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【分野別音楽史】#番外編② メディア史

『分野別音楽史』のシリーズです。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)
#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)
#07-2 ヨーロッパ大衆歌謡②シャンソン(フランス)
#08-1 ロックへと繋がるルーツ音楽の系譜(ブルース、カントリー)
#08-2 「ロック史」(1950年代後半~1960年代初頭)
#08-3 「ロック史」(1960年代)
#08-4 「ロック史」(1970年代)
#08-5 「ロック史」(1980年代)
#08-6 「ロック史」(1990年代)
#08-7 「ロック史」(21世紀~)
#09-1 ブラックミュージックのルーツとしてのゴスペルの系譜
#09-2 ドゥーワップ、ソウル、ファンク
#09-3 (コンテンポラリー)R&B の系譜
#10 ジャマイカ音楽とレゲエの歴史
#11-1「ヒップホップ史」(前編)
#11-2「ヒップホップ史」(後編)
#12-1 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(黎明期)
#12-2 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(80年代)
#12-3 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(90年代)
#12-4 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(00年代~10年代前半)
#12-5 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(10年代~現在)
#番外編①-1 楽器史 (前編)
#番外編①-2 楽器史 (後編)

今回は音楽に関わるメディアの歴史になります。あらゆる音楽ジャンルの発生や流行現象は、それを伝達する「メディア」と密接に関わっており、音楽史においてメディア史は切っても切り離せない非常に重要な要素です

にもかかわらず、メディアという要素は通常の音楽史では副次的な要素となってしまっており、音楽ジャンルの出現や音楽史のストーリーは「神的・呪術的な"才能"や、人間の思想や感情、あるいは政治的な社会状況の反映によって、新しい音楽や芸術運動が生まれてきた」というような側面が強調されてすぎてはいないでしょうか。

音というものは目に見えないものであり、音楽リスナーにとっては、音楽が何か神聖で未知なるパワーによるものだと思いたい願望があるかもしれません。

しかし、実際は音楽史や音楽ジャンルがメディアという要素に非常に左右されているといえますので、メディア史を追うことで、音楽史の新たな視点になれば良いなと思います。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉メディア論入門

まずはじめに、学問としての「メディア論」について軽く触れておきたいと思います。

「メディア」といえば情報を発信する媒体のことを指し、一般的には新聞・テレビ・ラジオなどがイメージしやすいと思いますが、これらは、正確には大衆マスを対象とした「マスメディア」の略として使われています。

正しい意味としてのメディア(media)は、英語のミディアム(medium)の複数形です。そう、食べ物や衣服のサイズを現すS・M・LのうちのMのミディアムと同じ意味であり、その意味どおり「真ん中・中間」「媒体」「媒介物」を表します。

つまり、何らかの物事の発信者送り手受信者受け手の真ん中で媒介となる位置のものが広く「メディア」ということであり、メディア学・メディア論では、マスメディアだけでなく、宗教において神の世界と現実世界の中間を媒介して伝える「巫女・シャーマン」や、様々な文化・伝統などを大衆に伝える「博物館」など、人や場所などまでもが、広い意味で「メディア」「中間・媒介物」としてその研究対象になったりしています。

この領域の研究の第一人者として挙げられるのが、マーシャル・マクルーハン(1911~1980)です。マクルーハンの残した有名な言葉として「メディアはメッセージである」というものがあります。これは、メディアが伝える内容・情報よりも、メディア自体が持つ形式や特性それ自体が、人々の認識や情報の受容に大きな影響を与えている、という議論です。

たとえば、新聞記事のレイアウトや、テレビ番組での時間配分や紹介順、表情、テロップデザインなどを決めなければならず、それによって発信者が意図していようがいまいが、構造的にその伝える情報内容に大きな影響が及ぶでしょう。つまり「メディアはメッセージを伝えるだけでなく、メディアそのものの構造が既にメッセージとなっている」ということなのです。これは音楽についても当てはまり、音楽のメッセージは、それを伝える媒体自体によって大きく左右されているといえます。

