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『蝦蟇心中』


『蝦蟇心中』



日没前、モノリスみたいなタワーマンションの谷間にある路地を歩いていると、二匹の蝦蟇が交尾していた。どちらも体長が十センチほどであり、頭部は幅広く、暗褐色の胴はずんぐり型で太く肥えている。また、身体には黒の帯模様や斑点があり、ゴツゴツしたイボ状に突起した胴の皮膚が分厚かった。


おいおい、こんな路上のど真ん中で何をやってんだよ、バカヤロー。ずいぶんと大胆不敵な蝦蟇じゃないか。あー、いい気持ち、じゃないんだよ。恥知らずの色情狂め。せめて、路肩まで我慢しなさい!


そう思った私は地面にしゃがみ、生唾を飲みこみながら、交尾中の二匹の蝦蟇をまじまじと観察した。
蝦蟇は上に乗った方が身体をしきりにヒクヒクさせているが、下の蝦蟇は死んだように動かない。
おそらく、上がオスで下がメスなのだろう。オスがメスの腋の下を抱く形をとっており、ぴたりと密着していた。私は蝦蟇に好奇心を持っていた。
そして、蝦蟇の交尾を見届けようと思った。

すると、後方から売れないラッパーみたいな雰囲気の男二人が如何にもだるそうに大股で歩いてきた。
二人とも似たような黒のキャップを被っており、ひとりは腕に梵字のタトゥーのある縄文顔、もうひとりはニキビ面の金平糖みたいな顔の男だった。


「しばらく通っていたソープランドにお気に入りの女の子がいてさー。ことにゃんっていうんだけど、アイドルみたいにすげーかわいいの。でも、ある日、いつものように店へ行ったら、ことにゃんが急に店を辞めたみたいで、いなくなっちゃっててさ…」
「ことにゃんは地元にでも帰ったんじゃねーの?」
「ああ。どうやらそうみたいなんだ。噂では今は仙台の店で働いているらしいんだけど、オレ、どうしてもことにゃんにもう一度会いたいんだよね。だから、探偵に依頼して、ことにゃんの行方を探してもらっているところなんだ。見つけたら会いにいく」
「ヤバイね。純愛だね」

と言う彼らのサイコパスな会話が聞こえてきた。
この路地はひと気がなくて静かだから、彼らの声が否が応でも響いてくるのである。金平糖はことにゃんへの想いを梵字のタトゥーに熱く語っており、もし、ことにゃんの居場所が見つかったら、自分も仙台へ引越すつもりなのだと言う。彼らは道路にしゃがんでいる私に目もくれずに通りすぎていった。二匹の蝦蟇の存在にも気づいていなかった。

日没後、周囲が薄暗い中、依然として二匹の蝦蟇は交尾をしており、どちらの蝦蟇も小さな黒い目が活き活きと濡れていた。それが街燈の明かりで黒曜石のようにキラキラと輝いていて、美しかった。
私は生命の神秘を感じて、感嘆をもらした。

そのとき、前方から一台の高級車がやってきた。
ヘッドライトが眩しい。私が顔をしかめたとき、高級車は私の目の前で交尾している蝦蟇を造作なく踏みつけていった。ぐちょお、という嫌な音がして、その後には轢死した蝦蟇の死骸がのびていた。高級車はそのままタワーマンションの地下駐車場へスムーズに入っていく。蝦蟇の最期は呆気なかった。
私は呆然として、その場に立ち尽くしていた。


ああ、蝦蟇が逝っちまった。しかも、交尾中になんてことだ。ある意味、人生最高の瞬間に人生最悪の出来事が起きちまった。これは何の因果だろう。
蝦蟇からしたら口惜しくて堪らないじゃないか。
あの高級車に乗っているヤツは誰だか知らないが、
死んだら地獄に堕ちて、鬼から沸騰した赤銅を目に注がれ、鋭い鋸で手足を切られ、釜茹でにされるべきである。そのとき、交尾中の蝦蟇を車で踏んで殺したということを鬼からそっと耳打ちされるのだ。

そんなことを考えながら、悄然と空を見上げた。
両側に林立するタワーマンションの間から見える四角い空は濃い藍色になっており、草刈り鎌のような鋭い三日月が浮かんでいた。乱視ぎみの私の目には、三日月の輪郭が少しぶれて見えていた。
また、頭上のどこかから、家族の高らかな笑い声、少女が駄駄をこねる金切り声、流れるような三味線の音、新しい学校のリーダーズが遠く小さく聴こえてくる。タワーマンションの低層階の部屋の開いた窓などから漏れ聞こえてくるのだろう。

死んだ蝦蟇は、地面で離れ離れになっていた。
一匹は私の目の前でひっくり返り、もう一匹は車に引きずられたせいで、少し離れたところでぐったり横たわっている。私は愕然として声が出なかった。
数分前まで、あんなに熱心に交尾をしていた二匹の蝦蟇の命が唐突に途絶え、その魂が今はこの世の中に存在しない。また、蝦蟇はこれから生み出そうとしていた子孫もろとも完全に消滅してしまった。
そんな悲しい出来事を目の当たりにしたのである。
死骸は無惨だった。ひっくり返っている方がメスで、ぐったり横たわっている方なオスなのか。あるいは、その逆なのか。どちらがどちらなのかの見分けがつかないが、私の目の前でひっくり返っている方は、生白い腹を見せ、口をあんぐりと開け、がっしりしている四肢を力なく伸び切らせていた。

