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覇者早稲田に学んだ核融合の神学

令和五年(ニ〇ニ三年)、中国の不動産バブルが弾けようとする現在、外需頼みの日本経済は低迷を続け、絢爛たる欧米文化の衰退に代わって、台頭する躍動するアジアが存在感を示す、宗主国英国を凌ぐ香港、シンガポールは遥か雲の上、経済規模で、勢いのある先端半導体や有機ELで先頭を疾走する韓国や台湾など、新興国に益々追い抜かれ、タイやベトナムなど若年層による労働力を基調とするASEAN諸国にも猛追を許し、世界第二十四位にまで凋落していく斜陽にあるかに見える。

一方で、昭和という時代が終わりを告げる頃、「二十四時間戦えますか?」という栄養ドリンクのCMが一世を風靡した頃、夜騒狂乱したバブル絶頂期には、米国に続くとも、追い抜いたとも言われる、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本がベストセラーとして席巻した。史上空前となる日経平均株価は、三万八千円まで上り詰め、ジャパン・マネーは世界中の不動産を買い漁り、海外から顰蹙を買い、円安の今、海外マネーの日本不動産買収が進む、まさに今と真逆にあった。リバタリアニストに煽られた拝金主義が蔓延る中、日本人は本来備わった、清貧でも心豊かな暮らしを旨としてこそ、その品性に相応しいと私は思う。そんな日本経済が産声を上げて間もない、一般大衆がまだ貧しかった、第二次ベビーブームの真っ只中、ぼくは生まれた。物価上昇を踏まえるにせよ、父の月給は二万円に満たなかった。白黒カメラや白黒テレビがカラー製品になった時代である。茗渓学園を退学して、規格外とも言える紆余曲折の末、掃いて捨てるほどその他大勢に粗略に扱われる、第二次ベビーブーム世代は必然的に「受験戦争」という洗礼を受け、ぼくは駿台全国模試で最上位の成績を独占した。そして甲子園異端児として、早稲田大学に迎えられた。

駒場東邦、早大学院、早大本庄ら騒々たる超進学校が犇く政経枠と共に、ただひとり大学入学資格検定の法枠から、早稲田大学国際部奨学金を獲得し、渡米、経済学を学ぶ機会を得た。この時までは、活気に溢れ眩しく光輝いていた世界が、自分に味方してくれているものだと思い込んでいた。それは受験生の純な志であった利他より、俗に塗れた大学生となって利己が上回り、神仏をさえ触わる祟りか、自己の欲望を抑えきれず、野獣の本能に従ったまま自分の信念を忘却し、小悪魔の女達の囁きに踊らされ、奈落の底に突き落とされたのだった。バブルが弾けるまでは、それを誰もが、バブルは続くものだと思い込んでいたかのように。処世術を身につけるには、あまりにも尻が青かった。アメリカの貿易赤字削減のため、円高ドル安のプラザ合意によって、円高に耐えかねた自動車・電気製品などの輸出企業が海外進出を余儀なくされ、産業の空洞化と円高不況に見舞われた。内需拡大のために、日銀は金融緩和策、低金利を導入し、それにより設備投資だけでなく、土地や株式にも資金が流入、地価、株価共に、異常に高騰し、まさにバブルとなった。しかし当局は、融資限度額の総量規制、金利の引き上げ、地価税の導入を行ったため、狂気と欲望に満ち溢れたバブル経済は、泡と化し誰にも予想外に破綻した。

現実は、昭和のバブル期の耽美な酒池肉林なまでの経験を経ているだけ、天にも昇るような、皇室典範特例法に基づく、今上(平成)天皇の特赦と言ってもいい、令和という元号に時代が変わるまで、裕仁(昭和)天皇の崩御に伴う平成という時代は、病との闘いという意味で、悲惨なまでに運命は、デフレ不況の日本経済と平行するように、辛辣を舐めざるを得ず残酷だった。大学卒業後、石油会社に勤め、会社が精力的に進める原子力事業に、自らの静謐な高校生の平和大使のような、反核思想との間に乖離をきたし、思いもよらぬ不意の病の、原因不明のまま統合失調症という診断名のレッテルを貼られ、精神科に強制入院させられた上に、今も投薬通院している。精神医学とは、治療、治癒のためにあるのではなく、大衆支配のためにある学問だとする説がある。脳科学の解明が近年の成果であることにせよ、社会や学校に適応できないのなら、貴方の脳を変えなさい。社会は変えないで下さいという強制力を神経毒でもって実現しているというのである。私はこの見解説こそ、まさに実行に移し、ニューラル・サイエンス、コグニティブ・サイエンスを統合し、自らの脳を精神薬の投薬で改変し、国家、社会の為に有用な脳を創造することに、あたかもサイボーグになるかの如く、成功してきたと言える。ただ、個人の尊厳より、国家至上主義を優先しているとするなら、戦前の皇国史観と何ら変わらない。与党自由民主党に結託して、多額の政治献金を行う日本医師会の、医学という存在意義は恐ろしい。私は医学という学問に立ち寄らなくて良かったと言える。そればかりか、大隈老候もまた右足を失った。しかし、大隈重信の事蹟を整理してみると、その輝かしい功績に圧倒され、「早稲田愛」に包まれると共に、自分の身を挺して犠牲にしてでも、国家のために尽くすことが、男子の本懐であると悟る境地である。

理不尽な病を患ったとも思えたが、二〇十一年の東日本大震災の福島第一原発事故と、十二年の李明博韓国元大統領の竹島上陸に伴う混乱が、百年前の大正時代の関東大震災と、卑賎民として処遇を受けた朝鮮人大虐殺の近代史の再来かのようにシンクロすることで、在日コリアンらに対するヘイトスピーチに対抗する人権擁護活動に覚醒されたのだった。病状は回復に向かい、万物の根源を探求する、現代素粒子物理学のユニットの収斂が、クォークを構成する核であるように、原爆開発に始まる核科学史の収斂は、冷戦に伴う核兵器の拡散の課題と共に、核の民生化による、オイルショックの石油価格高騰で拍車をかけた、核分裂炉発電所の地球的規模での建設展開から、原発事故によって、放射線崩壊した電子の電離、励起に伴う放射性汚染による様々な弊害の反省をみて、今後我々の人類文明が萎縮するのか、拡張するのか議論のあるところだが、二十一世紀にも、ITER国際核融合炉開発の成功が有望視されていることの理解に人肌脱いだのだった。

ならば言わずもがな、崇高な理想を掲げるべく、南北の資本主義陣営と共産主義陣営の代理戦争となって、南北分断という惨禍と悲劇が、繰り広げられたアジア近代史の中で、卓越した先端半導体などで先行する韓国のサムスン電子単体で、ベトナム経済のGDP三割を占める相互互恵関係にある、祖国統一という歴史において明暗を塗り分けた、字喃という文字が利用された、また訓民正音以前の同じく漢字文化圏であった、ベトナムと朝鮮(韓国)において、統一ベトナムがドイモイ効果によって、経済成長が目覚ましくその繁栄を謳歌していることを踏まえるにせよ、南北ベトナムが、宗主国フランスからの勝利を勝ち取ったインドシナ戦争、誰も打ち破ることのできなかった米国に勝利したベトナム戦争という甚大なる代償を払って統一を果たした結果であるという過ちを繰り返すべきではない。大東亜共栄圏をプロパガンダに掲げ、アジア侵略の深みにハマった旧日本軍国主義が、朝鮮人や中国人らに対する植民地支配において残虐非道行為や連合国に戦争を仕掛けた、同盟国への懲罰として開発された原子爆弾は、不運にも広島、長崎に投下され甚大なる惨禍を蒙った。しかし復興著しい第二次世界大戦後、冷戦の中で、徐々に共産主義や社会主義が淘汰されていく過程で、民主主義の優位が鮮明になった。

民主主義の優位が鮮明になったとは言っても、今日、民主主義の名の下に、個人の自由と権利として行使される、氾濫する広告媒体に煽られた、行き過ぎたまでの大量生産が作り出す快楽主義的消費活動、特に先進国における消費動向は、地球環境それ自体の潜在的生産許容量を遥かに超越する環境危機に直面している。貴重な天然資源であるはずの地球の本来の美しい姿が、あたかもゴミの山と化している厳しい現実に目を背けるべきではない。私たちの「消費の見直し」が急務である。遡ればマハトマ・ガンジーの唱えた地産地消、有機野菜の積極的採用、グリーンガイドラインに沿った倫理的消費などが今こそ求められるであろう。限られた資源を如何に公平に分け合うのか、宗教的、政治的、倫理的模索と共に、真摯に取り組む必要がある。人類文明の飛躍的進歩を遂げた戦後、核の民生化、即ち核融合炉エネルギーの出現こそ、核科学の真の有用性の発見という人類の叡智を、文明の効果的な治癒に用いるためにも、その処方箋を誤ってはいけない。

核融合という新しい平和の文明の炬火でもって、過去に軽水炉の提供なども試みられたが、朝鮮半島の非核化というシナリオこそ、朝鮮戦争という惨禍をも二度と繰り返さないためにも、親米派韓国、親ロ派、親中派北朝鮮という、米ロ対立、米中対立の二重対立の構図を示す主要な国際軍事緊張さえも一掃して解き解す、隣国、二十一世紀における我々の国際社会の生命線である南北朝鮮でも核融合という灯りを灯すことで、朝鮮半島の統一の象徴だけでなく、東アジアはおろか、将来の国際安全保障秩序全体の、真の人民の統合と平和と福祉に資する、文明の繁栄と安寧と幸福が訪れるであろうことに願わずにはいられないのである。

そればかりか、現在、山梨超電導リニア実験線が先行し、二〇四五年(令和二十七年)、日本が世界に誇る卓越した、先端科学技術を結集した、超電導リニア中央新幹線品川大阪間全線開業を足掛かりに、深刻な環境汚染が懸念される時速千キロ余りで航行する旅客機の運用の代替国際公共交通機関として、その約半分で走行する時速約五百キロの超電導リニアモーターカーを、地球環境問題解決の切り札として、超電導リニアモーターカーの地球の大陸上、大洋上に巡らせた世界の大動脈を整備、展開、運用できれば、その消費する大電磁波と、核融合が創出する大電力とのマッチングで、我々の想像を塗り替える大未来文明の大躍進、大躍動が期待できると言えるだろう。そのためにも、今後三十年にわたる、福島原発の基準値以下のトリチウムを含んだ処理水海洋放出は、核分裂炉時代から、核融合炉時代の幕開けの移行期として、水産物の消費促進、農水産物の他国への輸入拡大、補助金の充実などの策を講じて、文明の副作用として立ち向かうしかないだろう。人間は後ろを向くことができても、科学の進歩や、進化は、前に進むことしか知らない。人類は、科学の前進にキャッチアップして、智慧を絞り尽くしてこそ健全な文明の営みを営むことができると言えるだろう。

京都議定書やパリ議定書などが採択され、地球環境問題が、グローバルな課題として俎上に挙がっている。SDGsといった地球上の希少資源を如何に有効に利用するか、私たちは試行錯誤の途上にある。だが、海水中にふんだんにある重水素を用いて、ヘリウムしか排出しない、放射性物質を排出しない究極のクリーンかつグリーンエネルギーの核融合エネルギーを人類が実現しようとしている。今後、無尽蔵に生み出される電力エネルギーを獲得する我々は、IAEA国際原子力機関のもと、新たな核の支配、管理のステージを踏む、試金石を試されることになる。

そうした未来社会の到来に、核科学史を学んだ経験を活かしたい。広く国際社会や国家の、世の中の役に立とうと大医を志した。日本伝燈文化、表千家と池坊の法門を叩き、温かく受け入れられ、二年目を迎えたので、拙著を出版する運びとなった。二十世紀のマンハッタン計画以来、専ら戦術上、防衛力増強のため、抑止力として開発、製造されて世界中に拡散、配備、展開されてきた核兵器が、ウクライナ戦争において、戦争という存在がよりリアル化し、ロシアによって史上初めて「攻撃力のために」、核兵器使用の危機に瀕している未曾有の事態にある。そうした核兵器の存在意義の転換期にある二十一世紀において、二〇二二年、全国の小中学生不登校生は、二十四万四千人余りに上るという。ぼくは小学三年生のとき、初めての転校先で学校の授業中に、お手洗いに行くのが恥ずかしくて、お漏らしをしてしまった。そのことで、友達からは卑猥なあだ名がついたが、教師は何も諭してくれなかった。今だから自分でわかるのだが、僕の名前の信司の信は、歴とした陰陽五行説の五常の仁、義、礼、知、信のうちのひとつの信であり、五行の、木、火、土、金、水のうち、信=土で、信頼、信用の信である。土気は中央を表し、腹部も意味する。本当にわかることを「腑に落ちる」とも言うが、腹は本当の心の奥を指す。腹の底から信頼できることを誠を意味し、信の徳とされる。土気の性質は「稼穡」(かしょく)である。稼穡とは植物の種蒔きと収穫のことである。農業の役割のように、土は種を成長させ、実や根や葉などの収穫物に変化させるので、万物を変化させる作用が土気の性質だとわかる。

ぼくは、この事件に教師から、友達から欺かれ、孤立した幼少期を送った。そんな日本の古典伝燈流儀を理解していない、文部省令下の俗教師の退屈な話に飽々してから四十年の時が過ぎた。今や少子化の時代を迎え、ネットの発達をはじめ、大人も含め子供達の学びの場は、驚くべき程多様化している。そんなぼくと同じように、何らかの事情で、学校というレールから逸脱しているにも関わらず、学問を通じた真理の探究に奮闘している、勇気と希望と情熱溢れる、知性、感性、個性いずれも優れた、これからの甲子園異端児の君に、バトンを託すため、是非、この本を届けようと、今だからにして独白するべく準備を進めてきた。昨日のウクライナは、今日の台湾。今日の台湾は明日の日本だ、と思って読み進めて欲しい。