クラシックの領域を中心とした音楽美学や音楽学では、音楽を芸術作品としてのみ捉え、作曲家や作品自体の分析に終始する傾向がありますが、上記のようなメディア論の考え方を適用することによって、より視野を広げて音楽を捉えることができるのではないでしょうか。



◉音楽における3つの伝承方法の歴史

さて、音楽の伝承方法として、大きく分けると、口承、楽譜、録音の3つが挙げられます。これは音楽学者のフィリップ・タグによる議論において登場する分類です。

口承は、最も古くから存在する音楽の伝承方法であり、古代から中世にかけて、伝統的な民族音楽や宗教音楽など、あらゆる地域や文化によって異なる様々なジャンルの音楽が、口承によって長い時間をかけて伝承されてきました。

楽譜の歴史は、中世ヨーロッパに遡ることができます。中世ヨーロッパの修道院では、典礼で用いる聖歌がネウマ譜というものに記され、書物として保管されていました。これは、歌詞にマークを付けたメモのようなものでしたが、ここから五線譜につながる楽譜の歴史がスタートします。ルネサンス期に入ると、より詳細に音符やリズムが表現されるようになります。加えて活版印刷術なども普及し、クラシック音楽が発展していきました。

口承の「世俗歌」は「正史」にはなっておらず、聖職者、貴族という「エリート階級」の権力によって支えられ、イタリア・フランス・ドイツを中心に発達した紙に書いて設計され残された音楽文化というものがクラシック音楽として発展し、現在の学問的な権威の源流となっているのです。

こうして19世紀になると、いよいよクラシック音楽の全盛期となりますが、1870年代までは音楽の伝達方法としては、口承か楽譜かのどちらかでした。主に楽譜自体が作品として重要視されたのがクラシック音楽であり、それ以外の、主に口承で伝えられる音楽が民俗音楽とされます。

しかし、1870年代に、第3の伝達方法が登場します。「音そのもの」が残されるようになったのです。

アメリカの発明家トーマス・エジソンは1877年、「フォノグラフ」という蓄音機を発明します。当時はまだ電気を使わない「アコースティック録音」であり、振動を直接原盤に伝達して刻み込む録音方式です。ラッパに直接音を吹き込む「ラッパ録音」とも呼ばれ、音質は貧弱でしたが、それでも音楽史上大きな転換点となります。これをきっかけとして、人々の音楽の接し方や「作品」の概念が変わっていくことになり、「ポピュラー音楽」がはっきりと「クラシック」から分化して発展していくことになるのです。

はじめて録音されたのはエジソンの歌う「メリーさんの羊」であるというのは有名です。その後いくつかの録音が行われましたが、1889年にエジソンはブラームスに依頼し、ピアノ演奏を録音します。これが史上初のプロの演奏の録音だとされています。

エジソンのフォノグラフは円筒形でした。それに対し、1887年、ベルリナー円盤型「グラモフォン」を発明します。こちらがレコードの基礎となり、発達していきました。


ちなみにエジソンは、「音」の次に「映像」に関心を向け、動画記録装置の研究を進めました。そして発明を完成させ、1891年に内輪向けに公開します。ヴォードビルやヴァラエティの芸人を読んでは演し物を撮ったり、芝居の一場面、ボクシングの試合、ダンスなどを撮ったりしました。

その後「キネトスコープ」として1893年に一般公開します(シカゴ万国博覧会に出展)。この地点では、映像を見るには箱の中を覗き込む〈のぞき穴〉型だったため、多数に向け上映するということはできませんでした。エジソンはその後、他の発明に関心を移してしまいますが、そのあいだにヨーロッパでは、パリのリュミエール兄弟が1895年にスクリーン投影型の 「シネマトグラフ」の発明を成功させました。一般にこれが映画の起源だとされています。リュミエール兄弟は「工場の出口」など計10本の短編映画を商業公開しました。





