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「#わたしのマンガを見て」でご講評頂きました‼️☺️

今年の春先にnoteさんの企画で「わたしのマンガを見て」という企画があり、
応募させていただきました。

その中の「政とイチ」七巻 ー妊娠編ー
マンガMee編集部さまからご講評を頂くことができました‼️

ありがとうございます‼️

マンガMee編集部さま‼️😭🙏✨✨

とっても嬉しいであります‼️
ありがとうございます‼️

マンガMee編集部さまに幸あれ‼️
note編集部様に幸あれ‼️
読んでくださった方に幸あれ‼️

(↑丸尾スエオのようにうるさい😂)


あらすじは省きますが、作品は宮沢賢治のお父さんである宮沢政次郎と、お母さんである宮沢イチの、花巻を舞台にした夫婦ものです。


これまでのお話はマガジンを作ってありますので、よろしければどうぞ〜☺️


わたしのマンガは異様に密量が濃く、
描いていてしんどい時があるのです。。。。🫠

例↓


原稿をラクに作りたい。。。😇白い部分を増やしたい。。。
というなんともけしからぬ気持ちで子供が学校から帰ってくるまでの限られた時間に、1日一枚を目標に、投稿サイトにアップしていました。
(ページ一枚づつにタイトルがあるのはそのためです)


トーンを使わない
全て100均の筆ペンで作成
描き込まず余白の練習をする

という三つを念頭に練習がてら制作しました。

あまり深いことは考えず、とても楽しく描いていたものを、丁寧にご講評くださり、本当に嬉しいです。
マンガMee様、ありがとうございました‼️🥲✨✨
またnote編集部様、素敵な機会をありがとうございました‼️✨✨🌈


🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷🌷

さて。。。。

以下は今回のマンガの補足です。

マンガの説明って、あんまり面白くないものだとも思うので、
歴史や時代背景にご興味のある方だけどうぞ☺️💦


「第七巻」について、マンガメイキングを、
明治中期当時の風俗を交えながらお話したいと思います。

七巻1枚目。

今でも花巻祭は有名ですね😊

明治当時。
花巻の大祭は各町がバチバチ🔥に競い合うような気合の入れようでした。
まだ電信柱が立ってない時だったので、とっても高い山車が各町の威信をかけて作られていました。
取材に行った時、観光センターのようなところで当時の写真を拝見したのですが、


賢治の家がある豊沢町、明治30年ごろの山車。
豊沢町と競い合っていた鍛冶町(イチの生家がある)の明治40年代の山車。


た。。。高い。。。。(゚o゚;;
家の高さ二つ分あるんじゃ。。。。

えーと。。。。今ではちょっと作れないですね。。。。


資料では、「写真集 花巻」(国書刊行会)で当時の山車の豪華さがわかります。
電線が作られると山車の高さも低くなってゆきました。

花巻は県央に位置し、農作物は米や雑穀、しとねものが作られました。
粉に水を加えたものをしとねる、といい、小麦粉やそば粉、上米粉、くず米粉などを使って日常食や晴れ食が作られました😊


農作業がひと段落する秋には、秋ぶるまいとして、

(例)

もち(小豆もち、くるみもち、ごまもち、おつけもち、納豆もち)
刺身(たこ)
いかと芋の子汁
なます、あえもの、甘煮(干し豆腐、にんじん、ごぼう、かぼちゃ、身欠きにしん)
するめのかす漬け、漬物。。。
などなどがご馳走としてお酒と一緒に出されたようです。

やはりもち文化が多彩だったようですね☺️✨✨

(参考 「聞き書 岩手の食事」農文協より)

さて。。。
作中にもある奇怪な「油とり」の存在。
これはwikiから発見しました‼️


明治維新の頃、遠野地方で「油取り」と呼ばれる人さらいの噂が広がり、大パニックに陥ったそうです。

また、違う巻ではトミちゃんがコックリさんをやるシーンがありますが、
宮沢家の子供は賢治さんをはじめコックリさんが大好きで、しょっちゅうやっていたそうです😂
特に賢治さんは催眠術家にも弟子入りしていたことがあるので、結構なオカルト好きだったと思います。

「鼬幣稲荷神社」は、花巻にある神社です。
(お守りは創作で作りました)

賢治さんにもゆかりがある場所で、こちらの神主の息子さんと賢治さんは同級生でした。
息子さんは東京帝大に進学するのに、自分は家業を継ぐために進学ができず、複雑な想いを吐露している歌もあります。

また、彼の下宿先で萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会ったことで、創作の刺激を受けたエピソードもあるようです。