二十一世紀早稲田文学の文壇に一石を投じようと、待望の恐らくは処女作というよりかは、遺作となるであろう、織田信長の、源平の合戦で討ち死にした敦盛の舞でもあるまいが、自分もまた五十四年生きてきた。ときに統合失調症患者は、神の言葉の伝令者だとも言われる。そんな巫子のような責務から、自らの病の進行の遅々たる解明と、余命の不安から、大半の社会から疎外されつつも、自らの駆け抜けた生涯を世に問おうと思った。最初というよりかは、最後とも言える、終活の意味も込めて、自業自得を反省するべく、自らの写実史を試みようと、この世の諸行無常の無言坂を登ってきた、自ら亡き後も、記憶を絞り出し、自ら懸命に生きた証を記録に残そうと、懺悔録として、金字塔を打ち建てるべく、アラビア石油入社三十年を記念して、渾身で筆を奮った闘魂の自叙伝を、諸兄諸氏の拝読を仰ぎ乞うものである。今更ながらに思うのは、我々が神仏の上に上がっては決していけないし、神仏が我々の上に滞ってもいけないということである。筆が唸るように、筆を奮ったつもりである。読者諸兄に、国立国会図書館の書庫で、深い眠りに就こうとする拙著が、目を覚まし、一抹でもぼくの想いが伝われば、望外の喜びである。自分もこの本を世に送り出し、今上上皇、徳仁(令和)天皇の下、大医となるべく新たな人生の檜舞台に立ちたい。

出版にあたりご声援賜った、何より日本伝燈文化界に、温かく迎え入れて下さった、表千家流茶道の藍原宗華先生と、池坊華道会の須藤千恵先生に改めて敬意を表したい。それと、令和五年五月二十八日、米国午後便での帰省の途に着く当日にも関わらず、出版についてのご教示を伺うのに、貴重なお時間を頂いた、二〇二四年(令和六年)アメリカ大統領選出馬候補のエマニュエル・パストリッチ慶煕大学元副教授、河中葉御夫妻、そして出版に至るまで助言を頂戴するのに、二人三脚で作業を伴走して下さったパレード・ブックス社の下牧氏に心より感謝の意を表したい。また拙著に誤字誤謬があれば、読者諸氏の叱責を乞いたい。

令和五年(二〇二三年)五月二十八日吉日
小林信司 
東京三鷹ルノワールにて、パストリッチ御夫妻と共に



親愛なる明澄、美月、明珠、美涼の健やかな未来を願って




第一部 早稲田大学と私
プロローグ
序 経済のグローバル化と政治の病巣
一 リバタリアニズムを生んだハイエクとは
二 第二次世界大戦後
三 大医とは
四 私の生い立ち

第二部 核融合の神学
五 福島第一原発事故
六 アメリカ大学教壇に立つ
七 世界放蕩の旅と原子力の俯瞰
八 原子力時代の哲学
九 神学に寄せて
エピローグ

プロローグ 遺作「ブラック・レイン」を演じた松田優作の遺志を継いで、自分も日本伝燈文化界、表千家、池坊の法門に弟子入りへ

大学在学中、虹の架け橋となるべく、外交官の道を志して、二十代で渡米し、その後機会があるたびに、三十四ヵ国に渡る海外放蕩旅に出た。三十代でフランス語の恩師エリック・プリユ先生と出会い、厄年の四十代で東日本大震災の福島第一原子力発電所事故を経験するも、ギリシャ文明において、哲学者デモクリトスが名付けた、物質を構成する最小単位であるアトムという核が、悠久の時を経て、原爆開発に始まる核科学史が、冷戦による核兵器拡散の課題と共に、核の民生化に伴う、IAEA国際原子力機関によって核が支配、管理され、太陽という莫大なエネルギーである恒星の働きの再現に他ならない、ITER国際核融合開発の実現に収斂するという理解が働いて、災い転じて福と成した。五十代で「Youは何しに日本へ?」のTV東京の番組がブレイクしたクールジャパンの影響も受けて、日本伝燈文化に開眼した。それは、明治維新の時、財界人や文化人が、旧来の慣習を軽視し、西洋文化を受容するに至って、西洋に渡って西洋文明を学び、その影響を受け、以って逆に、母国の国家、宗教、文化のアイデンティティーの何たるかを自問し、帰国後、旧来秩序を守ってきた武家の嗜みであった日本伝燈文化が見直され、その復興に注力した。茶道では、表千家が三井、三菱、住友、野村、安田、三和といった財閥や、東急電鉄創業者の五島慶太、阪急電鉄創業者の小林一三らを中心に、有産階級の間で茶道文化が広まり、裏千家では跡見女子学園が中心に、女子の花嫁教育にプロモーションをかけ、戦後海外でもその普及に成功した。華道では池坊、嵯峨御流といった伝燈流派と共に、昭和に入ると、勅使河原氏の草月流、小原流、龍生流といった創作華道が世界的に開花した。言ってみれば、ジャポニズム・グローバル・ルネサンスが、現在、その日本古典文化の彩りを謳歌していると言えるだろう。こうした歴史的流れに沿って、表千家の藍原宗華先生、池坊の須藤千恵先生の日本伝燈文化界の法門に、遅ればせながら弟子入りした。自分もまた、世界を理解する涵養として、むしろ、母国の文化の素養を身につけることこそ、真の日本外交の還元になるのだと悟り、還暦に向かいつつある。一服のお抹茶で満たす歓び、一輪ずつ花をいける歓びにこそ、宗教的意義さえ感じられる、その大和魂を見出すべく、令和四年より茶道、華道の道を志した。道という道の立志者として確信を得た私は、以て自己の通史を古今を問わず、洋の東西を問わず、その歴史を通じて自己の所在を明らかにすることで、自伝を整理し上梓することとした。

小林家の先祖代々は、東京都台東区元浅草の菩提寺として佇む、葛飾北斎翁を祀る、都心にしては閑静な、浄土宗瑞亀山弘願院誓教寺に眠る。全国的には小林姓の祖先は、長野県など神主系の祖先が多いとされる。亡き明治生まれの祖父忠太郎は、直系小林家の祖先は華族に仕えていた士族の出身だと、自叙伝に遺している。しかし実態は、激動の明治期に、ほぼ無産階級に近い出身ながら、尋常小学校を卒業するとすぐ大蔵省に入省し、丁稚奉公を経て、旧大藏省(現財務省)図書館の勤務を最後に退官した。祖父は、四谷や中野の官舎などを転々としていたが、昭和四十四年(一九六九年)頃、千葉県船橋市に居を構えた。実父中村と死別して、忠太郎が養父となった、亡き父も国家公務員試験合格を蹴って、日本生命保険相互会社に入社し、生命保険会社員として勤め上げながら、時代物など歴史書を愛読していた。父克巳と、未生流を嗜んでいた母サトエが、社内結婚して二男をもうけた。昭和四十四年(一九六九年)、兵庫県西宮市の代用社宅に住んでいた頃、小林家、馬場家(母方)両家初の嫡男として、ぼくは生命を授かった。その後、東京都練馬区石神井、山梨県甲府市、茨城県土浦市、茨城県稲敷郡阿見町、大阪府枚方市、千葉県松戸市と生命保険会社の営業拠点の異動に伴う転勤を重ね、父も昭和六十三年(一九八八年)千葉県船橋市に居を構えた。私も、また祖父や父に続いて、昭和と平成の日米の学生寮の珍事を経て、半官半民のアラビア石油で、日本興業銀行本店、三菱銀行本店、他都市銀行本店の出納業務を遂行しながら、原子力部門に立ち合うことで、試練にも統合失調症を罹患するも、福島第一原発事故の経験から、地球環境問題における原子力の立ち位置が、専ら科学技術にあるよりかは、我々が民主主義社会、資本主義社会において選択、決定を下すインセンティブ「誘因」に基づく環境エネルギー経済学の手にかかっていることが、令和に入ってからの三菱商事出資TMネットワークス社勤務で蘇ることで判明した。私も、後生を市井の小林家の三代目の歴史家として、拙著に叡智の宝石を散りばめることで、自分もまた亡き後、大学図書館に所蔵される拙著を通じて、主に知識階級として祀られるその家系を営んできた、我が小林家の末永い繁栄と興隆を祈願して、小林家の末裔、研究者や学生、現役高校生の思索と追憶と祈りの中に、永遠の命を宿し続けることで、その先祖から授かった尊い命と矍鑠(かくしゃく)たる通史のバトンリレーを試みることとした。

アメリカを離れて三十年、二〇〇一年ロンドン滞在でグリーン・パークのウォーター・ストーンの本屋に居候していたときの後、日系三世のセツコと巡り逢った。日本を離れた平成元年(一九八九年)、封切りとなったブラック・レインの遺作となった松田優作演じるNYをシマにするサトウの男気にいたく感動し、バイパス甲子園児の自分もサトウに続いて、士族としての出生を現代社会に活かすため、日本伝燈文化界、表千家と池坊の法門に一石を投じてみようと思った。

第一部 早稲田大学と私
序 経済のグローバル化と政治の病巣

闘病生活を経て、禊を済まし、長年に渡り自己の社会投機の効用最大化について何たるか懐疑してきたが、今までの人生のトライアンドエラーの試みが、ソクラテスの問答を経ているのか定かではないが、世界が分断と格差が覆い、その疲弊が著しく、不可解にも経済は、ヒト、モノ、サービスが驚くほどグローバルに流動化しているのに、依然、益々戦争の誘発の危険性の度合いを高揚させる病巣と言える政治にメスを入れてみたい。開明人、言論人、文化人として行動することで、和を尊び、他人と争わない、礼、義を重んじる茶道、華道など日本伝燈文化の普及、継承、発展を図ることで、忠孝や礼節に長けた大和魂を呼び醒すことである。

さらにパストリッチ博士によると、人間には、魂、言語、生理反応の三態があると言う。リバタリアニストが幅を効かす現代社会には、魂の模索が欠けていて、そこには良心の呵責といったものが存在しない。だからこそ、ソウルをフュージョンさせることが求められるのである。パストリッチ夫妻と話していて思ったのは、夢のために働いていた社会が、カネのためだけに働く社会になっているとしたら、未来を背負う子供たちも、夢を絵描くことはできないだろう。夢を生み出さなければいけない社会がカネを生み出すだけの装置になっているとしたら本末転倒だろう。夢が作り出せないカネを生み出すだけの社会とは、不幸であるどころか、狂気の沙汰を生み出す地獄としか言いようがない。

一 リバタリアニズムを生んだハイエクとは リバタリアンとは、政府の肥大化に伴う、人間の尊厳にとって、競争市場や私有財産制の価値の低下によって、権力やイニシアチブが分散されなくなると、個人の自由を守る社会の実現が困難になる、中国、ロシア、グローバル・サウスと呼ばれる、今日の後進国の内実の露呈こそリバタリアンの発祥である。

私の信条として、科学の進歩、人類の進化によって、国際紛争の平和的解決、スマート・エコノミーの普及、生態系の生命の安全、地球環境問題の克服、宇宙開発、宇宙コロニーへの挑戦、これら総合的な課題の解決すべてが、SDGsの達成に繋がると考えている。科学の開花こそ、真理の開眼にほかならないからである。人類の歴史とは、イノベーションの歴史だとも言える。

私の関心は、法、政治と経済の狭間で揺れたことは確かだったが、大学入学当初は、経済より法学、政治の方が高尚だと、単純に勘違いした。いずれにせよ、人為的に生じるものではあるが、法が政府が市民に下す命令、服従であるのに対して、経済は市井の市民が自発的に決定、選択する経済活動である点において、むしろ、社会の洞察を図る上では、我々の社会が共有する民主主義社会の価値の根幹である競争市場と個人の自由を理解する意味で、金融工学、経営工学など細分化され、発展を遂げると共に、経済学の方がより優れていると言えるだろう。法は補充的に経済活動を修正するに過ぎないが、それが夜警国家なのか、福祉国家なのかは、そのバランスが求められる。更には、経済活動の担い手が、人手不足から、人間からAIへと奇襲を仕掛けるかのように押し寄せている現象を踏まえ、統計学やデータサイエンスの理解も深めたい。ぼくもまた、チャットGTPに負けないよう筆を奮いたい。従って法学には、深く立ち入るのは控えることにした。しかし、週刊誌が次々と有名人の暴露が絶えない中、コンプライアンスには気をつけたい。

人類は戦争による破壊と廃墟からの復興の繰り返しで、その繁栄の成長と進化を成し遂げてきた。特に経済規模で言えることは、経済活動が、マニュファクチャー社会を経て産業革命以後拡大し、第二次世界大戦は、総力戦となった。戦争終結後、ハイエク他、経済学者らが、スイスのモントルーに集い、当時のヨーロッパやアメリカの不安材料として危惧したのは、政府の肥大化だった。つまり、人間の尊厳や自由にとって欠かせない文明の根本的な価値の危機とは、私有財産や競争市場の価値の低下によって、権力やイニシアチブが分散されなくなると、個人の自由が効果的に守られる社会の実現が困難になると、戦争を経験した極めて示唆に富んだ、今日の中国、ロシア、グローバル・サウスと呼ばれる後進国などの政治体制の内実を露呈するような蘊蓄で認識が一致をみたことこそリバタリアンの発祥なのである。ハイエクは、著書「隷属への道」の中で、ケインズ経済理論を批判し、アメリカのニュー・ディール政策や、ヨーロッパの社会民主主義に警告を発した。つまり社会保障制度や公的医療といった政策から、ソビエト共産主義や、ドイツ・ナチズムの冷酷な独裁政権までは、ほんの一跨ぎだという。教科書によれば、自由市場の経済分析の評価基準としては、効率性と公平性が挙げられるという。効率性とは、ある限られた資源を最も適切に活用することで、すべての経済主体の満足度(効用)を高くすることである。その判断基準として最も有力な概念がパレート最適である。一方公平性とは、経済全体の成果を、個人間でどのように再配分すべきかを問題とする。ハイエクは、政府主導の政策を拒み、自由市場と個人の自由を支持することが、全体主義の深淵への転落を防ぐ唯一の方策だと西側世界に強く訴えた。ハイエクは、社会主義者の何げない善意が、隷属化や全体主義への道筋をつけてしまうと考えた。ハイエクは、昭和四十九年(一九七四年)にノーベル経済学賞を受賞している。この認識を体現したのが、ベトナム戦争後の統一ベトナムのドイモイの大成功であり、オイル・ショック後の新古典派経済学の潮流であり、世界不況下にある今日の維新の党の大躍進と言える。一方で、この新保守社会の現象にマイケル・サンデルは、行き過ぎた資本主義だとして、公共善の導入を唱え親中的な行動で、警鐘を鳴らしている。我々の政治経済現象は試行錯誤しつつ、スパイラルに行きつ戻りつつしていると言える。肥大化した政府も独裁政権を生み戦争の誘発の度合いを高め危険だが、スリム化した政権も、維新の党といった偏狭な愛国精神を唱える、市民のエゴイズムを剥き出しにさせ、同じように戦争の誘発の度合いを高めている。政府の役割の裁量を吟味する、そのバランスが図らなけれなければいけない。