◉通信技術史と電気録音盤の誕生

録音技術の発明と、通信技術の発祥は、実は別々のものでした。

1876年、ベル電話機を発明したのが、音を電気信号に変換した初の装置となります。

その後、電線を使用しない「無線」による通信技術を確立したのは、イタリアの発明家、グリエルモ・マルコーニでした。1897年に、ドーバー海峡(イギリス~フランス)を越えた通信を成功させた後、1901年、ついに大西洋をまたいだ通信を成功させ、世界中から喝采を浴びました。マルコーニの通信は、モールス信号を用いた単純な信号だけでしたが、のちのラジオ放送の発展に大きく寄与したのでした。

同時期、エジソンの弟子であったレジナルド・フェッセンデンは1900年、無線通信による初の放送テストに成功します。1906年には、同じくフェッセンデンによって、音楽とともにクリスマスの挨拶を送るラジオ放送を行いました。

1910年代になると、電話の音質向上を試みる過程において、マイクロフォンの強化に繋がっていきます。そして、1920年、アメリカのピッツバーグのKDKA局にて、商業ラジオ放送が正式スタートします。(1922年にはイギリスのBBC局も開局しています。)アメリカではラジオ局が急増し、1924年には約1400ものラジオ局が誕生したともいわれています。

さて、ラジオの登場により、音質が貧弱だったレコード業界は追い込まれてしまいます。この段階までレコードは電気を使わずラッパ型の蓄音機に吹き込む「アコースティック録音」でした。

そこで、ラジオに対抗するため、マイクロフォンを使った電気録音によるレコードの開発を開始する動きになります。そして1925年、ビクター社が電気録音盤を初めて発売しました。

結果「ラジオ放送の宣伝効果によってレコードが売れる」という相乗効果が発生し、“ラジオ”と“レコード”という2つのメディアは、対立関係から協力関係へと変化していき、音楽文化を支える重要な産業となったのでした。

さらに、電気録音盤の開発は映画業界にも影響を与えました。それまでは、無声映画に対して上映現場の生演奏で音楽を付けていたのですが、電気録音盤の登場により、映画のリールと音楽のレコードを同期させる発想がうまれたのです。

このような音声付きの映画作品は、サイレント映画に対して「トーキー映画」と呼ばれ、映画の中の一部でのトーキーや、短編トーキーなどで試行錯誤がなされました。そして1927年世界初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開され、一大センセーションを巻き起こして大成功します。ここからトーキー時代の幕明けとなりました。

この当時、アメリカにおけるポピュラー音楽の製造工場「ティン・パン・アレー」は、ブロードウェイ・ミュージカルやハリウッド映画に向けて音楽を量産し、その中からポップソングが多数ヒットしていました。当時の流行歌では、オペラをルーツとする、コンサートホールで聴衆に聞こえる大きな声が出る発声法が中心でした。

しかし、1925年に登場した電気録音(マイクの使用)によって、歌唱法に変化が出始めます。電気録音の制約 ――マイクやスピーカーの制約―― を逆に活かし、肉声による大声の歌唱とは全く異なる、マイクに向けてささやくように歌う歌唱法が誕生したのです。

この歌唱法をクルーナー唱法と呼びます。クルーナーの人気には、電気録音盤の登場に加えてラジオ放送の普及も大きく関係していました。男性歌手のささやき声が、家で聴取する女性リスナーにとってセクシーに感じられ、アイドル的に歌声が人気となっていたのです。

ここまでは受容のされかたや社会階層、文化的な面などで“クラシック”と“ポピュラー”の相違が生まれていましたが、ここにきてメディアの発達による「歌唱法」の変化が起き、歌声の観点でも「ポップス」と「クラシック」の間に決定的な違いが生まれ始めたのでした。



