来日■反戦芸術家組織「自由劇団(FTA)」の一員として来日。法務省羽田入管事務所は“反戦ショー”を行う可能性が強いとしていったん入国を拒否したが、当時米占領下の沖縄に出国するまでの3日間に限り許可を与えた。


FTAの一行は、1971年12月7日、フィリピンから羽田に着いた。

しかし、日本政府は、当初彼らの入国を許さず、48時間の仮上陸許可は出したものの、その間、東京にとどめた。

強制送還もあり得るという状況で、彼らは非常にいら立った。


30年後、ドナルド・サザーランドは、ジェーン・フォンダとの別れ話が出たのは、東京に一緒にいたときだ、と語っている。

たぶん、このときではなかろうか。

日本政府には、彼らの仲を割いた責任が、間接的にあるかもしれない。


この時期は、たまたま日米開戦(真珠湾攻撃)30周年に当たっていた。

正式な入国が許された後、ジェーン・フォンダは、東京のホテルの記者会見で、以下のように抗議した。


我々は警告され、脅されました。太平洋戦争30周年のこの時、お前たちがここにいる意味が分からないのか、とでもいうように。我々は平和運動のさなかに、世界で最も平和運動が盛んな国への国境で、入国を拒まれたのです。

We are alarmed and distressed we should find ourselves here on this momentous anniversary, the 30th anniversary of the beginning of the Pacific War, that we should find ourselves on a mission of peace at the borders of the country that has one of the largest peace movements in the world, and that we should be denied entry.

出典:Wikipedia「FTA Show」


FTAの日本公演(1971)

12月10日 福生市民会館(横田基地付近)前座は「頭脳警察」

   11日 横須賀文化会館(横須賀基地付近)

   13日 沖縄(復帰前)

   20日頃 岩国(岩国基地付近)

   22日 三沢市民会館(三沢基地付近)


そんなある日、舞い込んできた情報が「反戦女優ジェーン・フォンダ」の来日公演だった。ジェーン・フォンダといえばアメリカの人気女優(中3のときに『バーバレラ』を観に行ったっけ)だったが、70年頃からベトナム反戦運動の先頭に立ち、ハノイ訪問までしている。彼女は、俳優のドナルド・サザーランド(『M A S H!』で有名になった)と一緒に反戦兵士のためのミュージカル集団「FTA」というのを立ち上げ、その来日公演をべ平連のコーディネイトでやるというのだから、消耗している場合じゃない!
 12月中旬くらいだったが、会場の千駄ヶ谷の東京体育館はすごい熱気で、公演の前座で登場したのが頭脳警察。幻野祭と違って屋内会場なので、曲が一段と身に染みてくるようで酔いしれてしまった。FTAのミュージカルは全部英語なので何を言っているのか分からなかったが、ジェーン・フォンダを間近(先頭のほうの席)で見るなんて夢のようであった。終わってからも楽屋裏で待って握手までした。まったくノーメイクで往年の女優のイメージはなく、まさに活動家だった。考えてみれば頭脳警察もジェーン・フォンダも、紆余曲折はありながら年寄りになってもメッセージを発信しているのは凄いことだ。


11日の横須賀公演では、右翼の米兵が殴り込んできたが、ドナルド・サザーランドが撃退するエピソードがある。

http://www.kamamat.org/a-ken/paper/p-pdf/fujin-kouron/jen002.pdf


<当時のメディアのFTA関連記事>

1971年12月

吉川勇一・「チョーセン!」という言薬(人間として⑧)

山口文憲・FTAってなんだ?(ニューミュージック・マガジン)

田中仁彦・叛軍兵士の正義と銃口――アンリ・マルタン事件と小西誠裁判(現眼)

吉川勇一・話の特集アンケート71出題(話特)

奥野卓爾・ジェーン・フォンダがやってくる――おそらくはシラケ時代のピースサイとして(The Other Magazine)

田川律・ぶっとばせアーミー!――FTA来日(フォークリポート)

三橋一夫・バーバラ・ディーンとジョーン・バエズの間でいろいろ考える(フォークリポート)

鶴見良行・GIを熱狂させるジェーン・フォンダのFTA(サ毎19)

北井桂三・メデイアは運動をつくりうるか・早生児「週刊アンポ」のカルテ(PIC・著者と編集者)

〈グラ〉反戦のためにしか歌わぬブルース・シンガー、バーバラ・ディーン(週文6)

「ジェーン旋風」第1号、歌って踊って反戦のウズ(産11)

反戦女優ジェーン・フォンダの“羽田舞台”の猛烈な演技(週大23)

ジェーン・フォンダはこうして反戦女優に変身――(週平23)

反戦ショーにのりそこなった日本人(週朝24)

野坂昭如・反戦より“圧戦”のよりどころを――ジェーン・フォンダの入国に思う(平パ27)

ジェーン・フォンダ嬢“反戦ごっこ”の影響力(週文27)

J・フォンダ来日劇の裏にかくされたこの重大事実!!(平パ29)

〈グラ〉入国拒否をふっとばした反戦女優ジェーン・フォンダ(平パ27)

〈グラ〉やっばりジェーン・フォンダは旋風を巻き起こした!!(プレイポーイ28)

ジェーン・フォンダ「反戦劇」のすベて(週サ31)

〈グラ〉強烈な「反戦」の素顔を見せて――ジェーン・フォンダ日本の二週間(朝グ31)

単行本・マーク・レーン「人間の崩壊」鈴木主税訳、合同出版



<参考>


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