ケインジアンが主張する有効需要説から捻出される租税によって、公教育、公的医療、その他福祉に、支出する政府の自由市場調整機能だが、アメリカのリバタリアンは、様々な善意さえ自由市場で取引可能だと主張する。今日盛んな企業のサスティナビリティー活動の一環と言えるフィランソロピーのような行為も、今では堂々とクラウド・ファンディングで取引されていることを考えれば、リバタリアンの主張も否定できないだろう。そうは言っても、まずは税金を洗い出し、税金の使途を明瞭にすることが先決だろう。重度の障害者の福祉と共に、共生社会を目指さなければいけないことは言うまでもないだろう。また、累進課税制度が有名る高額所得者を、その租税徴収制により、慈善活動に誘導していることも見過ごせない。ただ融資によって銀行から資金を調達することを主とする、他律性に委ねられていた間接金融の時代から、証券市場において株式の出資によって資金を調達するようになった、自己責任が求められる直接金融の時代において、カネを生み出すことだけしか目的としかならないのような、我々の現代金融資本主義社会は、夢や希望や望みを描くことを排除し、欲望と狂気の格好の吐口と化している危機を認識しなければならない。

二 第二次世界大戦後 総力戦を経た第二次大戦後、絢爛たる文明の進化を遂げた我々は、もはや核戦争の回避に全力で注力しなければならない。

さて、とりわけ核被爆国となった日本は、そうした米ソ冷戦核軍拡の下で、劇的な経済成長を遂げ、前代未聞のデタントのもと、金幣乱舞のバブル現象が出現した。しかし、その先にある世界経済の不況を考えると、米中新冷戦、米ロ対立、米朝核緊張を生じ、もはや核全面戦争の壊滅事態は許されないという、特に総力戦から回復した第二次大戦後の興隆は、その文明の驚異的な復興を遂げ、第二次大戦後の科学文明が、自動車、高速鉄道、旅客機の浸透普及、インターネットの開花、携帯電話の普及による無線電信通信網の発達や、無数の人工衛星の周回でGPSを始めとした宇宙からの情報伝達網の発達、かつて政府が主導していた宇宙開発の、民間の商業市場参入による宇宙開発、宇宙進出、宇宙植民の挑戦などなど、我々人類が棲み処とする地球の大きさが、人間の大きさと比べて、著しく発達を遂げた人類の科学技術の文明に比較すれば、かつてないほど涙の雫程の小さい星であると自覚する(科学の開花は真理の開眼にほかならない)想像力を働かすことが可能になった。

無限に広がる宇宙空間の中で奇跡的に生命を授かった私たちは、ジョン・レノンの「Imagine」の楽曲にあるように、人類の多くが想像力を働かすことが可能であるのなら、もはや核全面戦争を目前にして、戦争の愚かさに気づくことは、それほど難しい話ではないはずだ。昭和三十九年(一九六四年)、日韓基本条約締結、非核三原則、沖縄返還を実現し、ノーベル平和賞を受賞して、共に所謂吉田学校で才角を現した佐藤榮作に任務を引き継いだ、所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長に貢献した池田勇人に続く、広島県出身で且つ、宏池会袖領の令和三年(二〇二一年)より内閣総理大臣である岸田文雄が、惨禍を繰り返さざるべく、国連の場で核不拡散条約NPTにおいて日本の首相として初めて、核なき世界、核兵器廃絶について演説で言及したことでも明らかだ。バラク・オバマ元米大統領が、プラハ演説で触れた、核兵器なき世界という、ファンタジーとも思えた一時的デタントとは異なり、今ウクライナ核危機が直前までリアルに迫り、覇権主義的動きを強める中国の核軍拡、挑発的な北朝鮮の核開発など、かつてなく世界の、日本を取り巻く国際安全保障環境が緊張の増幅する中で、喫緊性の課題をもって、異次元の対応でより現実味を帯びた力強い核廃絶、核軍縮のメッセージの発信が、これから始まるG7広島サミットで各国首脳らに求められることは間違いない。これからは恒常的に、戦争の誘因より文明の繁栄のインセンティブが上回るように、我々有権者の政治が機能するようにコントロールを働かせねばならない。

三 大医とは 下医が病を治すごとく、中医が民を治すごとく、大医は国を治さなければいけない。

二十一世紀に入り四半世紀が過ぎようとするこの未曾有の広く世界の局難、国難にどう対処するべきか案ずることは、少なくとも小医が病を治すが如く、中医が民を治すが如く、大隈重信が云わんとしていた在野の精神とは、早稲田大学出身の輩は、広く国際社会の、日本の難題に取り組む大医という大志を志さなければいけないこと(小品方 陳延之)を肝心に命ずるところである。

人類史は、古代王朝の中央集権化に伴う農業革命、産業革命に端を発する蒸気船による大航海時代の到来、石炭、石油の活用によるグローバル市場の活性化となる工業革命、そしてインターネットの開花や光ファイパー網、量子コンピュータの普及、AI人工知能の発達が進む世界を取り巻く経済、金融を中心としたグローバル化が顕著なサイバー市場の開花となる情報革命、さらに民間宇宙船の商業市場の参入の導入期にある、人類の地球温暖化、環境汚染といった地球環境問題への対応が間に合うのか、それとも、かつて旧世界の英国ピューリタン清教徒らが、新天地を求めて、新大陸アメリカに渡って、新世界を切り拓いたかのように、我々もまたこの地球という旧世界から、未開の新世界である宇宙フロンティア開拓の道の途上にあるのか、人類史に於いて未曾有の危機とも言える、それは新たな宇宙市場の幕開けとなる宇宙革命と、我々の科学と文明の数々の革命のフェーズの上昇を踏んでいることを鑑み、その先の未来文明論を詳らかにしたい。個人的には、茗渓学園の寮東四階のアドバイザー植木さんが、部屋に道元禅師の貼り紙をしていたことを記憶している。まさに道「未知」「三千(年)」を求めていることこそ、茗渓学園の京都の修学旅行で、大原三千院を訪ねていることで、後生の私の人生において具現化しようとしているのかもしれない。

四 私の生い立ち 神の手にかかる聖書の天地創造の創世記が、科学の手で核を再現し、原爆開発に始まる核科学史が、IAEA国際原子力機関によって核が支配、管理され、ITER国際核融合開発に収斂することで、人類は核の新たなステージを踏み、ホモ・サピエンスから神人類ホモ・デウスへと進化を遂げる試金石が試されている。

明治十五年(一八八二年)、現筑波大学の前身である東京教育大学、東京高等師範学校の同窓会として発足した茗渓会は、その後、日本の教育界の大本山として機能し、創立百周年事業に、昭和五十四年(一九七九年)、ジェントルマンを育成するべく、校技に当時としては斬新なイングランド発祥のラグビーを導入して、英国のボーディング・スクールを模倣した茗渓学園が開校。私は日本生命保険相互会社に勤務する父の度重なる転勤の都合上、過疎地に居住していたため、唯一の中学受験の受け皿となる第三期生として昭和五十六年(一九八一年)入学。私が典型的な中流階級から垣間見た、茗渓学園という言わば、揃いも揃ったブルジョワ階級が集結した実験教育の中で、また、古き良きアメリカの、休みになると親御さんがキャデラックで送迎に来る、ミッド・ウエストの富裕層のリベラル・アーツ・カレッジの双方で、貴重な経験を積んでいると言える。というのも、この拙著は、同級生の柴田君が見せてくれた原爆絵による思春期の不安定な心情の精神に、拍車をかけた狼狽と衝撃と、米国留学先で、シカゴ学派を輩出してきたシカゴ大学出身の教授の同じ講義で机を並べた、一学年先輩の慶應大学の加藤健一郎さんの、噂に聞いていた筆まめを見習おうとした、昭和と平成の日米の学生寮での珍事が発端になっているからである。このことが私にとって、後に述べる不条理な運命なのか、大躍進の人生なのかは、時の経過を経て判明することだろう。

いや自分は、大西忠治先生のもと、血気盛んな高校生の平和大使のように、学校で核兵器廃絶運動を展開したのが、全ての始まりだった。しかし、ジェームズ・ディーンの筆箱を持っていた同級生の少女に好意を寄せた自分は、失恋を経験した。エデンの園から追放され、在日大使館への英文文書流出を経て、原罪を背負うことになる。未曾有のチェルノブイリ原発事故と、あれから二十一世紀を迎え、福島第一原発事故を経ることになった。地球環境の効率利用が、大々的に唱えられるSDGsの時代に、つまりパラドックスだが、核を忌避するのではなく、聖書の創世記に書かれる神の手によって作り出された天地創造が、科学の手によって核を再現していることによって、その台本、著作権を得た人類は、核融合エネルギーの出現で、無尽蔵に電力を供給することが可能となった。人類は核の支配、管理という試金石を試される、核科学技術の新たなステージを踏む。人類の核の支配、管理こそ、国際平和の要に他ならない。ホモ・サピエンスから、ホモ・デウス神人類に進化する意味で、不条理ながらも大躍進だと理解が働くのだ。

大西忠治先生が国語の授業で朗読していた、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンの姿は、イエス・キリストが降臨したかの如く、昭和の時代に抹消された自分が、令和の時代に復活を遂げようとしているかの如く、自分の姿とうりふたつで重なり合うのである。事実は小説より奇なりである。

帰国子女が集う革新的な寮生活校風生活の影響を受け、虹の架け橋となるべく、外交官としての職業に興味を示し、三井財閥系銀行員から、ジョージタウン大学大学院を経て、国際公務員として、ワシントンD・Cに本部を構える世界銀行に進み、外務省駐バーレーン日本国大使館書記官としても活躍した吉永慶太、欧米での滞在経験を活かし、帰国子女生として、UWCから京都大学、及び慶應大学法科大学院に進んだ高野厚らと親交を深め、私は早稲田大学国際部のアメリカ交換留学を経て、サウジアラビア王国政府、クウェート政府資本のアラビア石油勤務を経験する。当時としては珍しいパーソナル・コンピュータが学校に導入され、ベーシックという原始的なプログラミング言語を認知する。政治や異性との恋愛に傾倒するが、破綻して退学。

私は、ひとりの少女との唯一の失恋のために、毎晩のように、大海原の涙が滝のように涙が溢れ、その失恋が癒えるまでには、朱冬梅との運命的な逢瀬を待つより他なかった。しかしそこで芽生えたささやかな恋文の交換は、今日の著作物として脈々と続き電光石火の如く結実し、復活を遂げ、救済が行われた。それは、中一の国語の担任である大西忠治先生による国語力と、寮東四階ハウス・マスター中村恒三先生が見守ってくださった社会科力の賜物だろうか。あれから四十年、母校早稲田大学の大先輩、村上春樹がノーベル文学賞にノミネートされていることに人間万事塞翁が馬、村上が世界中から極めて広範な支持を集めているのとは対照的に、孤軍奮闘している自分もまた、この現世に生を授かった運命こそ、使命なのだと確信が生まれ、友華先生、千恵先生とのご縁を結び、仏様が悟りを得た如く、自分もまた悟りを開いた。

翻って、昭和六十一年(一九八六年)、鄧小平が率いる、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想のもと、四つの近代化を唱える改革解放路線初頭期の、中国大陸を単身流浪、風光明媚な蘇州夜曲で知られる蘇州の朱冬梅と懇意になり、上海より豪放磊落に鑑真号で、神戸港に凱旋帰国。志士として明治維新のとき、外交、財政、経済に影響を及ぼし、通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制による国会開設要求などに手腕を振るい、参議大蔵卿、内閣総理大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、貴族院議員、立憲改進党総理、報知新聞社主、聖路加国際病院設立評議会会長、同志社大学社友などなど歴任した明治期の大政治家として、中央政府の首脳など活躍した、幕末の動乱から日本を、明日を切り拓く近代国家の礎へと導いた、近代日本政治の父、大隈重信、早稲田大学の門を叩くことになった。

大隈重信は、弘化元年(一八四四年)肥前佐賀藩、弘道館佐賀藩校入学。後に前島密らと共に、米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウイリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ。慶応三年(一八六七年)佐賀藩校英学塾「致遠館」の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキにやはり英学を学んだ大隈重信は、この頃、アメリカ独立宣言に大きく影響を受けた。当時、隠れ切支丹の弾圧である浦上四番崩れに、大隈は、イギリス公使パークスと交渉し、手腕を発揮、頭角を表す。この背景には、ウイリアムズとフルベッキから学んだ、英学と、キリスト教の知識の恩恵があった。

明治二年(一八六九年)参与に任じられた大隈は、旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と婚礼。美登との離婚は、明治四年(一八七一年)に成立している。会計官副知事を兼任し、高輪談判の処理、新貨条例の制定、版籍奉還に携わる。二官六省制度の設立後は、大蔵大輔となり、木戸孝允に重用され、この頃、幼名「八太郎」ではなく「重信」の名が用いられるようになる。やがて大蔵大輔・民部大輔共に兼任し、この頃、大隈邸には、伊藤博文、井上馨、前島密、渋沢栄一といった若手官僚が集い、寝起きするようになる。このため大隈邸は「築地梁山泊」と呼ばれるようになる。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正、殖産興業政策を推進、富岡製糸工場の設立、鉄道・電信の建設など尽力した。