◉戦後の音響の源流となる戦間期の諸技術

1930年前後、ドイツにて磁気テープレコーダーの開発が進んでいきました。1928年、フリッツ・フロイマーによって原型が発明され、1935年に「マグネトフォン」として実用化されたのです。磁気テープ技術は、戦時中に日本やドイツで発展しました。ヒトラーの演説などのプロパガンダに使用されたり、軍事通信の分野で使用されるようになったのでした。こういった技術が連合国側に流れ込むのは、戦後になってからになります。

また、左右2つのスピーカーを配置し、左右別々の2チャンネルを用いて音を再生する「ステレオ」の技術は、イギリスのレコードレーベル「EMI」が研究をしていました(※ステレオに対し、1チャンネルの音声のことをモノラルといいます)。1931年に、イギリスではコロムビア社とグラモフォン社が合併して「EMI」が誕生していました。そのエンジニア、アラン・ブルムラインが、ステレオレコード技術「45/45方式」を発明し、関連特許を取得したのです。しかし、当時のレコード周辺技術が未発達だったために、広まりませんでした。ステレオ技術の発展も、戦後に進んでいくこととなります。



◉音楽業界の軋轢と産業の再編成

1927年のトーキー映画の誕生以降、映画館でサイレント映画に合わせて生演奏をしていた職業楽器奏者の仕事は激減していました。さらに、1930年代のスウィングジャズのブーム時には、ダンスホールやナイトクラブからの中継放送がはじまり、ラジオ局専属の演奏家の仕事も激減してしまいます。加えて、それまで基本的に生演奏中心だったラジオ放送での音楽が、電気録音レコードの登場によってレコード音源が放送されるようになり、さらに職業演奏家の仕事の激減してしまったのです。さらには大恐慌が重なり、演奏家たちの賃金や待遇が悪化して大きな不満が溜まっていました。

そこで、AFM(American Federation of Musicians = アメリカ音楽家連盟)というミュージシャンの労働組合が、生演奏の仕事を確保するために大手ラジオ局に対してレコード音源の放送をさせないように圧力をかけ、専属オーケストラの設置と生演奏実演の継続を約束させました。半ば強硬手段で承諾させられた大手ラジオ局側は、採算をとるためにバンドの規模を縮小させるようになっていきました。

(AFMが重視していなかったようなローカルの小さなラジオ局では、レコードを用いた自由な放送がなされていました。これがラジオDJの台頭につながっていきます。)

さて、AFMの不満はまだ続いていました。〈レコード録音に参加することでライブ現場の演奏機会が減少する〉 という状態に対して不満を募らせていたため、今度はレコード会社に対して「演奏家のギャラと印税を上げなければレコーディングをボイコットする」と主張をしはじめ、ついに1942〜1944年、AFM会長のジェイムズ・ペトリロによって半ば強引にレコーディング・ストライキが決行されました。これにより、AFMに所属していたミュージシャンはこの期間、レコーディングに参加できなくなってしまいました。

レコード会社は初め、この要求には応じず、未発表の備蓄音源などをリリースすることでつないでいたのですが、長期化するストライキに次第に限界が訪れます。結局、レコーディングの待遇改善の要求は承諾され、1944年に和解されましたが、一連の対立とボイコット期の録音の空白がうまれることになり、音楽の流行に多大な変化を与えてしまいました。大編成のアンサンブル的な流行音楽が衰退し、小コンボ編成の音楽が主流の時代になっていったのです。

さらに音楽業界の抱えていた問題が他にもありました。


20世紀前半のアメリカの中心的な音楽産業を支えていたオペレッタやミュージカルなどの「大衆流行歌の発信源」ティン・パン・アレーは、もともと「楽譜出版社」の集合体としてスタートしており、その著作権管理団体として設立されたのがASCAPです。設立時は楽譜の売り上げが大きな収入源だったのですが、その後のメディアの発達によって人々が楽譜を買わずにラジオを聴くようになり、収益が落ちてしまいました。

