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随筆(2020/10/27):「共感と問題解決」というモデルは、「存在と真理」というモデルに、さらに単純化できる(3)

3.「存在と真理」というモデル(今回は実践面にのみ話を限定します)

3.1.真理の、実践面での、ガチな話。そして、真理を欠いた(あるいは、安全のために、意図的に欠かせた)絵空事の話

おそろしく大雑把な話をしますが、抽象的なものや具体的なものをひっくるめて、あるもの、「存在」一般という、果てしなく広い世界がある訳です。

その中のごく一部に、「これは常に成り立つ」「これを満たさないと、ある分野は、丸ごとバッサリと成立しなくなる」という条件のようなものがあります。これを「真理」とします。

ジャンルによっては「真理」というものをこのように捉えるし、私もこのコラムの中ではそれを採用します。という意味です)

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今回は、真理の、実践面での話をします。

何かというと、「これがなければ分野が根こそぎ成り立たない」真理というのがあり、これを押さえていないと、何やっても何も出来ない。

逆に、現実に何かをもたらしたく「ない」なら、実現手段としての真理を、意図的に外す。ということで、それを現実的には一貫して安全な絵空事に出来る。という話です。

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抽象的な存在には、実現手段としての真理「抜いてある」非実在仮想的架空絵空事と、実現目指しているため、真理「背骨にガチガチに埋めてある」計画的企画とがある。

前者後者は基本的には区別され、実現の話だけ考えると、前者無害だが無益である(実現できないんだから)。

後者有益たりうるだが有害でもありうる(実現できちゃうんだから)。そういう性質のものです。

出資者としても、前者の話は何一つ聞く値打ちがないが、後者はひょっとしたらコストを負担してでもリソースを割いて、リターンに一口乗ると、現実にお得かも知れない。そう思わせるだけの旨味がある。

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これは、逆に考えると、フィクション有難みの話でもあります。

絵空事は、具体的に存在しなくても全然問題ないし、そもそも具体的に存在しえない。

具体的に存在しない場合は、ある意味どう扱っても迷惑はない。安全だ。と、そういう訳です。

3.2.人間の脳は、抽象的な存在を具体的に存在させることが出来る。が、架空のものを具体的に存在させることは、いかな人間の脳でも、出来ないようになっている。やるなら約束事でやるしかない

とはいえ、もちろん、人間の脳は、抽象的な存在具体的に存在させることができる仕組み、ある種の想像力があるので、そう単純に安全とも言い切れないところがあります。

人間の脳は面白く、具体的なものの中に埋まっている抽象的な法則抽出し、その法則に類似した法則連想し(説明しませんが、類似性というのは、抽象的な法則の間に、さらに抽象的な上位法則を見出し、その別の例を考え、それらに共通点があると感じる。という、実はかなり高度な抽象概念です)、組み合わせて、新しい何かを作ることが出来ます。

それが真理を有していて、しかも出来事として実現可能であれば、それは企画と呼んで差し支えない。

真理含んでいない場合、あるいはもっと即物的に、実現不能であれば、それはフィクションと呼ばれる。

企画力空想力は、同じ想像力の、結果面での区別だ。

(これらの企画・空想・想像の機能は、動物でも持っているかも知れないが、人間の場合は実践面でバチバチに効いています。そこはもう、見るからに顕著な、人間の特徴の一つでしょう)

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上でも言ったように、ある種の条件を欠く限り、抽象的な架空の絵空事は、何をどうやっても、具体的に実現できません。

そうした場合、それは絵空事に留まります。

そういう絵空事は、人間の脳以外には効かない。

もっと言うと実践上の影響なり効果なりが「ない」。

やるための手段を欠くのだから、やれる訳がない。

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「じゃあ法律やお金は何なんだ」

そういう質問、当然出て来る。

これらは、何人かがそのフィクションを受け入れて、

ふつうに考えたら、そんな都合の良いものはないんだが、これをそれと同等の機能を持つものとして、都合よく扱おう

という、約束事です。

上で語っているようなふつうのモノやコトの実践とはだいぶ違いますが、こうした約束事、すなわち契約も、ある種の実践と言えなくはない。

法律は石板ではなく、お金も陶器ではない。それは「法律が書いてある石板を、期待される法律と同等に扱うこと」や、「債権債務が書いてある陶器を、期待される借用書と同等に扱うこと」で、初めて成り立っている。