大隈重信と福澤諭吉は犬猿の仲として知られているが、ある日、東京上野で、大隈が三十代、福沢が四十代の頃、引き合わせられる機会があった時、ふたりは瞬く間に意気投合。大隈は東京専門学校の実現にあたり、福澤から先輩格に当たる慶應義塾を引き合いに、多くの助言を得たとされる。大隈は、立憲改進党の政治家、福澤は、「学問のすゝめ」の思想家であり、ふたりとも大家として意外にも肌が合ったとされる。令和五年(二〇二三年)甲子園全国高校野球大会決勝で、慶應高校が、百〇七年ぶり世紀を超えての優勝を果たしたその快挙と勇姿に、ぼくの処女作本が年末に文壇デビューすることもあり、まさに、ペンは剣より堅しという慶應のモットーが体現し、そのノーサイドとしての私学の雄としての存在を示しているのだと思う。

明治四年以降、大久保利通による制度改革で、参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸孝允と西郷隆盛によって人事が刷新された。岩倉具視使節団が出国すると、大隈は留守政府で、三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、井上馨と対立する。明治六年井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼任、大蔵省の実権を握った。一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受諾、博覧会事務局を設置。大隈が総裁に就任、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となる。

明治六年の政変では、大隈は途中から反征韓派として活動する。征韓派は失脚し、佐賀藩の江藤新平、副島種臣と袂を分かった。この後、大隈は参議兼大蔵卿に上り詰める。明治十一年、紀尾井坂の変で、大久保が暗殺されると、実権は伊藤博文に移った。伊藤博文に尽くすよう誓った大隈は、会計検査院創設のための建議を行い、会計検査院は明治十三年(一八八〇年)に設立された。明治十四年には、統計院の設立を建議、設立し、大隈自ら院長となった。一方、明治十四年の政変で、自由民権運動が盛り上がり、自由民権派が、東京横浜毎日新聞で、北海道開拓使の払い下げを報じると、世論は沸騰した。リーク先が大隈ではと観測が広まり、大隈は孤立を深めた。大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や、農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。

大隈は下野すると、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬飼毅、矢野文雄らと協力し、国会開設に備え、明治十五年(一八八二年)立憲改進党を結成、党首となる。さらに、小野梓、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国ら鷗渡会員の協力を得て、官学にも匹敵する高等教育機関育成のため、北門義塾があった東京郊外の早稲田に、現早稲田大学の前身東京専門学校を創立する。それと共に、女子高等教育にも尽力し、日本女子大学を創立、立教大学発展にも関わった。第一次世界大戦に勝利すると、対華二十一ヶ条要求に関与した。大隈重信は早稲田大学初代総長として就任し、「大隈老候」として今日に至るまで、早稲田大学関係者に親しまれている。

幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には、井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら内閣総理大臣に就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。明治二十四年、早稲田文学創刊。大正二年、当時の総長である大隈重信は、東京専門学校の創立三十周年祝典で、早稲田大学教旨を宣言し、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。建学の楚は、長崎の藩校「致遠館」のグイド・フルベッキであり、新約聖書、アメリカ独立宣言の影響を受けている。同年、孫文が大隈重信総長を来訪。英国の政治経済学をモデルとした、早稲田大学は大正九年(一九二〇年)、日本の私立大学では、慶應義塾大学などと共に、最も古い大学令に基づく大学となった。

大正十一年(一九二二年)大隈重信死去、日比谷公園で国民葬。大隈老候亡き後も、早稲田大学は、全国は数多、海外にまで及ぶ稲門会なる校友会組織を擁し、発展を続け、今日に至るまで、日本国家の教育・研究の形成を牽引してきた学校であり、慶大と共に、「私学の雄」と称され、私立大学の最高峰に位置する。昭和六十三年(一九八八年)愛でたく、私はその第六十八期生として入学。弟も同時に、この年、東邦大学附属東邦中学校高等学校に入学した。成績優秀で早稲田大学政治経済学部合格し、尚且つ、数学ができないという理由で、また医学という学問が、二十一世紀に入っても、尚未だ未発達、未解明な学問である一方、法学という学問が、古代ローマ時代六世紀には既に、ユスティニアヌス帝が、万民に普遍なるローマ法の確立によって、その不動たる地位を築いた、連綿たる歴史ある学問であることも影響し、何よりも「自分を信じて生きてきた」その証として、自分が「自由」を人生において謳歌したいからこそ、「法の支配に基づく自由」を重視し、法学部に進学するも、大学の講義に関心を示さずタイ渡航を経て、またも世界一周流浪の放蕩旅に旅立つ。

坪内逍遥の文学科の流れを汲む、伝統の早稲田文学界から、著名な小説家の翻訳家で知られる、早稲田大学第一文学部演劇科出身の村上春樹が、ノーベル文学賞に、度々ノミネートされていることを受けて、隈研吾設計、柳井正ら出資による、令和元年(二〇一九年)、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館の隣に、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)開館。式典では早稲田大学特命教授ロバート・キャンベルを囲んで、小川洋子、村治佳織、川上弘美、伊藤比呂美、朝井リョウら現代作家が会堂し、朗読イベントが催された。早稲田大学卒業後、海外を放蕩する昭和の風来坊として、早稲田キャンパスの外で、したためてきた拙著も寸志ながら、文壇の登竜門にデビューするべく、村上春樹ライブラリーの一冊に加わる所蔵の運びとなった。

長年、税金投入額で首位を行く官学の東京大学を羨んできたが、昭和の青春謳歌、平成の艱難辛苦、令和の起死回生と疾風怒濤の早大卒業生として、文武両道でリードする早稲田大学が、駅伝、野球、ラグビーを三大スポーツ強化基金として注力する、早大ラグビーをこよなく愛する、七転八倒のラガー・マンかのような人生を歩んできたからこそ、ノーサイドの笛が鳴るまでは、人生という晴れ舞台を、縦横無尽に展開したい。麗しい令和となっては、早稲田愛に満ちた個性溢れる母校都の西北、都の杜早稲田大学出身者として、情熱偏差値では他校の追随を許さない、建学の礎、グイド・フルベッキの祝福の讃歌に他ならない早稲田大学を、青春の故郷として誇りに想っている。

戦後、中曽根康弘までは、高度経済成長の日本経済をトップダウンで牽引するべく東大出身の首相が優位の座を占めてきたが、バブル景気に沸く昭和六十二年(一九八七年)冬、角福戦争の果て、自由民主党内の二大派閥の権力闘争の末、親米派の清和会を押さえて、日中国交正常化に尽力した田中角栄を袖領とする日本の独立とアジア諸国との融和を掲げる竹下登らにより経世会が発足した。清和会は、岸信介派の流れを汲む、保守傍流であり、福田赳夫から安倍晋太郎に引き継がれ、総理擁立者として小泉純一郎、安倍晋三などタカ派が目立つ。清和会は、自主憲法論、憲法改正論、再軍備を唱える一方で、福田赳夫は、日中友好平和条約を締結した親中派であり、康夫も胡錦濤国家主席と会談に臨み、戦略的互恵経済パートナーシップにおいて合意している側面もある。一方、経世会(平成研究会)は、田中角栄の木曜クラブを前身とする名門宏池会と共に保守本流であり、小沢一郎、小渕恵三、橋本龍太郎らに引き継がれ、現在、茂木敏充が領袖となっている。経世会は、領袖の田中角栄が、ロッキード事件で逮捕されたことをはじめ、リクルート事件、佐川急便事件と、政治とカネの問題が噴出していると言える。内閣総理大臣として、憲政史上最多を誇った東京大学出身者は、いわば官僚主導のエリート型の、ガリ勉君の秀才派は首相適任者としては、もはや好機を逸し、むしろ玉石混合でも、喜怒哀楽を共にし、野性味溢れる、早大生が人気を博し、米ソ冷戦終焉後では早稲田大学出身者が、人情味が厚いのか、首相適任者として与党自由民主党総裁選の一世を風靡して最多を誇り、世界不況に見舞われる、日本経済を総力戦で、立て直しを推し進めるべく、戦後の石橋湛山を経て、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、福田康夫、森喜朗、野田佳彦、岸田文雄を輩出している。その他にも数多いる早稲田大学出身の著名な政治家の中で、総理の座とは縁がなかったが、無産階級の出身ながら、労働運動に身を挺し、戦後躍動する社会党を牽引したにも関わらず、右翼の凶弾に倒れた、日本社会党党首の浅沼稲次郎の名は挙げる必要があるだろう。現在、政界の王座の栄冠は、覇者早稲田に輝いているかに見える。

早稲田大学入学後、渡印。大人になってマザー・テレサやマハトマ・ガンジーを最も尊敬する世界のインドの偉人の基軸として、人類が次世代へと引き続ぐべき倫理規範としての普遍的価値観であることを確認する旅となる。令和になって血糖の上昇と腎機能の低下を宣告され、ヨーガ行者として、また茶僧、華僧として、梵僧サンスクリットの道を志し、実際今朝、ヒンディ語で求道者を意味する「サドウー」(日本語の「茶道」と韻を踏む)をインド文字でスマホに打ったら、上空に暈ハロが出現した。即ち、令和という元号は、特に令和五年は平成五年のアラビア石油入社を経て、個人的にこんにちはという、春の訪れにほかならない。私は「汝はそれである」というインド哲学の解脱の修練で、インド・アーリア・ヨーロッパ世界の古今東西文明の統合の俯瞰を試みようとしている。

安土桃山時代、羽柴秀吉、後の豊臣秀吉と堺の豪商、千利休との確執から生まれた茶道から派生した表千家流、裏千家流、武者小路流の三千家流のひとつ表千家流同門会。新羅飛鳥時代、お釈迦様によって印度で発祥した仏教が中国、朝鮮半島から伝播すると、聖徳太子の遣唐使の小野妹子を始祖とする、仏前への供花として室町時代、興隆した、京都の臍、つまり京都の真ん中と呼ばれる、親鸞が聖徳太子からの夢告を得て、浄土真宗を開祖されたとする、家元池坊の菩提寺である天台宗紫雲山頂法寺六角堂を仰ぐ池坊華道会。日本伝橙文化の伝承者として相応しいよう、古代ユダヤのソロモン王朝の栄華とも言える、自分がソロモン・ブラザーズ証券の馴染客のBMWを運転することもあった、四十年後、日本伝燈文化界で活躍するであろう原点となる一流の社交術を授けて下さった華麗なる赤坂華泉のママさんが、接待を学びに、フランス留学したことを模範にすることは、天真爛漫で女将さんのような友華先生、しっかりもので機転が効く千恵先生の師弟愛が芽生えた愛弟子として、末永くご厚誼賜れるよう精進するべく、自分の生命の原動力としてプリユ先生に叩きこまれたフランス語で、DALFC1、パリ大学進学を目処に、この世に生を受けて半世紀あまりが過ぎるのを機に長寿を目標に、不老不死の会得を試みようとしている。お茶、お花が大好きで、何よりも誰よりも先生やお弟子さんが愛おしく大好きで、どうやら無事、年を越せそうである。来年もまた気持ちを新たに引き締めて精進したい。

その間も、英語の勉強は続けて、国際部の講義にも出席していたので、前身は中国出身の著名人が多数活躍した戦前の早稲田大学清国留学生部で、現在の早稲田大学のリベラルアーツの拠点、国際教養学部、早稲田大学国際部GLCA/ACMプログラム奨学金に選抜試験に合格。ミッション系(Methodist系)リベラル・アーツ・カレッジであるAlbion College, Michigan 平成元年〜平成二年(一九八九-一九九〇)に太平洋の上空で小林真理子さんに折り紙を教わりながら渡米。シカゴ・オ・ヘア空港に到着後、先に、アイオワ州コー・カレッジでオリエンテーションを済ませ、交換留学。米国滞在中も、ア・ナーバーのミシガン大学のディスコ・パーティーに誘われたり、グレイハウンドのフリーパスを利用して、カナダ、メキシコを含めた五千マイル米国大陸バス旅行。留学修了時には、現在有人宇宙旅行社のヴァージン・ギャラクティックを傘下に収めるヴァージン・アトランティックで、ニューヨークからロンドンに大西洋を横断して飛んで、レンタカーで走行距離六千キロ欧州周遊旅行。パリ、ケルン、ジュネーブ、ミラノ、ローマ、ベルリンなどに立ち寄り、トップレスで海水浴している南仏コートダジュール等を経て帰国。この大西洋を挟んだ、五千マイル米大陸縦断バス旅と、走行距離六千キロ欧州周遊レンタカー旅は、二十歳間もない初々しい凝縮された課外授業として、Albion College米国交換留学の一生の宝の思い出になった。

その後、赤坂国際法律会計事務所にてアルバイトに就くも、高校生のとき旧東京中央郵便局から発送した、ワードプロセッサーで作成した英文文書の在日大使館への流出についての知的財産権を巡り、先輩弁護士と今でいうブラックハッカーのような外患罪のようなことを犯そうとしていたトラブルを原罪として背負うことで、十字架に架けられるかのように、自らに天誅が下ることとなる。そのための荒行を乗り越えることは苦難の道のりだったが、三十年のときを経て、母校早稲田大学出身で、池坊の研究員を勤めておられる井上太市先生の講義で紹介された、JPタワー(旧東京中央郵便局)で開催された日本百観音のお詣りで、仏様に禊を済ませ、正に罰が当たった肝心な筆記具だったからこそ、雨華先生との御縁を持ち、復活を果たし、救済が行われ、書をしたためることに悟りを得たのは、感慨無量の念を覚えた。