そのためASCAPは、1920年代に映画業界からの楽曲使用料の徴収開始し、続いて1930年代はラジオ業界に対しても楽曲使用料の請求を増大させていきました。契約形態は「実際の楽曲の使用数に関わらず局の収入に対して定率の使用料を支払う」というブランケット方式(包括契約)でした。

ASCAPの収入におけるラジオ局の位置付けは非常に大きなものとなっており、巨額の使用料と、ASCAPが演奏使用料を徴収する団体として独占企業である、という事から、ASCAPとラジオ局側とのあいだに大きな摩擦が生まれ始めていました。

1939年、ASCAPはさらなる著作権使用料の大幅引き上げを発表します。それまでの金額の倍以上にもなった極端な要求に対し、放送業界側は大きく反発しました。主要なラジオ局ネットワークすべてが結託し、新たな著作権代行機関が設立されることになります。それが BMI(Broadcast Music, Inc.)です。BMIの登場によってASCAPの独占状態は破られ、音楽利用者に選択肢が提示されることになりました。BMIは、ブランケット式の契約以外に、楽曲ごとのライセンスへの支払いも可能にしていきました。

1940年にASCAPとの契約期間が終了し、更新を迫られたラジオ局は、提示された使用料引き上げを断固拒否し、ASCAP管理下の曲の放送を禁止するボイコットを実行しました。

ラジオ局はボイコット当初、クラシック、民謡など著作権切れの曲を放送していましたが、次第にBMIに登録された楽曲の放送を増やしていきます。BMIでは、ASCAPが管理を避けて無視していたローカルな音楽、ブルース、ヒルビリー、ブラックゴスペル、ラテン音楽、黒人系のジャズなどを積極的に引き受けていました。やがて、ASCAPの大作曲家優遇に不満を持つ若手作家もBMIに楽曲登録するようになります。

こうして、19世紀末以来、常にメインストリームを牽引してきたティン・パン・アレーの楽曲がしばらくの間ラジオから一切流れなくなってしまったのですが、何よりの「問題」は、ASCAP楽曲をボイコットしてもBMI楽曲によって問題なくラジオ放送が継続可能だったことです。

1941年、アメリカでは本格的なテレビ放送が開始され、中産階級の白人ブルジョワ層らのラジオ離れが進みました。こうした文化的な分断が加速する一方で、第二次世界大戦終戦後は放送に対する統制も緩まり、独立系のローカル放送局も多く生まれていきました。「ラジオでの音楽文化」の種類が大幅に変わり、これがブルースやカントリーの発達、そしてその後のロックンロール誕生の土台となったのでした。



◉戦後の技術発展

終戦後、アメリカなど連合国側に磁気録音技術が流れ、高音質・多チャンネルを同期させて録音することが可能になりつつありました。徐々に音楽業界に普及していくことになります。また、クラシックの流れを持つ現代音楽の分野には、テープレコーダーを使って音を切り貼りするミュージック・コンクレートという音楽がフランスに登場しました。

さて、20世紀前半を通じて大衆音楽文化の基盤として役割を果たしていた「レコード」ですが、ここまでのレコード盤はSPレコードと呼ばれ、酸化アルミニウムや硫酸バリウムの粉末を固めた混合物で作られていました。割れやすく、片面に短時間(3~5分)の記録(78rpm = 1分間に78回転)という状態でした。

ところが、ポリ塩化ビニールを用いることにより、耐久性が上がり、長時間で綿密な記録が可能となりました。これがビニール盤、またはヴァイナルと呼ばれ、現在でもレコードを示す言葉となっています。

1948年にLPレコード(33 1/3rpm)が発売。
(こちらが両面の長時間記録の標準となりました。)

1949年にEPレコード(45rpm)が発売。
(シングルレコードとして定着し、ドーナツ盤と呼ばれました。)

