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【分野別音楽史】#12-1 電子音楽やクラブミュージックなどの歴史(黎明期)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)
#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)
#06-3「ジャズ史」(1940~1950年代)
#06-4「ジャズ史」(1960年代)
#06-5「ジャズ史」(1970年代)
#06-6「ジャズ史」(1980年代)
#06-7「ジャズ史」(1990年代)
#06-8「ジャズ史」(21世紀~)
#07-1 ヨーロッパ大衆歌謡➀カンツォーネ(イタリア)
#07-2 ヨーロッパ大衆歌謡②シャンソン(フランス)
#08-1 ロックへと繋がるルーツ音楽の系譜(ブルース、カントリー)
#08-2 「ロック史」(1950年代後半~1960年代初頭)
#08-3 「ロック史」(1960年代)
#08-4 「ロック史」(1970年代)
#08-5 「ロック史」(1980年代)
#08-6 「ロック史」(1990年代)
#08-7 「ロック史」(21世紀~)
#09-1 ブラックミュージックのルーツとしてのゴスペルの系譜
#09-2 ドゥーワップ、ソウル、ファンク
#09-3 (コンテンポラリー)R&B の系譜
#10 ジャマイカ音楽とレゲエの歴史
#11-1「ヒップホップ史」(前編)
#11-2「ヒップホップ史」(後編)

今回は「電子音楽やクラブミュージックなど」と括ってみました。

21世紀に入り、その音楽がバンドによる生演奏なのかシーケンサーなどの打ち込みなのかに関わらず、音楽制作や録音作業がすべてコンピューターを介して為されるようになった現在では、その境界線は非常に曖昧かもしれませんが、今回取り扱いたいジャンルの中心としては主に「ハウスやテクノなど」の周辺を想定しています。

単に「クラブミュージック史」と銘打っても良かったのですが、クラブで鳴らされることに限定しないエレクトロミュージックにも触れようかと思い、「電子音楽や・・・」と題名に付け加えさせていただきました。

そうなると、そもそも「電子音楽」の歴史としてはクラシック音楽からの流れにある「現代音楽」との関わりなども重要になってきますので、そのあたりも意識しながら追っていきたいと思います。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。


◉「電子音楽」の誕生

◆19世紀末~20世紀初頭・電子楽器開発の歴史

エジソンらによる多くの発明が人々の生活を一変させた19世紀末、ラジオやレコードの登場、映画の誕生など、テクノロジーの発展が音楽史へも多大な影響を与えたようすは、ここまでの記事でも確認できたと思います。

電子楽器についても多くの人々が研究・試行錯誤を繰り返してきましたが、その歴史は、戦争による停滞や世代交代などが挟まり、様々な場所で再発明が繰り返されたりしながら発展していきました。電子音楽の発生の歴史を見ていくには、つまり電子楽器の誕生と発展の歴史を追うこととなり、当然それは電子工学のテクノロジーの発展と連動しています。

レコード(蓄音機)が登場した当初は「アコースティック録音」の段階であり、これは電気を使わない装置でした。電気信号が関わる発明は1876年にベルが発明した電話機が最初でしょう。その後、1900年にレジナルド・フェッセンデンによる無線通信の放送実験の成功から、ラジオの登場となります。このようなラジオや電話の音声通信の音質向上を試みる過程で、マイクロフォンの強化につながっていきました。

また20世紀初頭、真空管によって、音声信号の増幅や発振といった機能を電子的に実現していく試みが進められ、単に「電気」という表現が語に付く時代から、「電子」という表現が語に付くいわゆる「エレクトロニクス」への移行となっていきます。

実用化された史上初の電子楽器は、1897年に誕生した「テルハーモニウム(別名ダイナモフォン)」という楽器だと言われています。キーボードのような楽器でした。この段階ではアンプとスピーカーがまだ発明されていなかったため、生成された電子音は、特別な電話受話器を使って音を聴いたといいます。

その後、1918年ごろにソ連の発明家、レオ・テルミンによって発明された「テルミン」が、一般に広く知られた最初の電子楽器となりました。静電気の通っているアンテナの間に手をかざすことで音程を変えて演奏します。

●テルミン博士自身による演奏●

さらに1920年代、オシレーター(発振器)が発明され、それを利用して、トラウトニウムオンドマトルノといった楽器が登場しました。これらが現在ではシンセサイザーの祖先とされていますが、当時あまり実用的なものではなかったようです。



◆戦後 「現代音楽」としての電子音楽

第二次世界大戦の頃を境にして、クラシック音楽史は音楽の概念そのものを問いただす姿勢が求められる「前衛音楽」「現代音楽」の段階に進みました。1945年以降、電子音楽もまた従来の表現を超越する音を実現するものとして前衛的な作曲家に迎えられて作曲されていきました。

電子音楽はポピュラーミュージックではなく、クラシックの潮流にあるアカデミックな実験音楽の分野のもとで発達を始めたのです。

フランスでは、ピエール・シェフェールやピエール・アンリらによって「ミュージック・コンクレート」と呼ばれる音楽が登場。これは、街の中や自然の音などを録音し、テープレコーダーを使って音を切り貼りするというものでした。