何より、赤坂国際法律事務所の角田弁護士(すみだ、と読む、かくた、とは読まない)と、アラビア石油の立教小学校出身の古川さんとの、自分の人生の一時代を隔絶してしまったブラックな体験は、左翼幻想主義を断ち切り、核、原子力の有用性を自覚するための自分の思考回路の大転換点となった。科学の面白さを、サイエンスの面白さに気付くきっかけとなり、結果として、人生の後半戦において、次世代も原子力技術や、核融合科学技術が需要される前提において、原子力工学、核融合科学の研究へと誘われる形となった。アラビア石油の大森晩飯(大器晩成)と冗談を言っていた先輩の思し召しが、奇跡的にも現実のことになろうとしているのだった。言うならば、人類史の主役級を総括する原子爆弾や水素爆弾の原子力や核融合への平和転換に象徴される我々の現代科学技術とは、全て軍事からの民事再生で成り立っている事を踏まえ、原子力政策の認識の転換に伴って、自分の政治的価値観が左翼から右翼まで自由自在に俯瞰できるようになり、自分の器が広がった事は確かだった。

明治生まれの祖父が、尋常小学校卒業以来、勤務していた大藏省の図書館の窓から映り出される世界や日本の世相を、後天的にそのDNAを引き継ぎ、広く公共の社会を観る眼が養れたとも言える。言うならば、自らの政治的信条の神聖域について、自らの手でメスを入れることに成功したのかもしれない。実際、広島、長崎にも足を運んだが、広島は外国人観光客の多さに圧倒されたこと、長崎は弟の用事で慌しく、ゆっくり見物することができなかった。改めて福島と共に、広島長崎見物を実りあるものとしたい。

この不祥事を贖罪しようと、令和四年(二〇二二年)明澄が宮崎県立宮崎大宮高等学校文科情報科の高校生になったことを機に、広く国際社会、国家、企業、諸個人の利益に貢献するCEH公認ホワイトハッカーの道を志し、サイバー軍兵、宇宙軍兵を志願することで名誉挽回を試みようとしている。早稲田大学教育学部社会科学科にも合格して、社会科には特に長けていたようだが、早稲田大学人間科学部にも合格したので、今度は理系から科学の分野においても造詣を深めたい。

平成五年(一九九三年)早稲田大学法学部卒業。就職活動時、TBSの面接を受けた時、報道特集と思わしき面接官に出会ったが、今思えば、頑固、脱原発路線で譲らないTBSには辟易している。三井物産、三菱商事落ちで、東京丸の内三菱村にある東京電力他、サウジアラビア王国政府、クウェート政府が出資し、陸軍幼年学校から、旧制第六高等学校、岡山大学法文学部出身で、田中角栄に旧通商産業省(現経済産業省)から首相秘書官として抜擢され、地方国立大学出身としては異例の、元通商産業省事務次官の小長啓一が、代表取締役社長を務めるアラビア石油株式会社入社。小長啓一は岡山大学卒業時、国家公務員上級職試験合格と共に、旧司法試験にも合格しているため、アラビア石油を退いた後は、弁護士登録している。私の早稲田大学入学時の元早大総長、西原春夫は惜しくも鬼籍に入られたが、小長啓一は今も九十二歳にしてご健在である。益々のご活躍を祈念したい。アラビア石油は昭和三十三年(一九五八年)、アラビア太郎、満州太郎、山師太郎こと、秋田県出身で、慶應義塾普通部、札幌農学校、旧北海道帝国大学、現北海道大学農学部を経て、後に満州で実業家として活躍した山下太郎が、「日の丸油田」の安定供給を図ろうと設立した、その石油事業に付随する外交任務をも兼ね備えた半官半民の石油会社である。サウジアラビア・クウェートのカフジ油田を掘削して、国内の大半の油田を占有、高度経済成長期には、その経常利益においてトヨタ自動車を上回る優良企業でもあった。しかし社運はすでに下火になっており、私は入社後、専らこの権益更新交渉の行方に悩まされることになる。ただこの当時、湾岸戦争最中で、自分は人質のひとりとして、企業戦士として、身代に取られていたのかもしれない。

かつて存在した日本の特殊銀行、長期信用銀行であるメガバンクの一角を占めることとなった現みずほ・フィナンシャル・グループの第一勧業銀行、富士銀行と共に一員となった日本興業銀行は、明治期軍需産業の振興や、第二次世界大戦後は戦後復興、外債発行による企業支援で日本経済の発展に貢献した。私は、アラビア石油の主要取引銀行である日本興業銀行本店に、アラビア石油の役員用の自動車で出納業務を任された。直近の上司は、経理ニ課のF氏、経理二課のF氏はサウジアラビア政府やクウェート政府に対するロイヤルティや税金を監査する国際税務の担当だった。F氏は現在、吸収合併した日鉱日石石油開発のホーチミン事務所長の任にあたっている。

もう一方の主要取引銀行である三菱銀行は、岩崎弥太郎が明治期に創設した三菱財閥で、一八八〇年三菱汽船会社から独立した三菱為換店が、一九一九年三菱銀行として設立された。その後三菱銀行は拡大して、三菱重工業、三菱商事とともに三大三菱中核企業として、旧三菱財閥、今の三菱グループを現在三菱UFJ銀行となり支えている。私は、三菱銀行本店の出納業務も任された。私は、統合失調症により、令和二年(二〇二〇年)から令和三年(二〇二一年)まで、三菱商事が出資するフィンテック、AIなどを手掛けるファイナンシャル・テクノロジーのトランザクション・メディア・ネットワークスという会社で、発達障害、精神障害ほか、障害者向けの農業の仕事に就き、発達障害の子と一緒になって、野菜作りに汗を流して働いた経験は、特に飯田詩織ちゃんとお友達になれたことは、小三の担任の飯田応子先生が夏休みの宿題にした、原爆被害の後遺症である白血病患者が登場する、「ふたりのイーダ」という本を童心に帰り四十年ぶりに読み返して、原爆について考え続けてきた自分が、改めて人間の尊厳に気づかされる思いを強くもった。

他都市銀行本店出納業務の傍ら、元来アラビア石油は、ナフサ、ディーゼル油の他、火力発電所で電力を起こすために必要とされる硫黄分を多く含んだ重油の供給を得意としていたが、目下、社内はチェルノブイリ原発事故の立て直しに躍起になっており、となりのアフリカ・コンゴのウラン資源開発を進めるブラック・ヤクザの原子力セクションに立ち合うことで、核・原子力を巡り、原子力事業に精力的な会社側と、静謐な高校生の平和大使のような初心な広島・長崎の反核思想を拭えない自分との間でジレンマに陥り、キリストの意味「油を注がれた者」の洗礼を受ける。キリストは受難の迫害の道を歩むことになるが、私にとって、そのときのカルチャーショックは、清水の舞台から飛び降りる心地で、それにより、オイルマンとして、後に核融合について拙著を記す貴重な機会を得たが、統合失調症を罹患して、人事部付となり、会社を去ることになる。今思えば、核・原子力という永遠のテーマにもなりそうな課題を、短期間に区切って組み込まれた、これしかないという奇跡的なアラビア石油の勤務体験は、怪我の功名として、後に傑出した拙著を生んだ、災い転じて福と成した原点であったことは間違いない。「鶏頭となるも牛後となるなかれ」という諺通り、予想だにしてなかった、より困難な道を選択したからこそ、その収穫は奇跡的だったと言えるだろう。

運命の不条理さを謳った文学作品は、アルベート・カミュの「異邦人」が有名だが、運命の不可逆性、不遡及性について祟ってはいけないと思うのは、運命の不条理よりも前に、授かった運命を野性の本能で嗅ぎ分けながら生き延びていることはもとより、ときに人生の航海の舞台で順風満帆に進めば、自分を見失い、多くのことに、場合によっては何も気づかないまま、人生をやり過ごしてしまうということである。それよりも逆風によって難破し、座礁して自分の進んできた航路と船舶を見つめ直してこそ、自分を発見できる旅の醍醐味であるように、はじめて夜空を仰ぎ、満天の星空に感動を覚えるものである。今更ながらに、モーセの十戒ってあるんだなと思う。いや、真のリアリズムに眼を覚ますためには、モーセの十戒の裁きを受ける他、自分の革命的な前途の道は拓かれなかったと言えるかもしれない。早稲田大学政治経済学部の学問の扉を開くことなど、時間と学費の無駄であるかのように、早稲田大学は中退者が出世するという定説通り、自らの社会学習を通じて、自らの政治信条の常識を覆す結果となったのは、一浪士として負傷を負いながらも、自分の人生に於いて今更ながらに進歩的であるという意味で収穫であり、前進だった。いや、大躍進だった。数学が出来ないと思って、政経ではなく法に進んだものの、駒場東邦、早大学院、早大本庄ら騒々たる超進学校出身者が独占する政経枠と共に、法枠から、大検ただひとり道なき道の闇を照らして、道を切り拓いたバイパス甲子園児として、アメリカで経済学を学ぶ機会を獲得した事は、自らの努力も去ることながら、これより他選択肢の道がなかった点において奇跡だったとも言える。駿台の全国模試で最上位の成績を独占していた成果が報れてから三十年、大医として、士族の末裔の生まれを現代社会に活かすべく、表千家と池坊の門を叩き、日本伝燈文化界に嵐を吹かそうと言うのだから、これはもう奇跡の降臨という他ないだろう。ブラックハッカーのような罪を犯そうとして、統合失調症を罹患したとき、大学の刑法の講義で、外患罪は死刑しかないと言われて、当時恐れ慄き、大学側と自分との間で桎梏し、軋轢をもたらしたが、母校都の西北都の杜、早稲田大学は、ぼくに中退どころか、今となっては人生の集大成となる大冒険へと、背中をそっと後押ししてくれたに違いない、と今さらながらに確信の念を強くしている。早稲田大学という真価は、卒業証書にあるのではなく、広く模範国民の成就という目標を達成するべく、冥土の旅への土産となる浄土楽園の光さえ差し込む、俯瞰した人生の集大成そのものを咀嚼できてこそ、醍醐味が発揮されると、還暦を前にしみじみと感じている。それは核融合の神学を覇者早稲田から学んだことに他ならない。昭和の時代、無縁仏かの如く中学受験を唯一の受け皿である茗渓学園に半ば強いられ、入学後失恋を伴い、統合失調症という致命的なハンデイを背負ったものの、令和に入り、日本伝燈文化界という法門に入り、茗渓学園という評判は、ぼくにその復活を遂げ、リベンジを果たすべく、名声の誉れを高くしている役割を担ってくれるのかもしれない。それも、超法規的措置が講じられ、幕末以前の士族の身分が復活して、俸禄を与えられる武士の身分が生涯に渡り保証されていると言っても過言ではない。

海外赴任こそ叶わなかったものの、曲がりなりにも帰国子女の仲間入りを果たした自分は、在学中のバブル期の赤坂華泉勤務に引き続き、バブルの余韻が艶濃く残る足繫く通った、新宿歌舞伎町の華麗なる夜の花柳界を、堪能した貴重なドラマチックな勤務体験が、私の頭の中の物差しについて、重大な転換点に寄与し、二十一世紀からの自分の責務を、温故知新で、日本の古典伝燈文化を継承していくとともに、現代文明の営みに欠かせない電力需給を満たす先端科学をトレースするため、物理学、原子力工学、核融合科学などの次世代の電気工学の形成にパラダイムシフトする奇跡的な叩き台を得るのであった。言ってみれば、想像もしていなかった、社内の原子力部門の貴重な経験を得たことで、GX・グリーン・トランス・フォーメーションのあるべき姿のDNA遺伝子を、結果として次世代へ、二十一世紀へと引き継ぐ形となったといっても過言ではない。

いや自分は、二十世紀初め、米マンハッタン計画により開発が進んだ核兵器という人類が犯す戦争という最悪の蛮行において、最悪の凶器となりうる核科学技術が、二十一世紀地球環境の効率利用が叫ばれる、ドラスチックな革命的転換で、地球環境問題のSDGsの喫緊の課題の解決の切り札となる、核の民生化としての、地上における恒星のひとつである太陽の働きの再現に他ならない、核融合エネルギーの出現で、人類が核科学技術について新たなステージを踏もうとしている今、人類が果たして核科学技術を支配、管理できるのか、ホモ・サピエンスからホモ・デウス神人類へと、アップグレードしようとする試金石が試される、次の三千年紀に引き継がれる、DNA遺伝子を育んでいる、時を駆ける永遠の旅人なのかもしれない。核科学の支配が二十二世紀以降の課題になるにしても、紛争が頻発する、戦争の誘発が高まる世界の分断と格差社会の問題の解決は、今後人類が生存する上で、国際政治のソフトランディングが求められる喫緊の政治経済学的重要な課題と言えるであろう。百寿からの抱負としたい。

余談になるが、私は、令和という時代に、自分のかけがえのない人生が、茶道、華道を学ぶ機会を得て、蘇ったと思えて仕方がない。令和という元号の命名の万葉集からの初の国書からの出典となった梅は、桜のように艶やかに、突如として咲き、慌しく散っていく姿と異なり、慎ましく凛として静かに密かに花を咲かすので、それはまるで蘇州で十七歳の朱冬梅と初々しく交わした淡い接吻の甘酸っぱい青春が思い出されるような、日の丸弁当やおむすびの漬物が桜ではなく、梅干しであるように、私は梅が一番好きな花である。言うならば、小集団や、家族における内部的な忠孝をより重んじる日本人の特性よりも、自分は、広く国家、社会にも通じるような外部的な仁義を兼ね備えることで、広く華夷秩序を構成する中国、台湾、朝鮮、韓国、琉球、越南と呼ばれたベトナムなど、さらにメコン川を渡れば、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーといったインド・サンスクリット圏へと展開する、親愛なる大亜細亜人として利益を共有していると言えるかもしれない。

第二部 核融合の神学
五 福島第一原発事故 広島・長崎の反核思想は、大正、平成の大震災の朝鮮人大虐殺、ヘイトスピーチによって覆され、脱原発の左翼幻想主義から訣別し、エネルギー現実主義という核の民生利用である原子力の有用性を認知してこそ、我が道を行く保守本流だと悟った。