要は、複数人の間で「期待される法律」「期待される借用書」本質であって、石板陶器本質ではない。

3.3.偶然出来たことには再現性がない。これを実現のための手段とはそもそも言うまい

絵空事実現できない。

少なくとも、再現性のある、つまりはやったらやれるし、やめさせられるのも簡単な在り方ではない。

そういう風にはやったりやめさせたり出来ない。

平たく言うと、それがやれようがやれまいが、そんなもんは「偶然」だ。

ふつう、それは、実践とは独立の、つまりは「どうしようもないこと」としか呼べない。

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これに実践ルール課すことで、コントロールしようとする? 独立だから効く訳がないぞ? そのルール、あってもなくても同じだ。同程度の頻度にしかならない。

しかもこれは、効くことを期待して、効くと称してやるおまじないだ。

他人を動員して、労力のコストを吐き出させて行わせるのだ。

実践上問題解決に何も効かないのに、ひと時の頼りない安心をもたらすためだけになされる。という、これは、欺瞞だ。詐欺だ。

そういう時に必要なのは、慰めであって、こんな催眠商法ではない。

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「影響があった」と称するやつは、「手段なしに再現性のある結果をもたらせる」と主張しているに等しい。

そうした主張は、統計を加味した実験を前にした場合、何ら耐えられないだろう。

おそらく、最初考えていたのとは別の、本当の理由が、少しずつ浮かび上がって来るだろう。

じゃあ、本当の理由かどうか、洗わなければならないのは、その「浮かび上がって来た案件」の方だ。

そこにこそ、おそらくは「ある状況を成立させるために不可欠な条件」、すなわち真理があるのだから。

真理をどうこうすれば現実の実践に「効く」し、真理でない類いの絵空事をどうこうしても現実の実践には「効かない」。そういう風にしかならないではないか。

3.4.倫理道徳は実践に関わる限りのものであり、真理を欠く実践不可能な絵空事に関して適用するのは、基本的にはカテゴリーエラーでしかない

長い人類の歴史で、倫理道徳実践に関わる限りでしか効かないことが分かって来た。

だから、「具体化できない抽象的なものの善し悪し」などという話は、美学宗教の水準としてはともかく、倫理道徳という水準では、余所から出張って来てくちばしを突っ込む邪魔な部外者の言い様でしかない訳だ。

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「これをもししたら、どう評されるか」の話は出来る。

ただし、現実と関係に乏しい、疑似問題になる。

「実践の手段が埋まってないから、これはできないのだが、なお、これがもし実現可能だったら、どう評されるかの話も、出来る。

これも疑似問題である。しかも現実との関係間接的であり、関係は極めて乏しいし、場合によっては関係ない。

言えば言うほど、絵空事を現実のごとく吹聴する、混乱した可哀想な人になっていく。

そして、この二つに留まる限り、

「これはやったことであり、どう評されるか」

の話は、出来ないのだ。

「これはやったことであり」?

実践上の何かの結果が残っているのか? ないだろ?

じゃあ、端的に、それを口にしたら、じゃん。

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もし、この件で、あくまで単に人間の脳にのみ影響があるのなら、そういう迷惑は、要するに快不快の話になる。

じゃあ、美学倫理道徳の中間の話、綺麗事クリーンさの話になっちゃうんですよ。

一般にも、やることの評価をする系の倫理道徳と、あるものの評価をする系の倫理道徳(綺麗事やクリーンさ)は、かなり扱いが違うじゃないですか。

たいてい、後者は、改善には、効かない。

改善実践で、やることです。あるものではない。

後者は、結果を評するにはいいが、結果からさらに何かするには、他の倫理的価値観に頑張ってもらうしかない。

まあ、じゃあ、それは寄生的なあり方でしかない。デカイツラなんか出来る訳がないんですよね。

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だいたいこの辺が、「存在と真理」というモデルの、このコラムにおける問題意識です。

(本当はこんな狭い話をしたい訳ではないし、これらは本来はこんなもんじゃないくらい、知的資源の豊富な鉱脈なのだが、このコラムには関係ないので、これ以上の解明はやめておきます。これらの採掘はまた後日行います)

(続く。次回最後のはず)

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