SPレコードまででは音声データが1チャンネルだけのモノラルでしたが、LP/EPなどのビニール盤(ヴァイナル)の登場により、左右に2つのスピーカーを置いて音を鳴らすステレオ録音の技術の開発も進んでいきます。

ステレオ録音の規格としてはEMIの「45/45方式」と、デッカの「V-L方式」が争っていましたが、モノラルとの互換性が保たれていることから、「45/45方式」の採用が1950年に決定し、周辺技術の開発が開始していきました。

このように、1950年代は複数チャンネルの録音と再生時の同期の困難さを技術的に克服していく過程であったのと同時に、新たな録音媒体と録音再生装置を市場に売り込む過程でもありました。

ステレオシステムはアンプやスピーカーが2つ必要なため、単純にそれまでの2倍のコストがかかってしまうのです。そのため、様々なデモンストレーションやプロモーションが行われ、徐々にステレオシステムが普及していきました。

1957年にようやくステレオレコードが発売され、ここからしばらくのあいだはモノラル音源とステレオ音源が混在することになります。

1962年には、オランダのフィリップス社によって、テープをカートリッジ化した「コンパクトカセット」が発表されました。これが、現在一般的に知られている「カセットテープ」となりました。




◉多重録音とカウンターカルチャー

1960年代、限られたトラック数の中でさらに音楽に厚みを持たせるため、「ピンポン録音」「ダブルトラッキング」など、録音済みのトラックに重ねて録音するオーバーダビングの手法が発展しました。この分野は、ロサンゼルスのゴールドスター・スタジオでの制作を中心として、音楽プロデューサーのフィル・スペクターが大きな存在感を発揮しました。

フィル・スペクターによるオーバーダビングを繰り返した独自のその重厚な音作りが「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれ、音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えました。特に、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』やビートルズの中期以降の作品など、サイケデリック・ロックというジャンルの発達に影響しています。

LSDの幻覚作用によるサイケデリックなイメージと、当時の社会背景から発生したカウンター・カルチャーに、ロックが結びつくに当たって大きな役割を果たしたのが、60年代の半ばに登場した、4トラックが録音できるMTR(マルチ・トラック・レコーダー)です。その後、8トラック、16トラックと新しいレコーダーが導入されていき、作業効率が上がっていったのですが、この時代に録音技術の実験的な試みがなされたのが、ビートルズ作品なのでした。

ビートルズのプロデューサーを務めて「5人目のビートルズ」とも言われるジョージ・マーティンによって、録音の実験は推し進められ、テープの編集を用いた作品作りが行われました。テープスライス逆回転早回し遅回しフランジング(同じ音を重ねて音をうねらせる)、ADT(Artifical Double Tracking = 1度歌うだけで声がダブリングされて重ねられる技術)などが積極的に採用されたのでした。

このような技術によって得られる、今までに無かった奇妙ともいえる音の出現は、音楽によってサイケデリックな状態を表現するのに最適だったのです。ビートルズは60年代後半、ライブ演奏を前提としない録音上での表現の実験に没頭していくことになったのでした。このように、加工技術が発達し、現実にはありえない音さえ作られるようになると、録音物が「記録」から「作品」へと性質が変貌していき、概念の大きな転換が発生したのでした。

録音の多チャンネル化を可能とした「MTR(マルチトラック・レコーダー)」は、70年代になると24トラックが主流になりました。これによって、多重録音はもはや標準の手法となっていき、厚みのあるサウンドが一般化していきました。



◉ミュージックビデオの歴史とMTV

ここで、ミュージックビデオについても触れていきます。古くは映画館で上映されるニュース映画や宣伝映画に音楽を加えた形式が初期のミュージックビデオとされていますが、特に1960年代において、ビートルズが新曲のリリースのたびにテレビ出演しなければならなかったのを面倒くさがり、演奏シーンとイメージ映像を予め作成してテレビ局へ提供したのがミュージックビデオのはじまりだという説が一般的です。