それは、二〇十一年東日本大震災による、一九八六年のチェルノブイリ原発事故に続く、またしてもの福島第一原発事故で、石油化学エネルギー業界に在籍していた一員として思い悩まされたが、地球環境問題に喚起されることになる。この時点で、連合国側の米軍による広島、長崎の被曝国体験からの核廃絶の考え方と袂を分かつことになった。なぜなら、震災のすぐ後のタイミングで、大正十二年の関東大震災の際の混乱に乗じて、「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流布された、卑賎なる者として処遇を受けた朝鮮人虐殺という暴力の連鎖が象徴する、人間の錯乱状態の再来かのように、二〇十二年李明博元大統領の竹島(韓国名独島)上陸が契機となり、私自身は七回に及ぶ渡韓とともに、昭和の時代、暴力団の構成員の十人にひとりは、在日朝鮮人、韓国人と言われた負の歴史を払拭し、ヤクザも大卒が当たり前で、インテリ化したように、旧来の任侠道から学識派に転換するべく、二〇〇五年封切りとなった在日の青春映画、沢尻エリカ主演「パッチギ」にも影響を受けて、韓流文化の功罪が両論あるにせよ、従来の在日史、韓国・朝鮮史の闇の常識を覆す、自分のコリアヘイトに対する抗議活動、人権擁護活動と韓流ブームの全盛期がシンクロすることで、鮮烈な輝きが解き放たれた韓流文化に刺激を受けたのだった。

整理すると、二〇十〇年代前半に日本人にとって重要な出来事が三つ起きている。二〇十一年の東日本大震災、続いて福島第一原発事故、そして二〇十二年の李明博大統領の竹島上陸である。この三つの出来事をどう関連付けるかで、コリアヘイト狂者、原発反対論者、そしてぼくの原発肯定論者に日本の世論は分断されてしまった感じがする。個人的には、震災の混乱による在日コリアンに対する人権擁護活動が、結果的に自身の震災の混乱による原発の安全性に端を発した核原子力問題への啓発に繋がったことは、運が良かったと言える。

一方で、デフレ不況の閉塞感が拭えないネトウヨと呼ばれた隠れトランプともいえる日本人らの、躍動する韓国経済に対する、嫉妬からの、憲法で保障された明白な法的人権を侵犯する、在日コリアンへのヘイトスピーチに対抗する、国際社会、日本社会、地域社会でのコリアン、在日コリアン、在外韓胞の連帯及び法的地位向上促進という人権擁護目的での韓国語学習に覚醒されたのだった。そのことで、旧日本軍が犯したアジア、中国、朝鮮、占領・植民地支配の「ファシズム史観」からの加害者状態での、もともとは、ナチス・ドイツの懲罰として利用される予定だった、リトル・ボーイ(広島・ウラン型)とファットマン(長崎・プルトニウム型)の原子爆弾が、先にドイツが降伏したため、抵抗をやめなかったファシズム日本に下された原爆投下という結果の認識が生じたからである。

核兵器が危険極まりないのは論を待たないが、マンハッタン計画により原爆投下に利用された、科学者が発見した核エネルギーが、同時に、東西冷戦の軍拡競争の中で、核の民生化を進めようとした、米アイゼンハワー元大統領が主張した、「核の平和利用」と謳われる、ベースロード電源としての原子力として、現代社会のクリーンエネルギー供給源として利用されなければならない必要性もまた認知するようになった。核兵器の戦時破壊力が、相対悪なのか、絶対悪なのかは、連合国と、被爆国日本で割れるとして、その核の破壊的威力に伴う原子力エネルギー創出力の平時有効性が、石油などの枯渇性資源の二酸化炭素排出による地球温暖化の悪影響、また、二度にわたるアラブ諸国のナショナリズム高揚による、原油価格高騰が起きたオイルショックで、世界的原発建設の普及の機運が見られた、国際原子力機関IAEAを筆頭とした、原子力の環境的経済的科学的国際社会の合意形成が蓄積されていった事実は、二十一世紀以降の世界においても引き継がれていくに違いない。福島第一原発事故に伴う、三十年にわたる、トリチウム汚染の基準値以下に薄めての処理水の、海洋放出という核分裂炉事故という私たちの負の遺産は、それが文明の副作用として避けざるを得ない、廃炉への道筋、そして期待される国際核融合炉の開発、実現、運用という次の核科学の支配、管理のステップに向かう、文明の工程路をたどっているものとして、前向きに受け止める他ないだろう。

超電導リニア中央新幹線に導入される超電導リニアモーターカー、高速鉄道や重工業による電力消費、また今後普及するであろうEV(電気自動車)社会などの恩恵を蒙る、利便性や快適性を追求した近現代文明を営む我々は、相応のコストやリスクといった対価の負担として、原子力技術の導入、核兵器の核の傘の展開(通常兵器による戦争回避による一時的平和捻出)で、人類の文明史が、農業革命、工業革命、情報革命、宇宙革命と、我々の文明史のフェーズが上昇している現実から、最新の現代文明論の闊達な耕論が期待される。

日本人が核の被害者であることは、とりもなおさずアジア侵略ファシズムを犯した残虐な加害者にほかならず、戦後八十年近くの歳月が流れる、多面的な歴史の闇に光を当てるロジックスの立場に立てば、その論理は簡潔である。結果として私は史実を顧みて、ファシズムを否定して、「核の平和利用」である原子力エネルギー利用の正当性の概念を獲得することで、左翼幻想理想主義から訣別して、エネルギー保守現実主義に沿う原子力有効利用へのラジカルな思索転換を図ることになった。まずもって正当な科学(sein:独である)を認識して、故に正統な倫理(sollen: 独べきである)を導き出した結果として、東京電力の構造的改革が求められ、三菱化学(現三菱ケミカルグループ)の小林喜光が、東京電力の会長に就任した。

こうしている間も、欧州最大級のウクライナのザボロージャ原発が、攻撃を受けて、人類史にとって未曾有にも、ロシア軍に制圧された。原発が人類の重要なライフラインであることに違いはないが、一端危険に晒されると甚大な被害が出ることもまた事実で、今後の動向に注目したい。

いずれにせよ、コリアンに対するヘイトにしろ、大陸中国による香港、台湾に対する弾圧の雨傘革命にしろ、ロシアによるウクライナ侵攻にしろ、人間の尊厳への欠乏は、自分として、その言語学習を通じて、彼らの希望と幸福と未来を後押しすることで、自分もまた、人間としての成長を図る好循環を得ることとなった。特に、ロシアによるウクライナ侵攻で鮮明となった、スラブ民族で興味深いのは、ロシアがソビエト連邦を経て現代ロシアになるまで、ルネサンス文芸復興も、宗教改革も、ローマ法をも受容せず、古代ギリシャの原風景がそのままスラブ文化に漂流していることだ。二〇一三年、宗谷海峡を越えて、稚泊航路を渡り、まさに「津軽海峡冬景色」ならぬ、「宗谷海峡秋景色」となった、ぼくが旅した稚泊航路と、大阪釜山航路は共に、自らの人生の迫害からの浄土楽園へと救済が行われたノアの方舟だったような気がする。その樺太を旅したときに、ユジノサハリンスクのロシア正教会で、聖母マリアのイコンを授かった。イコンは、ぼくがこの世を去った後も、ぼくの人生の奇跡の御守りとして、その努めを果たしてくれていることだろう。スラブ民族の精神と文化の原点であるロシア正教会とは、長い付き合いになりそうだ。インド神学を糧とするとともに、下賤なる者として浄土楽園への祈りは、ロシア正教会に近いと言えるのかもしれない。

沖縄本土復帰50年を経て、太平洋戦争時、本土の身代わりとなって犠牲になった琉球(沖縄)をはじめ、朝鮮、中国、アジアを焦土とした、連合国側のABCD抱囲網(A:America米、B:Britain英、C:China中、D:Dutch蘭)に追い詰められて戦争の引き金を引いた同盟国の一員の日帝(日本帝国主義)が犯した甚大な過ちを、ドイツナチズム、イタリアファシズムの同盟国の猛省とともに(アジア諸国における日本軍国主義に対する反省のコンセンサスが未だないこと、イタリアファシズムが腰抜けだったこと、ドイツナチズムが、フランス共和制の協力のもと徹底して精算された違いはある)戦後、国際連盟を補強した国際連合憲章が採択されたにも関わらず、安全保障理事会の拒否権を所持する米国が朝鮮戦争、ベトナム戦争を起こし、ロシアがウクライナに侵攻して、今度は、中国が台湾侵攻、日本侵攻の危険性をはらむ、私たちは、歴史の負のスパイラルの最中にある。この大国の横暴に、暴力ではなく、我々が持ち得る良識、コモンセンスに訴えて、人間の尊厳の渇望に祈りを捧げたい。

六 アメリカ大学教壇に立つ 昭和の時代、無縁仏だった自分は、アメリカの大学の教壇に立ったが、令和に入り、日本伝燈文化界、表千家と池坊の道にその活路を見出している。

こうした経過を経て、昭和の時代に疎遠にされた帰国子女の役割について、二十一歳の若さでアメリカの大学の教壇に立つも、その無縁仏のような昭和の幼い世界観に、自ら帰国子女として重責を課すことで、従来の核、原子力についての自分の価値観と、会社側との見解の乖離により、司法の場で裁かれてそうなったのか、不慮の病を患ったのか釈然としないのだが、いずれにしろ統合失調症を罹患した。早稲田大学の真価を、学業よりも色事を優先させたことにより自分が病を患ったことで、長年に渡って疑義の念を穿鑿(せんさく)してきたが、それは、安保闘争全盛期に鬱つを抜かした無能な教授が繰り広げた退屈な講義に原因があるのではなく、無能な教師より良書こそが市悦の師であるように、校外の膨大な多数の卒業生の豊潤なネットワークと、その輝かしい功績にあるのだと実感するのだった。

そのことで、早稲田大学を経ることで、得たものと失ったものと双方とも甚大だったが、ぼくに憧れの海外生活と、急足ながら世界旅行の子供の頃見た夢を叶えてくれた。いや、自分は茶道、華道を嗜むことで、早稲田大学はほかの何にも代えがたい人生の醍醐味を恵んでくれたのではなかろうか。何より色事こそ、自分の中心関心事だったぼくに、早稲田大学はその通りに望みを叶えてくれたのではないだろうか。醍醐味というのは、他でもない早稲田大学が謳う「学問の独立」の真の意味に首を傾げてきたが、先生から教えられるのが早稲田大学なのではなく、たとえ社会の嵐に揉まれようとも、人生の舞台に於いて、展開戦術を繰り広げ、自ら進んで実践する姿勢こそ、「進取の精神」と相まって、後ろでそっと見守ってくれるラグビーの監督のような偉大なる早稲田大学の神髄があると、校友会誌西北の風が届くタイミングで自覚するのだった。何より大学の体育の実習でカナヅチだった水泳を、不可能を可能に人生を変えてくれた早稲田大学の本領を信じて、茶道、華道の己れの修錬道をいつか集大成させたい。

それこそ、オイルを燃やすべき石油会社の社員でありながら、女性の官能美に燃えた昭和、平成だったが、令和からこそは、石油や、原子力、地球環境問題に灯りを灯す新時代を切り拓いていきたい。というか、令和のトランザクションメデイアネットワークス社勤務を経て、茶道、華道を嗜む機会に恵まれ、私の人生において一貫して向けられた、生命の神秘の象徴である女性的官能美の鑑賞が、専ら動的な肉体美の美しさへの放蕩から、栄華盛衰となり、輪廻転生によって、動物から植物にも帰ることで、主に、いけばなの美しさに向けられた静的な官能美ともいえる鑑賞へと嗜好が変遷してきたことは事実である。一方で、和歌を始めとした歴代の女流文人がしたためた恋文の文献に代表される日本の古典文学へと誘われようとしている。

統合失調症罹患時初期に、自分のかかりつけ病院が、ボクトウ病院と脅され、恐怖の念を覚えたが、ボクトウを、木刀でもって剣道の稽古に参加して禊を済まし、更に剣道の稽古に精進して、物理的格闘術そのものよりも、剣道が醸し出す精神的涵養を滋養し、墨国メキシコを訪れたことを踏まえ、それはアラビア石油の、古代ギリシャローマ文明を吸収して、ルネサンス黎明期へと橋渡ししたアラブ文明のイスラムの教えである、千夜一夜物語のアラブと魔法のランプの願いがついに叶い、千恵先生が渡印され、一服のお抹茶に込められた侘び寂びの美しさと、一輪ずつ挿すいけばなの仏前の美しさが宿す生きる喜びこそ、自分がこの世に授かった生命の讃歌ではないかと、友華先生、千恵先生とのご縁を頂戴して、お釈迦様が悟りを開いた様に、ぼくもまた悟りを開いた。その行いが大医としての務めの一助になればと願っている。

七 世界放蕩の旅と原子力の俯瞰 再生可能エネルギーの盲弱性と核融合の有用性を考える。

奨学金と障害年金で、もともと、外交官、商社志望だったため、香港、マカオ、広州、桂林、南京、上海、北京、大連(中華人民共和国)、バンコク(タイ)、デリー、アグラ、カルカッタ(インド)、カトマンズ、ポカラ、コダリ(ネパール)、シカゴ、アイオワ、アルビオン、カラマズー、アナーバー、デトロイト、ボストン、ニューヨーク、ワシントンD.C.、テキサス、ラレド、アンカレッジ、フェアバンクス、バロー(アメリカ)、トロント、モントリオール、ケベック(カナダ)、ヌエボラレド、メキシコシティ、アカプルコ(メキシコ)、ロンドン、リーズ、グラスゴー、エディンバラ、スコットランド(イギリス)、カレー、パリ、デジョン、アクサンプロバンス、ニース、カンヌ(フランス)、ケルン、ボン、ベルリン(ドイツ)、ルクセンブルク、ベルン、ジュネーブ(スイス)、モナコ、ミラノ、ローマ、フィレンツェ、ベニス(イタリア)、(バチカン)、(ユーゴスラビア)、ブダペスト(ハンガリー)、(オーストリア)、ソウル、釜山、海印寺、慶州(大韓民国)、チュニス(チュニジア)、ウラジオストック、ハバロフスク、カムチャッカ、コルサコフ、ユジノサハリンスク(ロシア)、イスラマバード、カラコルム、フンザ(パキスタン)、ホーチミン、ハノイ(ベトナム)、アンコールワット、シュリムアップ(カンボジア)、ケアンズ(オーストラリア)など、三十四ヵ国外遊。