お話の中盤はイチの妊娠。


イチさんご懐妊のシーン。

現実では宮沢政次郎とイチが結婚したのは1895年師走。
イチはすぐに懐妊し、それまで不慣れだった家事(特に魚料理)を鍛えるためにも、早いうちにお里へ帰っております。

結構忙しないですね😅

拙作では、政次郎とイチの二人の夫婦生活をじっくりと描きたいがために、わざと一年ほど早く結婚させています。

また、実際はイチが早く里帰りしたのはお産が重かった、というよりは不慣れだった家事を鍛えるためだったようでもあります。

なので、イチさんのお産が重かったエピソードは創作です。

史実とは異なりますが、出産した人の話をきくと。。。

「切迫流産寸前で産む直前まで、ベッドを離れてはいけなかった。
トイレ以外はずっと寝ていた」

「つわりが酷くて、吐きながら仕事をしていた」

という恐ろしい話をよく耳にしますよね。。。( ;  ; )

今も昔も子供を育み産むのも命懸け。。。。

10ヶ月も不安を背負いながら、自分の体が全然今までの自分の身体でなくなる、コントロールが効かなくなる不安感と苛立ちを表現したくて、イチの妊娠期間は重い症状を描くことにしました。


笑顔で毒を吐くおばあのシーン。昔は出産出来ない女性は「石女」として離縁の理由にもなりました。
本作の政次郎の姉ヤギは理由は不明ですが不縁で実家に出戻っています。女性って求められることが多すぎて嫌になりますね。実際はヤギは仏心深く、賢治さんに強い影響を与えています。

明治期は物売りの時代でした。

春先には盛岡では、「花コラー」の掛け声とともに、
ネコヤナギを売る物売りもいたようです。
岩手ではネコヤナギは春の訪れを告げる花として昔から馴染みが深いようで、

賢治さんの妹トシを想う「春と修羅」の「恋と熱病」でも登場します☺️


そして、政次郎の友人が帰還する場面。

菊池君は作者の想像の人物です💭

日清戦争で、戦地から無事に帰還した菊池は、隕石を御守り代わりにしていました。

実際江戸後期に陸前高田に隕石は落下したそうです。
その珍しさから病気に効くと言われていたとか。


そして、三陸海岸での奇妙な兆候の場面。


三陸大津波が発生する前に、その兆候だったのか、マグロやイワシ、カツオ、ウナギが異常なほどの豊漁だったとのこと。

安政期にも酷い津波にあっている経験から、
村の古老たちは、当時とよく似た兆候をみて、津波の前触れではないか、と警告していました。

大津波に関しては、吉村昭著「三陸海岸大津波」をおおいに参考にしました。


大津波が襲った6月15日は、陰暦で5月5日の端午の節句でした。

明治中期とはいえ、人々は陰暦でお祝い事を祝っていたようです。



資料を読んでいると、
昔の端午の節句は非常に大切な行事だったことがわかります。

菖蒲の物売りがきて、軒先に飾り、今でも残る菖蒲湯の習慣がありました。

菖蒲は古くから邪気払いとして使用されてきたそうです。

病気の治したいところに菖蒲の葉を巻いたり、お乳の出をよくするために巻いたり、頭のいい丈夫な子に育つよう頭部に巻いたり。。。という習慣もあり、まだ医療が発達していない昔の人の健気な想いが感じられます。

また、端午の節句朝一番に山野に薬草を摘みに行く習慣もありました。

今では廃れましたが、菖蒲を束ねて菖蒲刀を作り、叩きあって、どちらが大きな音が出るのか比べる菖蒲叩きの遊びも子供たちの間で流行っておりました。

今は端午の節句というよりは「こどもの日」となり、鯉のぼり🎏をあげる家も少なくなり、ご馳走食べて菖蒲湯につかる。。。❓くらいになってしまいましたが、昔は様々な行事や習わしがあったと思うと、少々勿体無い気持ちになりますね☺️


最後のシーン。
弟の治三郎が駆けつける場面です。

治三郎はカメラマンだったという史実があったので、創作で新聞社に勤めている設定にしました。


東京の内務省に三陸の大津波の報告がなされたのが、翌日16日午後3時。

すぐに携帯の非常アラームが鳴る今と違い、当時は地方と中央の隔たりが大きく、情報手段がいかに未熟かつ不足していたかがわかります。。。


次回の内容はこちら。

ご興味がありましたらどうぞ☺️✨


長々とした説明くさい文章になってしまいましたが💦
ほんの制作の一片の裏話でした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました😊‼️



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