自然音を使った録音・編集によるアートである広義の意味合いと区別して、「生成された電子音も用いた音楽」という意味での狭義の「電子音楽」は、ドイツのケルンにある西ドイツ放送のスタジオにて、シュトックハウゼンミヒャエル・ケーニヒらによって作曲されました。

当初は区別されていた「ミュージック・コンクレート」と「(狭義の)電子音楽」ですが、シュトクハウゼンの『少年の歌(1955-56)』によってその線引きが崩され、両者の差は曖昧なものになっていきました。

ともあれ、テルミンの時期以来に停滞していた電子音楽への関心が、「現代音楽」の名のもとに、こうして再び息を吹き返していきました。



◆シンセサイザーの登場

1952年、アメリカのコロンビア大学にて、電子回路を利用して音を電子的に合成シンセサイズするシンセサイザーという装置が生まれます。当時は楽器というよりは実験用の機械でした。

その後、1964年にロバート・モーグ博士が開発したモーグ・シンセサイザーが広く音楽業界にも浸透することとなり、ようやくクラシック系現代音楽以外のポピュラー音楽のジャンルでも電子音が用いられるようになります。

モーグ・シンセサイザーは70年代に入っていよいよ一般に認知されるようになり、つづいてヤマハやオーバーハイムといったメーカーからシンセが発売されていました。初期ではモノフォニック(一度に単音しか発音しない)だったものがポリフォニック(複数の音が発音する)へと発展していきます。

※この地点でのシンセサイザーはまだ、「アナログシンセサイザー」です。一般的にわかりやすい対比としては、「自然/機械」「アコースティック/エレクトリック」という対立軸は思い浮かべられやすいと思いますが、「アナログ/デジタル」についてはそこが境界線ではありません。1970年代に半導体技術が進歩したことにより、「0と1」の数字を用いた計算、コンピューター処理が機械でなされるようになりました。これが「デジタル化」です。それまでの「0と1」ではない、連続的な電気信号が「アナログ」となります。




◉1970年代 クラウトロックから元祖テクノへ

ナチスドイツの台頭した第二次世界大戦を機に、芸術音楽の拠点はドイツからアメリカへと移行していましたが、19世紀につくられた「音楽の国、ドイツ」「芸術音楽の源流はドイツにある」という表象は強化されて受け継がれ、引き続きヨーロッパでもアメリカと連動して前衛表現の探求がなされていました。

そうした中で、テープ編集の手法を用いることに加え、モーグ・シンセサイザーを筆頭とした初期のアナログ・シンセサイザーの発明により、電子音楽の発想はクラシック系現代音楽以外にもポピュラー音楽に普及して、一般化していきました。

このような状況下にあり、1960~70年代のドイツではクラシックの系譜にある芸術・前衛的な電子音楽をポップスへと転化する試みが進められたのでした。

特に西ドイツでは1960年代末から1970年代にかけて、英米の文化や音楽に安易に染まることを良しとしない前衛的・実験的なロックバンド群が発生し、「クラウトロック(ジャーマンロック)」と呼ばれました。(クラウトとはドイツの漬物のことです。)

当時の現代音楽の最新表現だったミニマル・ミュージック的な「反復」や、環境音楽的な混沌とした電子ノイズへの興味がクラウトロックの特徴で、しかしながら初期段階では、編成的に従来のロックの延長線上にあったのでした。

バッハなどの「歴史化したクラシック音楽」との融合ではなく、現在進行形のクラシック的「現代音楽」の発想をロックバンドに持ち込んだ、という説明が一番妥当でしょうか。

アモン・デュールタンジェリン・ドリームグル・グルカンなどがこの時期のクラウトロックの代表的なバンドです。

彼らに続いて、最重要アーティストのクラフトワークが登場します。

1960年代半ば、西ドイツでクラシック音楽の教育を受けていたラルフ・ヒュッターフローリアン・シュナイダーが音楽院の即興音楽クラスで出会い、ノイズミュージックへの関心を持ったジャム・プロジェクトを経て、1970年にクラフトワークが結成されたのでした。クラフトワークと親交関係にあるノイ!(NEU!)というバンドもこの系譜にあたります。

初期のクラフトワークは同時期のクラウトロックと同じく、ノイズ音楽・環境音楽・即興・実験的な作品を残していました。しかしその後、1974年の4枚目のアルバム『アウトバーン』と同名のシングル曲において、大きな成果をあげ、英米で大ヒットすることになりました。

それまではシンセサイザーというものは観念・瞑想的な効果に使用されたり、楽曲の添え物として使用されていたのが、あくまでもシンセそれ自体を主体としたサウンドで、実験的でありながらそれをポップ・ミュージックの分野に昇華するということを成し遂げてしまったのです。

これ以降クラフトワークの音楽は「ミュージック・コンクレートやミニマルミュージック」と「ファンキーなリズムやポップ・ミュージック」とのミックス、という方向性で活動を続け、世界的に成功して非常に多くのミュージシャンたちに多大な影響を与えたのでした。「元祖・テクノ」として現在のエレクトロミュージックの源流にも位置づけられています。