地球儀を俯瞰する外遊を展開した私は、地球環境問題、気候変動対策において、SDGs目標達成貢献に、日本の資源希少国地勢学的制約から、カーボンニュートラル達成のため脱石炭、脱石油には、積極的に理解を示すも、原子力政策に関しては、中国の原発増設によるウラン資源が、あと百年で枯渇することから、従来の核分裂炉を維持しつつ、核燃料サイクルを利用したプルトニウムを再処理する高速増殖炉、高速炉の研究、開発、実現、さらには、核融合エネルギーの実現に期待を寄せる。すなわち、環境問題の解決には、カーボンニュートラル達成のために、原子力の有効利用が必要だと考える。再生可能エネルギーに用いるリチウム、ニッケル、コバルトといったレアアース資源の採掘現場で、新たな環境破壊を招いていることからも、また電気を通す銅の採掘場となる銅山が南米の一部に偏在していることからも、大半の太陽光パネルの製造拠点が中国に依存していることからも、さらに太陽光パネルの場合、初期投資した太陽光パネルが、減価償却を終えたとしても、リサイクルできず、廃棄物としてゴミになるという問題点を抱えていることからも、核燃料サイクルを活用した原子力の有効利用が求められる。それと同時に、最近の再生可能エネルギーの技術力向上から、原発何百基分にも匹敵する洋上風力発電の動向には注目している。

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二〇一六年日本政府は、高速増殖炉もんじゅの廃炉を決定したが、核燃料サイクルは維持するとした。理由は三つある。第一は、核燃料サイクルが、関係者の夢と意地にあることである。ウランを一回燃焼させただけでは、その資源量は限られ、廃棄物の問題も大きく、原子力発電のメリットは小さい。高速増殖炉は無理でも、フランスなどと連携して高速炉(燃料は増殖しないが、使用済み核燃料の再利用になり、高レベル廃棄物の量が減らせる)の実用化を目指すことで関係者の夢と意地をある程度保てることである。第ニは、使用済み核燃料の最終処分場の目処が立たないことである。これまでは、全量再処理するという建前で、使用済み核燃料の中間貯蔵施設の立地を認めてきた自治体は、それがなし崩し的に最終処分施設となることに強く反対している。また、各地の原子力発電所の貯蔵プールに保管されている使用済み核燃料の最終処分場を探さなければいけない。これまでは資産として計上されてきた使用済み核燃料であるが、その扱いを変える必要も出てくる。第三はプルトニウムの処理に困ることである。プルトニウムは原子爆弾の材料になるものであり、その保有は国際的に厳しく制約されている。日本では、高速増殖炉の建設を名目に、その大量保有が例外的に認められてきた経緯がある。
@大守隆環境エネルギー経済学出典

また、産業革命に端を発した、枯渇性資源である石炭、石油の利用による、今日グローバル化した地球環境問題の要因には、資本主義の歪による格差問題や貧困問題が背景にあると認識している。すなわち、国家や大企業は、気候変動に対して何ら解決策を示してこなかった。それどころか、収奪と負荷の転嫁、外部化を推し進め、中心の豊かさを捻出する代わりに、グローバルサウスと呼ばれる周辺部の貧困を深刻化させている。もちろん、マルクス主義経済学を標榜する、中国や北朝鮮などの独裁主義の横暴ぶりにも、加担するつもりは毛頭ない。この歪んだ資本主義の構造的な欠陥に、全人類がグローバル規模で、国連や赤十字社といった超国家級福祉概念の、マイケルサンデルが指摘するいわゆる、市場経済限界論からの公共善の導入を図るべきだと考える。ここで言うリバタリアン自由放任主義「小さな政府」か、公正論「大きな政府」かの議論は、レーガン、サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三を代表格とする新古典派経済学が幅を効かす現代社会の自己責任社会の失敗が、米中対立、ウクライナ戦争、グローバルサウス、インフレ、資源高といった問題が露呈する今、岸田文雄が唱える新しい資本主義に期待することをはじめ、公正論の見直しにも期待したい。

そのような、資本主義社会の負の連鎖を断ち切るべく、一方の富の繁栄とは負の連鎖反応が顕著になるなかで、産業革命の先陣を切ったイギリスでは、労働党の影響もあって国民保険が成立した。また未曾有の恐慌で多数の失業者が発生したドイツにおいて、自由権とともに、社会権の誕生をみたドイツのワイマール憲法の流れを汲む日本国憲法下、日本においても、戦後、労働法や、健康保険、年金制度が整備された。過去を顧みれば、社会福祉、相互扶助の考え方が重要な政策として十二分に理解できるが、私は、前に進む者の一人として、科学の真理が切り拓く栄光を、科学の栄冠を信じて生きていきたい。それと同時に、科学の進む道が正しいのか、歴史と古典を省みることを忘れずにいたい。

地球温暖化が進行するうえに、SDGsと謳われる再生可能エネルギーの切り札とされる電気自動車に利用される、リチウム、コバルトといったレアアース資源の採掘現場にまで新たな環境破壊を招いている。人新世の時代を生きる危機に、エネルギー資源の解決のため、洋上風力発電や核燃料サイクルなどを参照しながら、資本主義の未来が、民主主義、地球環境問題や宇宙開発といった未来と親和性が保てるのか、政治経済モデルを提示して検証したい。

こうした二十世紀型の大量生産、大量消費社会のマス文化による地球破壊から転換を図るべく、改めて環境と調和する自転車の利点に着目したい。環境意識の高い欧州では自転車文化が急速に普及しているが、政府も平成三十年に、自転車活用推進計画を閣議決定した。健康に優れて、交通渋滞を起こさない、災害時の活用が期待できる、交通死亡事故が減少するなどなどメリットを活かして、地球環境問題に貢献するため、自転車との共生社会を目指したい。

原発現実主義者だが、そう遠くない将来、人類の叡智の結集と不断の努力のもと、人類の環境意識が高まれば、原発に頼らずとも、今後の次世代の技術革新とイノベーションにより、再生可能エネルギーを中心とした気候変動対策、地球温暖化問題の解決に向かって、SDGsの達成の可能性の模索に期待している。私もまた、できることから日々の環境問題に対する意識を向上させていきたいと考えている。

八 原子力時代の哲学 私の生い立ちの繰り返しになるが、聖書の創世記の天地創造が、人類は科学の手で核を再現し、原爆開発に始まる核科学史において、IAEA国際原子力機関によって、核を支配、管理し、ITER国際核融合に収斂する、核の新たなステージを踏む、人類はホモ・サピエンスから、神人類ホモ・デウスへと進化を遂げる試金石を試されている。

國分功一郎氏は、「原子力時代における哲学」の著書でこう問うている。原子力のコストは再生可能エネルギーよりも高いのではないか。そのうえで、それなら原子力は安けれさえすれば使っていいのかについて論じている。

そのため、近代までの人間が支配していた自然科学の探究と、近現代からの人間の支配をも破壊する宇宙科学への変貌に警鐘を鳴らしている。

ガリレオは望遠鏡で宇宙を観察し地動説を唱え、カトリック教会から断罪された。それまで、精神と肉体の眼で自然界を観察していた、古代ギリシャからの伝統が、望遠鏡という道具、技術によって自然界を観察、認識することで、言わばガリレオが宇宙の真理を「民主化」した。そのことで、カトリックの権威は失墜し、人間的能力theoryへの「不信」と科学技術technologyへの「盲信」という近現代特有の時代が始まった。この近現代の始まりこそ、一九五〇年代頃から始まった、旅客機による渡航が普及するのとシンクロするかのように、航空宇宙工学の発展とともに、宇宙開発に対する人々の反応だとアレントは指摘する。つまり、人間の肉体は精神の牢獄であり、地球こそは人間の牢獄である。その縄が取り払われたのだと人々は渇望して、二十世紀から二十一世紀にかけて、我々人類は宇宙開発こそ精神の翼を得たのだと、しのぎを削っているというのである。

アレントはこう言っている。近代の科学は、宇宙的観点から自然を眺め、その結果、自然に対して完全な支配権を獲得した。言い換えれば、人間は自然法則の中に包摂されていた。

この支配権を、「不信」することになったのは、これに対して、今日の科学は、真に「宇宙的な」科学であって、あえて、自然を破壊し、それと共に自然に対する人間の支配権をも破壊するという明白な危険を冒してまで、自然の中に宇宙過程を引き入れている。

この破壊状態を「盲信」している、 と言う。ここで、宇宙過程とは核・原子力のことであり、核全面戦争が生じた場合、人間の支配権は破壊される。 アレントは、核の破壊的側面だけでなく、原子力の創造的側面も有していて、人類が宇宙の森羅万象の法則を解明することで、人類があたかも神になったかの如く錯覚に陥っていると指摘する。 このことが、國分氏が説明しているところである。

しかし、私が指摘したいのは、確かに核兵器は、ファシズムに対する連合国側の懲罰という人類の戦争の緊張状態で生じた。 なおかつ、米ソ冷戦という核開発という東西対立の緊張は続いた。

しかし、そこには米ソ英仏中という核保有国の国際安全保障の担保がある。そのパワーバランスを維持したある種の平和への方向性の提示状態によって、第三次世界大戦、核全面戦争を避けながら、枯渇性資源である石油の代替エネルギーとなりうる、原発の世界的推進、核の民生化が行われているのではないだろうか。

その平和への方向性の提示状態とは、人間の支配権なのか、それともすでに破壊に向かいつつある人間の支配権なのか。

著者は、ハイデッガーを引用して、核・原子力を管理している状態、即ち、核・原子力を管理していかなければならないことこそ、危機的状態だと指摘している。

しかし、核・原子力技術によって人類は神と錯覚するとあるのは、まさに人類が科学技術によって既存の宗教をも凌駕している、人類が不断の努力の賜物により、科学によって解明され既知となった神聖域について、ならば神にとって代わって人類が、科学、人文、哲学、倫理などの叡智を尽くして点検すべき期にまで、我々の科学技術の人類の文明が進歩を遂げている証拠と言えるだろう。まさに、人類が核を支配し、管理することができるのか、ホモ・サピエンスから、ホモ・デウスへとアップグレードする神人類としての試金石を課せられている。

ユバル・ノア・ハラリ氏が著書ホモ・サピエンス全史の中で指摘しているように、人類は、農業革命、工業革命を経て、さらに、サイバー空間に加えて、宇宙空間の商業市場が急拡大を遂げる中、情報革命、宇宙革命に挑戦することで、ホモ・デウス、神人類に進化を遂げるのだと。 道具(望遠鏡)technologyばかり発達、発展、進歩する今日だからこそ、道具を観る眼theoryを、自分流にいえば哲学を超越する科学的解析を、養っていく必要が不可欠だということである。

それは、國分氏に反論するとするならば、サイエンス科学を掌握する哲学こそが必要だということである。現在のイスラエルの空爆と、それに対するパレスチナのイスラム原理主義ハマスの応酬の戦争の泥沼化にみられるように、人類の既存の宗教紛争、宗教戦争に終止符を打つためにも、人類の科学の普遍的価値観の浸透を図らなければならない。 二十一世紀の科学技術であるAI人工知能、自動運転、核・原子力、宇宙旅行、宇宙開発、宇宙進出、宇宙コロニーの創出の普及によって、人類観、世界観、宇宙観について人類に覚醒を興し、科学の森羅万象の法則を明らかにすることは、既に二十世紀に入ってから、アインシュタインの相対論と量子力学の発展によって私たちの常識が覆っていることからも、科学の合理的な考え方を普及させ、人類を迷信や偏見から解放して、宇宙や生命の神秘を解き明かすことが、従来の三大宗教の信仰理念に代替して、真に人類が正義を獲得し、その繁栄を享受することに叶うと私は考える。約百年前、アインシュタインの頭脳を戦慄させた現代理論核物理学を、今もう一度、自分の頭脳を震撼させることで、二十一世紀の先端核融合技術の青写真を蘇らせたい。

科学とはまさに、人類の精神の栄光に他ならないのである。ならば、人類はその栄冠に向かって、環境汚染や経済格差といった科学の副作用を克服して、文明を前に進めるべきではないか。科学とは人類の知の営みの根源であり、その存在自体が証なのである。 今、地球温暖化で地球が悲鳴を上げているからこそ、ひょっとしたら人類が地球に住めなくなる日に備えて、イノベーションによる科学を興すことが、特に宇宙科学を興す壮大なる文明を進化させることが、かつて李氏世宗が、明からの内政の危機に陰陽説をたよりに訓民正音の天文学という当時にしてみれば先端をいく宇宙科学の胎動を興したのと同様、必要とされているのではないだろうか。

つまり、核融合こそ新エネルギーとなり、宇宙空間へと経済活動領域を拡大して、名実ともに地球外生物ETに進化を遂げ、宇宙コロニーを創造する二十二世紀の新人類文明に、ブラーフマン梵(宇宙)とアートマン我の合一の俯瞰とも悟りともいえる、インド哲学をはじめとした人類の叡智の結集をみるのだ。

環境破壊が進む地球環境の保全に、喫緊性をもって取り組む必要があると同時に、地球環境の限界性も考慮に入れた上で、人類が地球にとどまらず、また宇宙環境にも適応できるように、宇宙開発、宇宙進出、宇宙植民を進めていくためにも、地球環境を最大限活用しつつ、宇宙開発との両立を図る、我々の文明を切り拓くべきときに到来していると言えよう。

原子力史とその展開についての要約

私たちは、広島、長崎の原子爆弾の被爆を経験した。米ソ冷戦期、軍事用の核兵器軍拡と同時に核の民生化も進んだ。アラブ中東諸国のナショナリズムの高揚で、原油価格の高騰オイルショックが起きた。環境負荷の大きい枯渇性資源である石油・天然ガスに代替する、世界的原発の普及をみた。二十世紀末のチェルノブイリ事故、二十一世紀初頭の福島事故で、従来の核分裂炉原発の安全性の再検証がなされた。新たに台頭してきた米中新冷戦、米朝核緊張から、先端環境科学技術の戦略的国際競争による技術淘汰が期待される。核分裂炉原発は廃炉に向かい、二十一世紀後半にも、究極のクリーンエネルギーとされる核融合エネルギーが実現するであろう。主導的役割を担う核融合は、補完的役割を担う再生可能エネルギーとともに、人類の未来の電力需要に貢献すると観測している。