プロモーション目的の「映像作品」として撮影されたのは、70年代に入ってから、クイーンのボヘミアン・ラプソディが初だと言われています。中盤のオペラ部分ではメンバーが暗闇の中で歌うというミステリアスな世界観が描き出されていて、音楽界に衝撃を与えました。

そして1980年代、マイケル・ジャクソンをはじめとした多くのアーティストがミュージック・ビデオを制作するようになります。その基盤となったのがMTVでした。

MTVとは、1981年8月1日に開局したアメリカのケーブルチャンネルで、24時間ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネルとして誕生したものです。

さてこの当時、イギリスではポストパンク/ニューウェイブの流行が発生しており、そういったイギリスのバンドの楽曲がアメリカに伝播し80年代前半にニューウェイブの派生ジャンルとして「ニューロマンティック」として認知されるようになり、「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と形容されましたが、その流行の一因となったのがMTVでのMVの放映でした。

70年代にイギリスにおいてミュージックビデオは既に重要な商材になっていた一方で、アメリカでは聴衆の断片化やディスコ音楽への反動など、いろいろな事情を抱えていたためにあまり発展していませんでした。

そのため、MTVの開局時にはイギリスのアーティストによる豊富なミュージックビデオを流されることになったのです。バグルス「ラジオ・スターの悲劇」は、アメリカでMTVが最初に放送したビデオで、その楽曲の内容も、映像時代の到来を反映するような象徴的なものとなりました。

さらに、マイケル・ジャクソンはストーリー仕立てのビデオを作成し、ミュージック・ビデオを「映像作品」として発展させました。

MTVの影響力は絶大で、ここから、ヒットのためにミュージックビデオの重要性が高まったのです。マイケル・ジャクソンのビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、さらなるミュージック・ビデオ・ブームを引き起こしました。



◉CDの登場とレコーディングのデジタル化

1982年、CD(コンパクトディスク)が登場しました。ここまで記録メディアとして20世紀を通じてポピュラー音楽を支えていたレコードに取って代わるものとして急速に普及し、1986年にはついに、CDの販売数がLPレコードを追い抜いてしまいました。80年代はデジタルシンセやリズムマシンの登場など、楽器面のデジタル化が進んでいましたが、それだけでなくリスナーの受容段階においても音楽のデジタル化が進んだのでした。

ただ、楽器面など創作段階では80年代初頭にデジタル化が進みましたが、レコーディング面においてはまだ、磁気テープを用いたアナログMTRが主流のままでした。やがて1986年には「DAT(Digital Audio Tape)という規格が定められ、「A/D変換(アナログ⇔デジタル)」を用いて磁気テープにデジタル録音する形のデジタルMTRが一時的に主流となります。

しかし、すぐにパーソナルコンピューターの低価格化やハードディスクの容量増加が進んだことによって、90年代のハードディスクレコーディングの時代へと進んでいくことになります。こうして、20世紀後半を通じて録音分野を支えた「テープ」から「デジタル録音」へと移行が進みます。

1987年、テープレスのレコーディング・システムとして「Sound Designer」「Sound Tools」が登場し、これらを前身として1991年に、プロフェッショナル向けのハードディスク・レコーディングシステムとして「ProTools」が発売されました。ProToolsは現在、音楽制作現場を始め、映画関連や放送局など、音声素材を取り扱う多くの分野において共通するオーディオ・システムとなりました。

さらに、デジタル楽器においてMIDIという演奏情報そのものをプログラミングする「MIDIシーケンスソフト(シーケンサー)」と、音声録音・編集を行う「オーディオ編集ソフト(レコーディングシステム)」が、お互いの機能を取り込む形で統合されていき、現在「DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)と呼ばれるシステムの基礎が完成したのでした。