陰鬱な気分になっていると、タワーマンションのエントランスから二十半ばくらいのカップルが出てきた。男は丸焦げの魚串みたいな顔のなよなよした男であり、女は偽物の赤べこみたいな顔の妙にスタイルのいい女である。女は無数のラインストーンクロスを散りばめた黒のパーカーを着ており、ペイズリー柄のブルゾンを着ている男の二の腕を掴んで、

「ねぇ、ねぇ、カイくん。わたしたち付き合ってもうすぐ一年だよ。思えば、三月にわたしが初めてカイくんのことをお店で見かけて、次の三月に初めてまともに会話をして、次の三月にわたしたちは付き合ったんだよ。わたしたちはなぜだか三月に縁があるんだよ。不思議だよね。なんでなんだろうねぇ?わたしはずっとマリカにカイくんがかっこいいって話してたの。そしたら、まさか本当にカイくんと付き合うことになるなんてさ。初デートの遊園地のとき、わたしたちはジェットコースターに乗ったじゃない。あのとき、二人で手を繋いで、ドキドキして待っていたあの瞬間がわたしは忘れられない…」

なんてことを熱っぽく語っているが、男は虚ろな目であくびをしながら、「へえー。そうなんだぁ」とか言って、まるで他人事のように冷淡だった。
しかも、女の話をまともに聞こうとせずにスマホばかり見ており、「天然温泉でヒノキの内湯に入りたいな…」などとわけのわからぬことを言っている。私には彼らの恋愛の終わりがはっきりと見えた。


私は彼らが蝦蟇の死骸に気づくだろうかと思った。また、気づいたら、彼らはどんな反応をして驚くのだろうかなどと想像した。周囲は薄暗いが、街燈の明かりがあるので、気づかないわけがない。
蝦蟇の死骸に気づいた男は、「いやーん、きもちわるいよ、ママー」などと気色の悪い声を出しながら狼狽し、スマホを地面に落として画面がバキバキに割れる。そして、嘔吐を催して、口から線虫みたいな汚い唾をだらだらと垂れ流しながら彼女の前でのたうち回って、ぶざまな醜態をさらしまくるのだ。
多分、百年の恋も一時に冷めるだろう。お前みたいな蒙古斑の取れない青坊主のような男に彼女がいるということを当たり前だと思って生きるなよ。

私はそう思いながら、彼らのことを見ていると、私の意に反して、彼らは蝦蟇の死骸を平然と通り過ぎていった。拍子抜けした。何だか自分が間抜けみたいに思えた。もしかして、あの蝦蟇は私にしか見えていないのだろうかなどと奇妙なことも考えた。


恐る恐る蝦蟇に近づいた。すると、確かに二匹の蝦蟇は地面で離れ離れで死んでおり、どちらも突出した目玉の瞳孔が開いている。その暗い目が、心なしか、私のことを憐れんでいるように感じられた。
私は怖くなった。お前はまだ生きるのかとでも蝦蟇に言われているような気がして、ぞっとした。
また、少し離れたところで横たわっている蝦蟇は、左に後ろ肢だけが不自然にまっすぐぴんと伸びていて、身体が潰れていた。その真ん中から分厚い皮膚がぱっくり割れていて、そこから赤黒い血がアスファルトに垂れ流れている。しかも、皮膚の破れ目から、柘榴色のグロテスクな臓器が飛び出していた。
私は気分が悪くなった。胃袋がグルグルという不快な音を立て、胸がむかむかし、呼吸が苦しくなる。途端に吐き気を催した。咄嗟に手のひらで口を抑えたが、指の隙間からねばねばした唾が溢れてきて、糸を引いて地面に滴り落ちた。烈しい動悸がするので、私はその場から逃げるように立ち去った。

路地の突き当たりはT字路になっていて、そこには質屋の看板が立っていた。ケバケバしいショッキングピンクの看板照明には、「←手前信号左折。太田質屋。ダイヤモンド、金、プラチナなどの宝飾品。無料査定。お預かり・買取りします」と書いてある。その看板の前で立ち止まったとき、誰かに肩を触れられたような気がしたので、ゆっくりと振り返ると、私が歩いてきた薄暗い路地は人が誰もおらず、廃道のようなうらさびしさが漂っていた。そして、路地の中途に転がっている二つの蝦蟇の死骸が犬の糞のように寂然と見えて、わびしかった。


あの蝦蟇は、死ぬことがわかっていて、故意にあそこで交尾をしていたのだろうか。あるいは、不意な事故死だったのか。私はそれを考えていたが、何となく前者であるような気がしてならなかった。死んだ蝦蟇の目が、私をそういう気持ちに誘ったのだ。
死ぬことはつらいことである。しかし、生きることもつらいことである。あの蝦蟇は死んで、私はこうして生きている。それが不思議なことのように思えた。夜空を見上げると、タワーマンションの屋上付近にある航空障害灯が真っ赤に明滅していた。乱視ぎみの私の目には、それが少しぶれて見えた。



          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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