核反応こそが、宇宙の星の生成と最期を決定する要因に他ならないのだ。確かに、核反応が起こす結果は、地上にいる人類にとっては甚大な事態だが、物理現象としては当たり前の事であり、核反応に対する過剰反応は、かえって誤解を招くものと考える。 むしろ、自分もまた星から生まれたと解釈できるように、自分の最後は、宇宙のガスとなり、そしてまた、新たな星として生まれ変わる運命を辿ることこそが、他ならぬ古代インド哲学が諭すブラーフマン宇宙とアートマン自我の理解と実践といって良いであろう。自分の涅槃は、科学を信奉するぼくにとっては、まさに宇宙との合掌なのだ。

九 神学に寄せて 科学は神を凌駕したのか

古代メソポタミア、エジプト文明は、肥沃な大地の上に営まれる農耕文化であった。文字通りカルチャーとは、耕すであり、その場合、宗教は当然土地に結びついていた。その神とは、豊穣と生産の神である。そこには、支配者と非支配者の関係が生まれ、人間の不遜さもまた生まれた。

それに対して遊牧民は、土地と結びつかない。草を求めて荒地を移動する。宗教も土地という空間ではなく、部族の歴史という時間を通じて人間に結びつく。その神は、豊穣と生産の神ではなく倫理観を持った神になる。何故なら、灼熱の太陽と荒地のもと移動しながら、自然との協調性よりも、厳しい決断が迫られるからである。

私たちの二十一世紀の歴史は、グローバル化、情報化、宇宙化の時代にある。従って、倫理観の神を紡ぐ遊牧民型の歴史を歩んでいるのではないだろうか。ならば、為政者の不遜の批難ばかりに甘んぜず、我々自らが、正しい決断を下して生きていく態度で、歴史というタペストリーを世界中の人々と一緒に織っていきたい。

自分自身の利己という灰汁を抜くために、荒行を乗り越えて、核・原子力問題、朝鮮半島問題などに翻弄させられたりはしたが、浮世の現世から来世の冥土の旅路に踏み入れながら桃源郷へと、密教を俯瞰した書道、茶道、華道を歩もうとする道の極みなのだ。 紫雲山頂法寺六角堂華道家元池坊の法門に入門したことで、外国への好奇心から深めた外国語熱を、今度は母国の伝燈文化を諸外国の方々に伝承して親睦を図り、政治外交がときとして立ち行かない中、雨華先生や友華先生、千恵先生から伝授された伝燈芸能によって、文化外交を推進していくことで、自分が初心に志した外交官としての努めを還元していきたい。

エピローグ

昭和の時代、敗戦からの混乱のどさくさのベビーブームが裏目に出て、大量生産、大量消費の、マス文化が暴力や偏見、差別を助長し、ある意味未熟な社会だったとも思え、自分もまた社会から疎外されることを余儀なくされたが、平成という禊を済まし、少子高齢化で社会の目が届く成熟化する中、令和の時代になって、ようやく茶道、華道を嗜む機会を通じて、自分の生きがいを感じられる人生の居場所を再発見できているような気がする。

読売新聞と中曽根康弘の大合唱で始まった日本の原発建設。それが、一九八六年ソ連現ウクライナのチェルノブイリ事故、二〇十一年東京電力福島第一原子力発電所事故を経て、二〇一四年には、スベトラーナ・アレクシェビッチ氏が著した「チェルノブイリの祈り」で、事故当時、事故後の生々しい甲状腺がんの後遺症の取材が叙述され、結果、彼女は原子力発電所のいわば甚大なる人災を告発してノーベル平和賞を受賞した。一方で福島第一原発事故の検証はまだ道半ばのまま、ウクライナ戦争や資源高、インフレといった世界情勢を受け、日本政府は原発再稼働、原子炉運転期間延長、さらには次世代型原発の新増設、核融合炉開発を決めた。

この決定に、安全性の確保を決して怠ってはならないことは言うまでもないが、フランスの原子力エネルギー安全保障政策を雛形に、エネルギー安全保障上、今後問題を起こしていた旧来型の原子炉の改良、技術革新が進めば原子力エネルギーが果たす役割は増すだろう。いや、日本の先端技術のイノベーションにおいて最新の原子力技術の知見を蓄積していくことは、日本の将来の科学技術競争力を高めることに直結する。それが、結果的には二十二世紀の究極のクリーエネルギーの切り札である核融合エネルギーの実現に弾みがつくのだ。

同時に、ロシアによるウクライナ侵攻で、広島、長崎の惨禍の再現が、ロシア軍によるウクライナへの核攻撃の可能性も否定できない。民生用の核利用の活用策を今後も見出していくとともに、世界的核軍縮の潮流を後戻ししてはならない当然のことといえるだろう。ザポロージャ原発へのIAEA国際原子力機関による査察も功を奏すことが期待される。

星の核反応を上回る現象があるとすれば、ブラックホールのような極大電磁場における反重力波のようなことが考えられる。私は科学を信奉するひとりとして、科学の栄光を追求して、その栄冠を勝ち取りたい。同時に今日の地球温暖化の問題は、科学技術そのものにあるというよりかは、自然科学や科学技術が、その時代、時代の社会の要請に応じて淘汰されていくように、長期的に見て科学技術の開発をどのように進めていくべきなのか、我々の民主主義社会、資本主義社会が決定を下す、その動機付け、インセンティブ誘因を導き出す経済学の手にかかっていると大守隆氏は指摘している。私もまた、自分の後生を環境エネルギー経済学に著述活動を通じて捧げてみたいと思う。

ただ実際に、ウクライナ核危機が、現実の脅威となって迫りくる中、科学サイエンスにしろ、経済学にしろ、アカデミズムに手を染めるのは、百寿からの抱負として、今は、ウクライナ核危機や、核融合技術に礼節を重んじて対応する剣道、書道、茶華道の道を究めることを精進したい。

遥か昔、古代ローマの時代、地中海を中心とした世界に、ローマ帝国が繁栄して、パックス・ロマーナ(ローマ帝国の平和)が成立していた。それを媒介していたのは、後の西洋文化、西洋文明、西洋諸語に多大なる影響を及ぼしたラテン語である。古代ギリシャ語から引き継がれたラテン語は、ローマ法などに受容された後、カトリック教会の公用語としては引き継がれる。十六世紀に入ってマルティンルターが宗教改革を唱えると、その影響も影りを見せるが、ローマ法の精神は、今日の私たちの法体系まで脈々と受け継がれている。ルネサンス期のイタリアのラウレンティウス・バッラは、ラテン語による正確な意思疎通こそがローマ文明の繁栄に不可欠だと説いている。ローマ文明ほど、人類にとって普遍的に受容されている訳ではないが、二十一世紀を迎え、分断と格差が席巻する国際社会において、いわばカオス混乱が潮流と言える中、日本文化の根底に流れる、和の精神ハーモニーこそ、世界中から外国人観光客が後を絶たない、日本が果たすべき役割の、グローバル社会において、パックス・ジャポニカ(日本文化による平和)を創出できるのではないかと思う。

このように、私の関心事項を核物理学、環境エネルギー経済学などと挙げてきたが、社会全体がAIによる自動オートメーションを覆うなか、市場が核物理学を求めているから、原子力や核を是とするのは拙速である。大守隆氏は、地球温暖化の問題を科学ではなく、雅子皇后が関心を寄せた環境エネルギー経済学の問題だと指摘しているが、私は市場の失敗も考えると、民の道徳心を決める環境倫理学が最後の鍵を握っていると思う。善悪の判断を市場に委ねるのではなく、AIか奴隷の違いはあるにせよ、どちらも人文科学を吟味するヒューマニズムの流れを汲む、まさに心の時代とも言える、二十一世紀からの時代を生きる私たちこそ、古代ローマ時代の哲人政治の原点に回帰して、人類が持ち得る高次元的なフィロソフィア哲学、倫理学に訴えて、宇宙の、世界の、グローバルの、日本の、環境の、医療の、応用倫理学を網羅するため、主にマイケル・サンデルが指摘する市場経済限界論からの公共善の導入を軸とする、百寿からのアカデミズムの抱負を倫理学としたい。言ってみれば、法と倫理の間に齟齬がある。だからこそ成人であれば、経験則からより高次な複眼的倫理観をよく見極めた上で、知識から学んだ事を参照して、人生に於いて実践を心掛ける事が涵養なのだと自覚した。

昨日TVで言っていたが、ゴルバチョフとレーガンの粘り強い外交による冷戦終結までは、国際政治が上手くいっていた。しかしそのあとのアメリカのロシアに対する姿勢がまずかった。ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)申請した際、ロシアは自分の勢力圏が崩れるとして反対した。アメリカは自陣に取り込もうとしたが、フランスとドイツは棄権した。結果ウクライナのNATO加盟は延期になったが、それにより、ロシアによるクリミア併合を許した。さらに今回のロシアによるウクライナ侵攻で、トランプは富裕層の顔色を伺い、バイデンは中間層の支持を訴えた。しかしアメリカのロシアに対する経済制裁は、発展途上国の食糧危機、エネルギー危機、物価高を無視する形で行われた。発展途上国の支持なしに進めるアメリカのロシアに対する経済制裁は、いわばご都合主義であり正義に叶っていない、とフランスの元外相は指摘する。ロシアが「小さな中国」から「大きなイラン」へ「ならず国家」化するなか、台湾情勢や北朝鮮情勢など、地域紛争の頻発化が予想される。フランス元外相は、アメリカがもはや世界の警察を担えない中、世界情勢はG7からG0へと凋落して、アメリカ追随主義でないド・ゴール外交が幅を利かしたように、日本も自主独立、自主外交を進めるべきだと提言して、彼は締め括った。ぼくが言える事は、日本はいつも欧米を向くと言う事だ。だから、日本は今こそアジアの友人を作って、それでこそ真の安全保障を構築出来るという事だ。

大阪大学の石黒教授のAIについての議論があったので、ぼくも整理したい。AIは近視眼的に見て、労働生産性を向上し、労働不足を解消し、我々の生活をより一層便利にするかに見える。しかしAIの使い手である人類とは一体何なんだろうか。

「グローバル」と名の付くリバタリアニズムが覆う新自由主義経済がモノを言う現象は、かつてなく、その経済において、ヒト、モノ、カネ、サービスが流動化している。しかし、それとは裏腹に、政治の世界では、ごく少数の有産者と、負の外部化、収奪、中心の豊かさを捻出する代わりに、貧困層が周辺部へと追いやられるグローバルサウスが象徴する、分断と格差社会で疲弊し、戦争の誘発の危険度は益々高まるばかりである。

二十世紀、人類は、社会主義の実現という目標に向かい、あるいは、民主主義という目標に向かい、時に戦い、時に友になり、人類は理想を掲げていた。我々は理想に向かって、夢に向かって邁進していた。

しかし、冷戦が終焉し、パワーゲームやマネーゲームが世界を覆うようになった二十一世紀、私たちは、生き延びることしか、カネを稼ぐことしか、生きている目的を見出せずにいるのではないだろうか。生き延びることしか、カネを生み出すことしかできない社会とは、狂気の沙汰を生み出すことしかできない地獄としか言いようがない。

人間とは、利己的であると、同時に利他的でもあり得る。二十世紀はイデオロギーという理想を掲げていただけに、我々はかつてなく利他的であった。イデオロギーの元は、イデアである。プラトンが見出したイデアこそ、AIには真似のできない人間が人間たる源泉である。時に、煙草を燻らすひとときに、人類の営みの元となる偉大なるイデアは生まれたはずである。

二十一世紀という時代はかつてなく最悪ではないだろうか。人類はもはや、他の霊長類にも劣る利己的な存在と化しているのではないだろうか。チンパンジーにも劣る人類が、もはや、言語生成AIや画像生成AIを妄りに使い出せば、制御不能な自己学習兵器を設計、製造、展開によって、AIという存在が、核兵器全面戦争や、パンデミックより恐ろしい存在であることを認識する必要がある。メディアでは、アルコール飲料のCMが溢れ、煙草の市民権は益々失われるばかりである。我々人類は、資本主義という狂気と欲望に呑まれないよう、良識というイデアを覚醒し、駆使してこそ、科学技術社会を営むことが活かされるのだと肝に銘じるべきだと、私は信じている。


最も尊敬する有名人 李氏朝鮮王朝第四代王位世宗大王(永年にわたり、シビリアンコントロールをもたらした父として、高麗王朝が仏教国だったのに対して朝鮮王朝が儒教国であるにも関わらず、東方礼儀の国と讃えられる朝鮮を率いた世宗は、厚く仏教を信奉しながら、渾身の力で当世一流の天文学は、後世の現代物理学の発展に先見の明があったと言えるかもしれない。儒教や、後の室町時代に立花として確立された華道の、陰陽五行説から影響を与えた、天地人観の宇宙哲学と宇宙科学を備えたハングルを創生して、また倭寇対策にも対処して、茶の湯の文化に欠かせない先端陶磁器技術を日本に伝播したその文民政治は、中世、近世の日本の安全保障にも寄与した。晩年に、吉永慶太や高野厚との親交に加えて、文鉉伊と無ニの親友になれたことは、自分の名の信が五行説から友を表すことからも、それを裏付けているのかもしれない。

最も好きな言葉 人間万事塞翁が馬

もっとも好きな格言 上医医国、中医医人、下医医病。下医は病を治す、中医は民を治す。上医は国を治す。小品方 陳延之

最も好きな洋楽 Queen

最も好きなJ POP King Gnu

最も好きな曲 布施明 My Way

著者プロフィール
小林信司 一九六九年兵庫県西宮市生まれ。一九九三年早稲田大学法学部卒業。

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