DAWによるレコーディングと、テープ時代までとの大きな違いは、録音されたものに対して新たなデータを記録追加する過程で、前のデータを消去しない限りデータが背面に残る「非破壊レコーディング方式」への転換です。音楽に限らず、現在のパソコン上でのあらゆるソフトで [戻る] があるのは当たり前のことですが、テープ録音ではありえなかったことであり、これにより利便性が大幅に向上し、音楽制作手法にも多大な影響を及ぼしました。

さらに、ハードウェアの機材ではなくパソコン内にインストールする形のソフトウェア音源(ソフトシンセ)エフェクターなどが、すべてDAWの拡張機能としてインストールする「プラグイン」として統合コントロールされるようになります。

現在まで老舗のプラグインメーカーとして君臨するwaves audioも1992年に設立され、イコライザーリミッターなど、音楽製品として仕上げるミキシング作業に欠かせないプラグイン製品を次々と発売していきました。

特に、音の凹凸を潰して、その分を底上げすることによって、音量の天井が決まっている音声ファイルにおいて聴感上の音量(=音圧)を上げることのできる「マキシマイザー」は、21世紀の音源におけるマスタリングの「音圧競争」の元凶となりました。1994年にwavesから発売された著名なプラグイン「L1 Ultra Maximizer」は、手軽な操作で音圧が簡単に上がることから、音楽制作現場で多用されていったのです。

また、デジタル化のもう一つの弊害として、mp3圧縮の開発など、音質を下げる方向性での模索が始まってしまったことが挙げられます。これまでは周辺技術の発展は常に、音質向上が目指された発展であったはずですが、コンピューターの段階になると、データを扱う上での重さや容量の問題から、人の耳を誤魔化せる範囲で解像度を劣化させるような方向への進化(退化?)が始まってしまったのです。


◉「データ」の時代から「アクセス」の時代へ

20世紀末にレコードに代わって主要な音楽媒体となったCDですが、mp3などパソコン上の「音楽ファイル」の形式の普及によって、すぐに覇権が危ぶまれるようになり、音楽業界は大きな打撃を受けました。CDの売り上げ減少とともに、違法ダウンロードが横行するようになったのです。

CDでは一度に数十曲しか持ち運べませんでしたが、圧縮によるデータ量の減少によって、mp3プレーヤーを使えば何千曲もの音楽を持ち運ぶことができるようになりました。このことで、21世紀に入ってすぐに、人々の音楽の接し方は大きく変化したといえるでしょう。

2001年に登場したiTunesは、音楽をダウンロードするためのオンラインストアでした。iTunesの登場により、音楽ファイルの合法的なダウンロードが可能になり、音楽産業はデジタルファイル時代に対応していきました。

また、2003年に登場したMyspaceは、音楽ファンとアーティストをつなぐSNSのようなものでした。Myspaceは、アーティストが自分たちの音楽をアップロードしてシェアすることができ、多くのアーティストがMyspaceを通じてファンを獲得しました。Myspaceは後に衰退しましたが、音楽産業にソーシャルメディアの重要性を示しました。

このように、00年代は「データ所有の時代」だったといえます。

ところがその後、SpotifyやApple Musicなどといったストリーミングサービスが登場し、もはや聴取者はデータを所有する必要さえ無くなってしまいました。インターネット上の膨大なライブラリに「アクセス」する時代となったのです。

また、2005年に登場したYouTubeにおいても、MVやライブ映像、カバー曲などを発信する場として10年代以降重要度を増し、音楽ファンにとって重要な情報源となって現在に至ります。

2010年代後半~2020年代現在では、Tiktokをはじめとしたショート動画が流行し、突発的なバズによってヒット曲が産まれる時代となっています。


2020年代以降も、新たなメディアや技術がどんどん誕生していくことでしょう。そして、それによって生まれる音楽の形もきっと変化していくことだと思われます。その変化を恐れず、多様な音楽の楽しみ方を乗りこなしていきましょう。

これをもって、「分野別音楽史」シリーズの記事すべての終了としたいと思います。ご拝読いただきありがとうございました。

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