◉ディスコ排斥とシカゴハウス(ガラージュ)

◆ディスコが爆破された日

一方そのころ、70年代後半のアメリカではディスコミュージックが隆盛を誇っていました。

ディスコとはもともと、レコードに合わせて客がダンスを踊る娯楽場を意味していて、そこでは60年代からソウル・ミュージックファンクがかけられ、70年代前半にはフィリー・ソウルもブームになっていました。そこからさらに、客をより気持ちよく踊らせるため、心臓の鼓動に合わせたようなテンポの曲が増え、ドラムのビートパターンとして4つ打ちのキックが用いられたのです。このような音楽が新しいダンス・ミュージックとして急速に広まっていったのでした。

ドナ・サマービージーズテイスト・オブ・ハニークール&ザ・ギャングマイケル・ゼーガー・バンドヴィレッジ・ピープルシックシスター・スレッジビーチズ&ハーブ、アース・ウィンド&ファイアーらが75~79年にかけて多数のヒットを飛ばし、空前のディスコブームとなったのです。

しかし、踊らせるための音楽であったディスコは、ソウルやファンクなどに比べても軽く見られる傾向が強く、往年のロックファンや音楽評論家からは「商業主義だ」という批判が容赦なく浴びせられてしまっていました。

快進撃を続ける黒人音楽によってロックが追いやられてしまうことを危惧した白人達による差別感情や、さらに、ディスコ人気は同性愛者やゲイ・クラブでの人気にも支えられたという文化的関連があったために、それに対する差別感情も高まっていたのでした。

1979年7月、シカゴの野球場にて、悪名高い事件「ディスコ・デモリッション・ナイト」が起こってしまいます。

反・ディスコ活動をしていたラジオDJのスティーブ・ダールは、シカゴ・ホワイトソックスの球団に企画を持ち掛けました。それは、ホワイトソックス球場での野球の試合に、要らなくなったディスコのレコードを持ってくると格安で入場できるというものでした。

当日、球場は想定以上の観客とレコードで溢れかえっていました。そして、1試合目と2試合目の間に、集めたレコードを爆破してしまったのです。

「DISCO SUCKS!(ディスコはクソだ)」というキャッチフレーズの書かれた横断幕が連なり、会場は熱狂。興奮した群衆は設備の破壊などの暴動を起こし、その後の野球の試合も中止になってしまいました。ベースは盗まれ、バッティングゲージは破壊され、爆破された芝生には穴が開き、グラウンドは悲惨な状況となりました。持ち込まれて爆破されたレコードはディスコミュージックだけでなく、もともと黒人やヒスパニックなどのマイノリティが集まる娯楽場やゲイクラブで流されていたソウルやファンクなどの黒人音楽のレコードも多く含まれており、差別的な側面が色濃く出てしまった形になりました。

さらに、このイベントはテレビ放映されており、全米中に「反同性愛、反黒人」の考えを広める悪名高いイベントとして歴史に残ることとなってしまいました。ブラックミュージックの商業的成功に対して白人たちが募らせていた不満が爆発し、ディスコミュージックは大打撃を被った形となったのです。

こうして、白人社会を中心とした大衆にとっては、一時のディスコブームが終焉し、マイノリティに対する差別感情や、ダンスミュージックがかけられるディスコやゲイクラブへの嫌悪感が強まることになってしまいました。

しかし、そういった逆境への反動として、この最悪のムーブメントが起こったシカゴという街から、ディスコが引き継がれた新しい音楽文化が反撃を開始していくのです。


◆シカゴハウス(ガラージュ)の発生

1977年にニューヨークに「パラダイス・ガレージ」というディスコがオープンしていました。客層は主にゲイの黒人であり、そこでは伝説的なDJ、ラリー・レヴァンがプレイしていました。ラリーは幅広い音楽の知識を元にディスコ、ロック、ラテン音楽、ソウル、ファンク、などありとあらゆる音楽を掛けて一晩中客を踊らせており、その熱狂のようすは宗教儀式のようであったと言われています。

そのラリー・レヴァンの友人であり、自らも有能なDJであったフランキー・ナックルズは、同じく1977年にシカゴに新しくオープンした「ウェアハウス」というナイトクラブに主力DJとして招かれます。独特のミックス手法を用いた彼のDJスタイルが高い人気を博したため、地元のレコード店がそのミックスを「ウェアハウス・ミュージック」と称して販売し始めたのでした。これが「ハウス・ミュージック」という語の始まりだと言われています。

ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズらは、ジャンルを超えた様々な曲を掛けていたのですが、彼らが好みそうなスタイルの曲群、パラダイス・ガレージやウェアハウスでプレイされた曲群が「ガラージュ」と呼ばれ、今では初期のハウスの1スタイルとされています。

このような音楽がこのあと80年代のシカゴで勢いを持つようになり、最悪の「ディスコ・デモリッション・ナイト(ディスコが死んだ夜)」からわずか数年で、シカゴは「ディスコをハウス・ミュージックとして蘇らせた街」となるのです。フランキー・ナックルズはこれを「ディスコの復讐」と呼び、やがてハウス・ミュージックは世界中を席巻することとなるのです。


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